「いいでしょう」

 翌日は、皇妃の公休日で政務や謁見は行われなかったため、マリアン=ルーヌは皇妃の村里(今のところ、この名の改称予定はない)で読書に耽っていた。
 アンナとクラーラはともに村里を訪れ、後見人の件を話をすると、皇妃はあっさりと承諾した。

「……よろしいのですか?」
「ええ。女一人でグリージュスほどの大きな家を差配し、さらに御息女の将来を憂いて……さぞ不安だったでしょう。少しでもあなたが楽になるための手助けが、私に出来るのでしたら」
「あ、ありがとうございます……しかし……」

 クラーラは皇妃のにこやかな表情に戸惑っていた。

「何かしら?」
「その……私はかつて、陛下に対してひどいことをしました。とうてい許されるべきではないことを……」

 あの茶会の一件だろう。当時、自室にこもってばかりだった皇妃をたきつけ、茶会を開かせようとした。右も左もわからない彼女をサポートするふりをし、後には引けなくなったところで梯子を外し、彼女に恥をかかせようとしたのである。
 マルムゼの調査で、あれが寵姫ルコットの陰謀の一端であったこともわかっている。皇妃の名を貶め、廃妃に追い込もうとする、その最初の一手だったのだ。

「過去のことなんて、私にはどうでも良いこと。それよりも宮廷女官長と皇妃家政機関総監が手を携え、よき宮廷を作ってくれる方が、私には大切です」
「あ……ありがとうございます!」

 名門グリージュス公家の当主クラーラは、板敷きの床に頭がつくのではないかというほど低く跪いた。宮廷のマナーでは、たとえ君主に対してであってもこれほどの平身低頭はやり過ぎである。
 宮廷女官長ともあろう者が、それほどのことをするというのが、かえってクラーラ個人の切羽詰まった思いを代弁するようだった。

「ではアンナ。さっそく高等法院に連絡し、しかるべき手続きを行ってちょうだい」
「かしこまりました」
「頭を上げてください、グリージュス公。せっかくこの村里を訪ねてくれたのです。ゲストハウスで昼食を用意させますから、ぜひともご一緒しましょう」
「あ、ありがたき幸せにございます……!」
「案内させます。私とアンナは少し政務のことでお話があるから、後から行くわ」

 クラーラは嬉し涙をハンカチでぬぐいながら退出していった。

 部屋に二人きりになったところで、皇妃はアンナに尋ねる。

「彼女を厚遇するつもり?」
「まさか。あの方の才に限界があることは、何度か対立して知っております。それに……」

 使用人に案内され、ゲストハウスへ向かうクラーラを窓から眺めながらアンナは言う。

「あなた様がそれを望んでいないでしょう、陛下?」
「当然よ」

 新女帝の声音は冷たかった。

「過去のことはどうでもいい? そんなわけないじゃない。あの時、私がどれだけ不安で、心細かったか……!」

 ぎり……と、女帝は拳を強く握り込んでいた。
 一度は暗殺されかけ、視力を奪われ、引きこもるしかなかった女性を、無理やり外の世界を引き摺り出そうとしたのだ。ただ、笑い物にするためだけに。

「あの時、もしあなたが助けてくれなければ、今の私はありません。私が望むのは、あなたとの友情のみ。彼女の忠誠など必要としていません!」
「存じております。私も彼女に求めるのは、クロイス派を裏切ったと言う事実と、彼女が持つ人脈くらい。いずれ、相応の報いは与えるつもりです」
「わかりました。彼女のことは、全てお任せします。……でもひとつだけ」
「何でしょう?」
「私が後見人となる女の子については、きちんと遇し、ちゃんとした教育をさせて下さい。愚かな母の業を、子が背負う必要はありませんから」
「……かしこまりました」

 それこそが、マリアン=ルーヌという人間の姿なのだろう。アンナはそう思った。
 マルムゼ=アルディスの死をきっかけに、支配者として覚醒した彼女は、それまで抱え込んできた負の感情や酷薄さをさらけ出すようになった。
 しかしその一方で、彼女の善性が消えたわけでもない。自分をいじめてきた相手を憎みながらも、その娘には慈悲の心を持てる人なのだ。

 ほど無くして皇妃マリアン=ルーヌが、グリージュス公爵令嬢ユリリナの後見人になることが公式に発表された。
 アンナの目論見通り、それは貴族社会に大きな衝撃を与えることとなる。