サーベルを手にしたアンナを見て、ベレス伯爵は大きく喉を動かしながら唾を飲み込んだ。

「ベレス伯爵。あなたは、陛下の名のもとに保護した身柄のため、不当な取り調べをすることは許されておりません。しかし……」

 アンナは剣の切先をペティア夫人に突きつけた。

「ヒィッ!?」

 宮廷に仕えて数十年、鼻先に刃を突きつけられたことなどないであろう老婦人は甲高い悲鳴をあげで震える。

「ペティア夫人は罪人としてここに連行された身。捜査のため多少手荒なことはやむを得ないと、私は考えています」
「……なんと卑怯な!」

 ベレスは恐れと絶望、さらにそこに憎悪が混じった瞳でアンナを見る。

(卑怯? あなた方がそれを言う?)

 アンナは4年前の一連の出来事を思い出す。グレアン伯の裏切り。出頭命令。誰一人味方のいない審問会。そして、この監獄の城で飲まされた毒のワイン……。

「伯爵。あなたに一つ教えてあげましょう。あなたが盟主とあおぐクロイス公と、私の何が違うか」

 アンナは冷たい声で言う。その間も、ペティアに突きつけた刃は動かさない。

「あの方は決して自分で汚れ仕事をしようとはしない。いつだってそう」

 クラーラの密告で消えたアンナ暗殺計画もそう。皇帝の小麦事件で明らかになった先代グリージュス公による横領もそう。そして恐らくは、クロイス派とサン・ジェルマンの繋がりも、この男に全てを任せて本人は安全なところにいるのだろう。

「私は違う。私は、自分の手が汚れることを恐れない。必要とあらば、前宮廷女官長の身体を斬り刻みだってします」
「嫌あああああっ!!」

 アンナの恫喝にペティアが悲鳴をあげた。

「たっ確かに宮廷費の横流しは認めよう!」

 たまらずベレスは言った。

「しかし、ごくごく少額だったはずだ」
「ええ……確かにそうですね。あなた方の着服としては、とても慎ましい金額でした」

 アンナは抑揚のない平坦な口調で、皮肉った。

「そ、そうだろう? こう言ってはなんだが、皆がやってることだ。クロイス派だけではない。宮廷や帝国に使える歴代の要人の誰しもがやっていたことだ。その中で我々の悪事など微々たるものではないか」
「いいえ、その金額だからこそ問題なのですよ?」
「なに?」
「あなたは国の内外にいくつも別荘を持っていらっしゃる。全て、民の血税を使って購入したものです」
「う……ぐ……」

 フィルヴィーユ派の官僚達が調査の途中で発見した副産物だ。この男の言う通り現閣僚たちは皆、似たようなことをしている。

「あなた方2人がどこかへ送金した金額はそれに比べれば確かに少額。総額でも1/10にも満たないでしょう。しかしそれが問題なのです」
「どういう……事だ?」
「その程度の金額を横領するのに、あそこまで手の込んだ偽装を施す。それ自体が、疑惑になっているのですよ。帝室を裏切る卑劣な陰謀の疑惑に」
「ななっ……そんなのは言いがかりでは」
「言いがかりでもなんでもよろしい!」

 アンナは叫び、ベレスの抗弁を遮った。

「やっと見つけたサン・ジェルマンの尻尾を掴むチャンス。ここで逃すわけにはいかないの! なんとしても彼がしてきた事を白日の元に晒してやる!」

 ほとんど私怨から出た言葉だが、それが帝国の未来のためとアンナは信じていた。
 アルディスを殺し、ホムンクルスの偽物を据え、一方ではアンナのような復讐鬼を生み出した。帝国にとって好ましい存在であるはずがない。
 そして彼の正体と目的を明らかにしない限り、アンナ自身も彼の手駒でしかないのだ。
 もはやサン・ジェルマンは、命を救い復讐の機会を与えてくれた恩人などではない。アンナにとって、明確に敵なのだ。

「さて、前置きが長くなりました。ペティア夫人」

 アンナはペティアの顔を見る。声帯が疲れ切ったのか、彼女は悲鳴を上げることをやめ、ただ歯をガチガチと震わすだけになっていた。

「あなたには思うところが、いくつかありましてね。今こそ、ささやかながら恨みを晴らさせていただきます」
「や、や……やめなさいグレアン夫人……」
「ほら、それ! ……相変わらずですね」

 アンナは嘆息する。

「この期に及んで、まだ女がグレアン家の当主となった事を認めませんか? その古めかしい価値観でどれだけ宮廷を縛り付けてきたのです?」

 サーベルの刃がペティアの首元を撫でる。ぷっ……と赤いビーズ玉のような雫が吹き出し、鎖骨に向かって流れていった。

「あ……ああ……」
「やめろ!やめてくれグレアン侯爵!」

 背後でベレスが懇願する。アンナはそれに、抑揚のない冷淡な口調で返した。

「もはやあなたには何の情報も期待しません。そこで、私が夫人を拷問するのを見学していてください」

 マルムゼのサーベルは、非常によく研ぎ澄まされている。ペティアの首の皮に赤い直線を引いたそれは、そのまま彼女のドレスの飾りリボンにあたる。するとリボンは、するりと絡まった糸が解けるように真っ二つに割れて落ちた。
 さらに切先は、ペティアの服か肌か髪か、傷つける場所を探しては刃をあて、それを両断する。
 まだ痛みのない箇所を切っているだけだが、ペティアの顔は蒼白になっていた。
 こうやって恐怖心を煽る。そして頃合いを見て、次の段階へ移す。明確に痛みを感じる肉や骨を斬っていくのだ。

「やめてくれ!! 話す! 何でも話す!!」

 しかし、その段階へ移る前にベレスが耐えきれなくなった。

「頼む……全て話すから、夫人を解放して欲しい」
「い、いけません!ベレス伯爵!!」

 これに驚いたのは、アンナよりもペティア夫人の方だった。悲鳴で潰れかけた声帯を震わして叫ぶ。

「この者たちに話せば、この国は終わりです! 私のことなど気にしないで! どれだけ切り刻まれようと、覚悟はできています!」
「許してくれ夫人。私はあなたほど強くない。もう限界だ。これでも40年前、あなたに恋し慕った想いが残っている。あなたが傷つく姿など見たくないのだ」

 アンナは特に感慨も抱かず、その言葉を聞いていた。2人がかつて、そういう関係だったことも調査済みだ。

「私は今や、クロイス公の犬と成り下がり、その首輪すら捨てられようとしている。けど、あの頃から何一つ変わらず、高潔なままのあなたが、私をまた必要としてくれた。そのことが嬉しかったし、何よりの誇りだ」
「わ、私の方こそ、ごめんなさい……クロイス派に繋がりが必要だったから、大臣となったあなたに声をかけたのです。あなたの想いを知りながら、それを利用しました……」

 ペティアはそれからしばらくの間、嗚咽し続けた。そして、涙が流れ切ると、彼女はぽつりとつぶやくように言った。

「剣を収めてください」

 つい今しがたまでの動揺とは打って変わった、落ち着いた声。そして女官長時代と同じ毅然とした目で、ペティアらアンナの顔を見つめた。

「これ以上、ベレス伯爵にも迷惑をかけるわけにはいきません。全てをお話しします、グレアン()()
「……」

 その呼び方で全てを了承したアンナは、マルムゼに剣を手渡す。切先についたわずかな血液が拭かれると、刃は再び黒革の鞘へと戻された。

「この件の主犯は私です。ですから伯爵は解放してちょうだい」
「ご協力いただけるのでしたら、お二人の自由と安全は保証します。ペティア夫人」

 その回答に、ペティアは頷いた。

「グレアン侯。私は決してあなたの実力を認めていなかったわけではありません。そして、その実力があるからこそ、この話をさせて頂きます」

 突然の逮捕にうろたえ、突きつけられたサーベルに恐怖していた老婦人はもうどこにもいなかった。決意に満ちた顔で、アンナに警告する。

「だから覚悟してください。この話を聞くと言うことは、この国にかけられた呪いと対峙するということ、そしてこの国の平和のために尽くす責務を課されるのだということを」
「もとより私は出自からして呪われているようなもの。それにこの国の平和に尽くす責務なんて、とうに背負っています」

 アンナは平然とそう言ってのけた。

「いいでしょう。では、お話しします。黄金帝リュディス5世なる人物がこの国にかけた忌まわしき呪いの物語を」