そしてグリージュス公の裏切りに誰よりも動揺したのが彼女だろう。

「早く出ていきなさい!」
「し、しかしお嬢様……」
「お嬢様? この屋敷の人間はいつまで私の子供扱いするの! 私は未来の皇帝の母に……皇太后になる人間よ!」
「そ、それは……」
「お体に障ります。御子のためにもどうか落ち着いてください」
「うるさいうるさい!そんな思ってもないこと言うんじゃない!!」

 帝都郊外にあるクロイス公の別邸。ここに、先帝の寵姫ルコットが移り住んでいた。
 皇妃派が身重の娘に危害を加えること恐れたクロイス公が、宮殿からこの屋敷に移らせたのだ。彼女の静養も兼ねて静かな土地を選んだというが、かえってそれが逆効果となってしまった。
 世間から隔絶されたところでも否応なしに聞こえてくる、グリージュス公裏切りのニュース。それはルコットの情緒を不安定にさせてしまっていた。

「クラーラ……どうして……」

 激しい剣幕で使用人たちを部屋から追い出したルコットは、布団にうずくまりつぶやいた。涙声だった。

 クラーラはルコットの取り巻きの筆頭だった。自分を裏切るなんてありえない。そう思っていたのに……。

 どうしてこんな事になってしまったのか? 何かがおかしい。
 自分はアルディス陛下に愛されていた。あの女(皇妃)よりもだ。
 本来ならクラーラの計らいで、彼女はとっくに廃妃されていてはずだ。そして陛下の子を身ごもった自分が皇妃となる。そんな筋書きだったはずなのだ。

 その陛下の子についても不安だった。
 もうすぐ臨月だというのに、ルコットのお腹はそれほど大きくなっていない。少し前から胎児の成長が止まってしまったかのようだ。
 そればかりか、最近は不快な夢ばかり見る。ルコットのお腹に何も入っていないという夢だ。いよいよ出産というところまで来て、侍女たちや医者に囲まれて準備を始める。陛下や父クロイス公までもがその様子を不安そうに眺めている。
 そんな中でいきむが、いつまで経っても産声は聞こえない。そしてまるで空気だけが詰まっていた皮袋のように、みるみるお腹がしぼんでいく。
 そして陛下や父はがっかりしたような顔を見せ、ルコットの周りからは誰もいなくなってしまう。
 そんな絶望的な悪夢……。

「どうして……? どうしてこんな事に……?」

 その問いを今度は口に出す。当然ながら、使用人たちを追い出したその部屋に、答えてくれる者はいない。
 しかし、ルコットの頭の中には、明快にその解答が用意されていた。

「あの女……グレアン……!」

 あの成り上がり女がすべての元凶だ。あれが皇妃に取り入ってから何もかもおかしくなった。
 直接顔を合わせたことは一度しかない。確かあの女が前女官長ペティア夫人と口論していた時だ。
 
 その一度で、ルコットははっきりと自覚した。ああ、私はこの女が嫌いだ、と。
 あの目。明らかにルコットを見下すような冷たい眼差し。宮廷の女で、ルコットにあんな視線を向けてくるのはただ1人、グレアンだけだった。
 寵姫としての度量を見せるため、自分の下に来ないかと誘いはしたものの、もちろん本心ではない。あの程度の言葉で皇妃を見限るはずがないと、分かった上での戯言だった。

 そんな女が、ルコットの人生をめちゃめちゃにした。
 許すことはできない。

「殺してやる……絶対に殺してやる……!」

 父も遠縁の聞いたこともない小貴族を使って暗殺を企てていたらしいが、クラーラが密告したらしく、計画は立ち消えになっていた。
 しかし、誰かがあの女を殺さなければならない。
 そうでなければ、クロイス公爵家に、そして生まれてくる陛下の子供に未来がない……!

「お、お嬢様……」

 その時、使用人が恐る恐るドア越しに声をかけてきた。

「……何よ?」
「その……お客様がお見えです」
「客?」

 父はルコットがこの屋敷にいる事をどこにも漏らしていないはずだ。
 なのになぜ、訪ねてくる者がいる?

「いったい誰よ?」
「ウィダス前大臣……いえ、今はウィダス子爵と名乗っておいででした」
「ウィダス?」

 意外な名前だった。
 アルディス3世陛下が健在だった頃、戦争大臣として軍務を司っていた青年軍人だ。
 亡きアルディス陛下の幼馴染であり、近衛隊に入ってからも陛下直属として、密偵のような任務に着いていたという。
 陛下を影で支えてきたその功績が認められ、戦争大臣という要職についたものの、皇妃派の連中による陰謀で職を追われてしまった不遇の人だ。

「すぐにお通しして! それと着替えを用意なさい」

 どうやってここを知ったかなんて、どうでも良かった。
 彼は、グレアンの女狐によって理不尽な仕打ちを受けた同志だ。彼ならば、私の今の憤りと哀しみをわかってくれる。ルコットはそう信じて疑わなかった。

 * * *