「あぁあっ!!」

 アンナは叫び声とともに全身全霊の力を込め、上にのしかかるマルムゼ=アルディスの身体を蹴り上げた。

「ぐっ!?」

 思わぬ反撃にひるんだ隙をついて、上体をひねり両肩を掴む腕を振り解く。そしてそのまま男の影から抜け出すと、十分な距離を取る。

「動かないで!」

 アンナは肩に担いでいた猟銃を皇帝に向かって構えた。

「今のはなかなか効いた。見かけによらず、かなりの脚力を持っている。もしかして君は私たちと同じか?」
「……」

 何も答えず、銃口も動かさない。が、マルムゼ=アルディスは彼女の表情から、何かを理解したようだった。

「以前からおかしいとは思っていたのだ。先代グレアン当主の急病、皇妃のほだされ方。君が飼っているホムンクルスの異能だけでは説明がつかなかったが、もう1人ホムンクルスがいるのなら納得できる」
「動かないで! 本当に撃つわよ!」
「やってみればいい。そうすれば、君は皇帝殺しの大罪人だ」
「どうでしょうね? あなたの異能の効果は、果たしてあなたの死後も持続するのかしら?」
「ふむ……なるほど、確かに検証した事はないからわからんな」

 ホムンクルスの異能の正体は、相手の脳に干渉することによって様々な現象を起こすもの、だという事は経験則からわかっている。が、その効果がいつまで持続するのかは定かではない。
 例えばアンナの"感覚共有"については、術者であるアンナと接触している人間のみが対象なので、深く考える余地はない。しかし、マルムゼの"認識明細"やこの男の"認識変換"についてはどうか?
 特にこの男の場合、術をかけられたものはこの男の亡骸を見ても、それが皇帝であると思わされてしまうのか……?

 そんな風に思考を巡らせたほんの一瞬。耳をつんざくような破裂音が炸裂した。直後、右肩に焼けるような熱さが発生し、思わず銃を落としてしまう。

「隙だらけだよ、侯爵。戦場で余計なことを考えるのは感心しないな」

 いつの間にか、マルムゼ=アルディスの手には短銃が握られていた。あれなら猟銃よりも小さな動作で発砲することができる。その小さな動作をアンナは見逃してしまったのだ。

「所詮は戦いの場に足を運んだことのない女子供。私の動きを制することなど、あたわぬ」

 偽りの皇帝はアンナの前に進み出る。そして、短銃をアンナの顎に添えると、銃口を上に向けさせるように持ち上げた。

「大人しくすれば、これ以上暴力を振るうことはしない」
「ふんっ!それなら異能を使って私を洗脳してしまえばいいじゃない!」
「ほう? 使って欲しいのか? それを望むというのなら、私無しでは生きられないよう認識を書き換えてしまうが?」

 この男に盲従する自分を想像し、全身に鳥肌が立つ。

「安心しろ。そんな無粋なことはしない。生き人形を抱いても楽しいことなどないからな。名門クロイスの愛娘、大国"鷲の帝国"の王女、そしてこの国に新風を巻き起こした才女。そういった者たちを組み敷いてこそ皇帝の……いや、男としての充足があるというもの」

 その言葉に、この男の行動原理が垣間見えた気がした。無より生み出され、偽りの皇帝としての生を命じられた存在。それが何を求めているか、が。

「今あげた3人のうち、1人目はもう十分に堪能した。残る2人のどちらかを私に差し出せ。皇妃か己か、好きな方を選ばせてやる」
「……うな」
「何?」
「アルディスの顔と声で、そんな下卑た事を言うな!!」

 怒りと悔しさで、涙がとめどなく溢れる。こんな男があのアルディスになりすましている。その事実が、ただただ許せなかった。

「アルディスの……?」

 アンナの涙ながらの抗議が、男の琴線に触れたようだった。何かを考えているようだが、アンナと同じ失敗をおかしてはいない。銃口はアンナの顎に突きつけられたままだ。

「お前がホムンクルスと仮定して……その魂には別の誰かが必要となる……。その聡明さ、クロイス派に対抗する派閥を立ち上げるほどの才覚……」

 マルムゼ=アルディスがつぶやくように発する言葉は、アンナの魂をまさぐり、その輪郭を確かめていく。そしてとうとう、男の思考は答えに到達してしまった。

「エリーナ? お前はフィルヴィーユ公爵夫人エリーナか!?」
「……」

 何も言わず、アンナは男の顔を睨みつけていた。しかしその表情は、言葉よりも雄弁に解答を与えてしまったようだ。

「なるほど。やはりお前だエリーナ・ディ・フィルヴィーユ! 他者に甘えてばかりの皇妃なぞより、お前の方が我が妻に相応しい!」

 偽皇帝の顔が歓喜に崩れた。もはや異能など関係ない。かつてアルディス3世がエリーナに見せた、慈しみに満ちた笑顔とは似てもにつかぬ醜悪な狂気の笑み。それをアルディスの顔と認識するのは、少なくともアンナには不可能だった。

「私に力を貸せ! 私を愛し、支えれば良い! お前なら私をホムンクルスの牢獄から解き放ってくれるだろう。名実ともに"百合の帝国"の支配者となる! そしてその横にお前が立つのだ!!」

 それが、この男の正体だった。
 操り人形でしかない自分を打破し、真の意味で皇帝となること。それがこのホムンクルスの望みなのだろう。
 主人がいる身でありながら、日々の振る舞いと思考は、皇帝である事を強いられ続けてきた。その不自由さが、このホムンクルスの怪物にしてしまった。
 しかし、だからといって、アンナがこの男に同情する義理も必要性も存在しなかった。

「誰がお前なんかに従うか……!」
「お前の父に合わせてやる、と言ってもか?」
「え……?」
「なんだ? 職人街を再建していると聞いたから、すでに知っているものと思っていたぞ。エリーナの父、タフトの消息についてだ」

 そうだ。職人街の錬金工房が焼失した際、父は近衛兵によって誘拐された。その事実を確認するのが、アンナにとっての今日の狩りの目的だったのだ。とてもそんな事を聞くような状況ではなくなってしまったが……。

「あれは賢者の石の隠し場所を知っている。だから、我が主人が身柄を押さえたのだ」

 そういう事だったのか……。アンナの頭の中で線が繋がる。
 工房跡地の奥深くに眠っていた、生成中の賢者の石。それは巧妙な仕掛けで隠され、誰にも見つからずに放置されていた。
 あの仕掛けや、石の生成装置には複雑な機械装置が必要となる。工房でも特にその腕を信頼されていたタフトが、作成に関わっていた可能性は極めて高い。

「あれから何年も経つのに、いまだに口を割ろうとしないがな。先ほど話した私設工房に今も幽閉している」
「……」

 父の顔、闇に浮かぶ賢者の石の光、複雑な仕掛け。それらのイメージが頭の中に浮かび上がる。
 その時、マルムゼ=アルディスが全体重をかけてアンナを押し倒す。

「一度ならず二度も隙を見せるとは。案外愚かな女だなエリーナ。いや、考えすぎるからこそそうなるのか?」

 男の下卑た笑みが眼前に迫る。顔の横には依然として真っ黒い銃口が突きつけられている。それはアンナを凝視する怪物の瞳のようにも見えた。

「さあ、私を受け入れろ。そしてアルディス3世と寵姫エリーナによる輝かしい時代を始めようではないか!!」

 もはやアンナ独りではどうすることも出来なかった。全身をしっかりと押さえつけられ、先ほどのように蹴り上げて抜け出すことも出来ない。
 男のどす黒い欲望を前に、アンナはあまりにも非力だった。

「この痴れ者が!!」

 突如横から怒声。怒りの感情がそのまま音波になったような激しい叫びだ。
 そして偽皇帝の身体が、アンナの上から弾き飛ばされる。

「ぐあっ!」

 マルムゼ=アルディスは地面の上を2、3回転してから突っ伏した。

「マルムゼ……?」

 いつのまにかアンナの目の前に、見慣れた青年の背中が屹立している。あの憎き偽皇帝と同じ名を持ちながら、今やアンナが最も信頼している者の背中。
 顔は見えないが、怒りに打ち震えているのは後ろ姿からでもわかった。黒髪が今にも天をつくのではないかという気すらしてくる。

「貴様……」

 顔をあげた偽皇帝。その顎を、マルムゼは容赦なく蹴り上げた。

「ぐはあっ!」

 口から大量の血。それでも、男はよろよろと立ち上がる。

「うあ……ううあぐああ」

 マルムゼの蹴りは、顎を打ち砕いたようだ。男の言葉は言葉にならず、不明瞭なうめきとして発せられた。

「……」

 蹴られた際に手から離れた短銃がアルディスの足元に転がっている。マルムゼは何も言わずにそれを取り上げると、彼が痴れ者と罵った男に突きつけた。

「ああ……!?」

 無慈悲な銃声が轟き、男の眉間が正確に貫かれた。
 異能を用いて大国の皇帝になりすましていた稀代の悪人の、それが絶命の瞬間だった。

「マルムゼ……」
「アンナ様!!」

 振り返ると、マルムゼは今にも泣きそうな顔でアンナを抱き寄せた。
 力強く、けど優しい腕が、アンナの体を包み込む。恐怖と怒りと悔しさに塗れていたアンナの感情が、すっと解きほぐされるのを感じた。

「申し訳ありません。仕方なかったとはいえ、あなた様のお側を離れたこと、あなた様を窮地に立たせたこと、悔やんでおります」
「マルムゼ……よく、よく来てくれました」
「もはや、片時も離れはしません。終生、あなたのお側におります!」

 アンナを抱きしめる腕の力がより強くなる。
 今、改めてアンナは実感した。マルムゼのことが好きだ。この青年を愛している。
 これまで自覚しつつも、どこか後ろめたさを覚えていたこの感情を、アンナは正面から受け止める覚悟を決めた。
 ホムンクルスとしてのしがらみや、それに起因する不信。そんなものは、最早どうでもいい。

 私はマルムゼを愛している。

 力強い腕に抱かれながら、アンナはその実感を噛み締めていた。

 だが、二人だけの世界で余韻にひたる暇など、今はない。
 数頭の馬の蹄の音が近づいてくるのが聞こえた。
 この状況、言い逃れはできない。皇帝を殺した。その正体がホムンクルスの影武者だったとしても、その事実は変わらない。新たな窮地が2人に近づいていた。

「アンナ! マルムゼ殿!」

 近づく馬群からは、意外な声がした。

「皇妃様……?」

 盲目の皇妃が、近衛兵の背中に掴まりながら馬に乗っていた。その他の馬もいずれも黒い軍服をまとう近衛兵たちが乗っている。彼らは皆、皇妃の指揮下にあるようだ。

「やはりこうなってしまいましたか」
「これは、その……」
「アンナ、何も言わないで。皆さん、この2人に馬を。それと陛下のご遺体を皇妃の村里に運んでください!」