皇妃の村落。農家を模したゲストハウスのひとつに、皇帝の亡骸は運び込まれた。
 何度見ても、その眉間に大きな穴の空いたその顔はアルディス3世のものだった。どうやらマルムゼ=アルディスの異能は、彼の死後も人々に暗示をかけ続けるらしい。そして術者本人が死んだ以上、その暗示は永遠に解けることがない。
 つまり、この数年間死を偽装され続けてきた皇帝アルディス3世は、今日この日をもってついに死者となったのだ。

「翌朝、陛下の死を公表しますが、それまでに我々がなさねばならぬことが山のようにあります。それをひとつでも誤れば、私たちは破滅です」

 皇妃は毅然とした態度で、アンナとマルムゼ、そして近衛兵たちに語りかける。
 正直、皇妃がこのような状況に全く動じず、これほど堂々とした振る舞いを見せるのは意外だった。まるでこの日をずっと前から予期し、覚悟していたかのようだ。

「まずはアンナ、あなたにはきちんと説明をしておかなければいけませんね」

 盲目の皇妃が、アンナの方向に顔を向けた。そこに違和感を覚える。
 両眼が見開かれていたら、彼女の視線はアンナのそれと正確に重なったであろう。

「あなたが陛下とともに出発した後、私からマルムゼ殿に要請したのです。あなたの後を追うようにと」

 だからこそマルムゼはあのタイミングで駆けつけることができたのだろう。もし、彼がいなければ今頃どうなっていたか、想像するだけでもおぞましい。

「さらにその後ろを我々が追いました。マルムゼ殿が変事を察知したら、すぐに駆けつけられるように」
「そう……だったのですね」
「私は2種類の変事を想像していました。ひとつは陛下があなたに害を加えようとする状況、そしてもうひとつはあなたが陛下に害を加える状況」
「え……?」

 アンナは自分の心臓が一際大きく脈打つのを感じた。私が皇帝に害を……? いや、全くあり得ないわけではなかった。もともとあの男も復讐の対象に入っているのだ。今日のことがなくとも、いずれはその手で殺すつもりでいた。

「そして、私はマルムゼ殿に伝えました。どちらの状況であってもアンナを守り、陛下を殺すように、と」
「なっ!?」

 アンナはマルムゼの顔を見る。

「皇妃様のおっしゃる通りです。私はこの男の殺害を命じられました。しかし、最新的な判断をしたのは私自信です。そしてその判断が過ちだったとは全く考えていません!」

 マルムゼはその黒い瞳にアンナへの慈しみを満たしながら、そう応じた。

「それでは皇妃様は、最初から陛下を……」
「もちろん陛下が何事もなくただ狩りをお楽しみになるつもりでした、こうはなりませんでした。けど……仕方ありませんわ。だってこの亡骸は本当の陛下ではないのでしょう?」
「なぜ、それを……?」

 今自分が話しているのは、本当に皇妃マリアン=ルーヌなのか? そんな疑念を抱いてしまうほど、いつもの彼女とは別人だった。その上、この亡骸の正体まで知ってる? 一体どういうことなのだ?

「きっかけは、あなたに花畑の景色を見せてもらった事だと思うの、アンナ」
「花畑?」
「そう、あなたの持つ不思議な力で一時的に視覚を取り戻して……それで気づいたのよ。あなたが手を離し、世界が暗闇に包まれた後も、ほのかに光が残っていることにね」

 この人は何の話をしているのだ?

「すぐにそれは特定の人から発せられているのだと気がついた。特に強い光を持つのは、リアン太公や我が兄ゼフィリアス。他の皇族の方々や、一部の貴族にもほのかな光を放つ方はいましたが、この2人はとりわけ強かった」
「つまり……王家の血筋……?」
「そうね。確かに光を持つ方々の特徴として私もそれを考えました。でも一方でアンナ、あなたやマルムゼ殿からも強い光を感じるのです」
「え?」

 自分たちにも光が?
 いや、そういうことか。アンナは皇妃の言う光の正体が見えた気がした。

「でもあなたたちの光は少し違う。例えるなら……兄たちが自然の花の香りだとするなら、あなた方のそれは香料を調合して作った香水。どこか人工的なものを感じるのです」

 竜退治の英雄たちが使っていた魔法の力と、それを再現すべくサン・ジェルマンが生み出した異能の力。その差を皇妃は光として感じ取っているのだ。
 恐らく"鷲の帝国"の皇族に受け継がれてきた魔法の力の残滓。それが盲目という特殊な環境で、アンナの異能に触れた事で、活性化されたのだろう。
 全くの憶測だが、そう考えれば辻褄が合う。

「そして、アルディス陛下は人工的な光を放っていた。だから思ったのです、この人は本当の陛下ではない。何者かがアンナの持つような不思議な力を使い、皆をあざむいているのだと」
「そこまで……わかっておいででしたたか」
「そんな言葉が出るということは、正解なのね。そして、アンナはそれを前から知っていた」
「申し訳ありません。決して、皇妃様をあざむくつもりは……」
「いいのよ。あなたは私よりもより広く、深く物事を考えている。私に説明していないことなんて、星の数ほどあるでしょう」

 皇妃の微笑みはいつも通りの屈託のないものだった。
 アンナはその微笑みにほっとした自分に気づき、直後に無意識にこの人を恐れていた自分にも気がついた。

(優しいだけの愚か者? 違う、確かに私はそう思っていたけど、それは間違いだ)

 あるがままでいるだけで人の上に君臨する、紛れもなく王としての資質に恵まれた女性だった。

「皇妃様、連隊長閣下がお前です」

 皇妃付きの近衛兵の一人が、伝えてきた。

「わかりました。すぐにお通しして」

 近衛兵にそう伝えると、皇妃は再びアンナの方を向いた。恐らくはアンナが放っているという、異能の光で彼女の位置を特定しているのだろう。

「近衛連隊長のボールロワ伯爵がお見えになられたようです」

 皇妃はアンナに言う。ボールロワ伯爵は近衛兵の主力一万を指揮する人物だ。宮殿近くにある近衛府にいるはずだが、いつの間に、そして何のために彼を呼んだのか?

「アンナ、私に()()を預けてくれませんか」
「それ、とは?」
「あなたが肌身離さず持ち、今私たちが必要としているものです。それがあれば近衛連隊長を、いや帝国正規軍10万を味方につけることができる。違いますか?」
「まさか……!?」

 リュディスの短剣。なぜアンナが持っていることを知っているのだ?

「光を放つのは人だけではありません。あなたの懐の短剣は、兄やリアン大公以上に明るい輝きを持っています」

 短剣に秘められた魔力。つまり帝国の祖・リュディス1世の魔法の残り香を感知しているということか?
 様々な要因が重なり、彼女は今どんな錬金術師よりも、錬金術の真髄に近いところにいるのかもしれない。

「しかし、これは……」

 流石のアンナもためらいを覚えた。アンナはこの短剣を乱を起こさないための抑止力として用いるべきだと考えている。それをこの皇妃に渡して本当に良いのか?

「どうかしましたか?」
「いや、その……」
「ふふっ、いつもの私と違う態度に戸惑っている、といったところでしょうか?」

 皇妃は、はにかみながら言う。こうした表情は普段の彼女と変わらない。

「アンナ。あなたと出会った私には、欲が生まれてしまったようです」
「欲、でございますか?」
「ええ。視力を失った時、私はそれが自分の運命だと受け入れてしまった。ひっそりと皇宮の奥で、誰にも影響を与えず生きていくべきだと思い定めてしまった」

 確かにかつての彼女は世捨て人も同然であった。誰も必要とせず、誰からも必要とされない。ただ"鷲の帝国"との同盟を担保するだけの存在。
 それゆえに、アルディスもこの女性を持て余し、その心はエリーナへと向けられることとなった。

「でもあなたが現れ、私に色々な世界を見せてくれたのです。私はもう、かつての私に戻りたくない。そのためには前へ進むしかありません!」

 皇妃は改めて、アンナに向かって手を突き出した。

「今、手をこまねいていればクロイス公爵に先手を取られます。そうなれば私たちは今の地位を奪われるだけでなく、命すら脅かされる。違いますか?」

 違わない。皇妃の村里に立ち寄った後に皇帝が死んだのだ。彼は必ずそれを利用する。皇帝の死の責任を皇妃やアンナに押し付けるだろう。
 そして実際、あの男を殺したのは、マルムゼとアンナなのだから、追及を免れることは難しい。皇妃派はフィルヴィーユ派と同じ運命をたどることになる。

「かしこまりました」

 アンナは懐から短剣を取り出し、皇妃の手の平に乗せた。皇妃は古い鞘をぐっと握りしめる。

 覚悟を決めた。
 これはピンチなどではない。アンナが思い描いていた復讐の絵図を、一足飛びに実現させるまたとない好機なのだ!

「かくなる上は、あなた様にお願いがございます」
「何でしょうアンナ?」
「この帝国に君臨し、幾百万の民に安息と平穏をお与えください。そのために私は全身全霊をもってあなた様をお支えします。……女帝陛下」

 アンナがマリアン=ルーヌを新たな称号で呼ぶと、彼女は満足そうにうなずいた。

「もちろん、そのつもりです。我が腹心アンナ、まずは二人で宮廷を掌握しましょう」