「それにしてもうまいことやったな?」
北苑への道すがら、皇帝はアンナに話しかけてきた。
「なんの事でございしょう?」
「もちろん君たちの秘密基地のことさ。かつてフィルヴィーユ派は寵姫エリーナの館を拠点としていたが、それがあったのは貴族の私邸がならぶ南苑だ。ゆえにクロイス派に包囲され、エリーナは高等法院へ出頭せざるを得なくなった」
エリーナが破滅したきっかけとなる事件の話だ。思えばあの時すでに、この男はアルディスと入れ替わっていた。
このホムンクルスの影武者を影で操る者は、エリーナを亡き者とするため、クロイス派と結託しあの出頭命令を出させた。そんな推測が、アンナの頭の中では構築されていた。
「一方、君は皇妃を取り込み、東苑に拠点を築いた。あそこならば皇妃の許可がないものは入れない。クロイス公はフィルヴィーユ派以上に手を焼くであろう」
「……皇妃様に屋敷の建設を許可したのは、他でもないあなたです。それはお忘れなく」
「もちろんさ。私が皇妃との仲を深めるために用意した話を、君はうまく利用した。私は素直に君を賞賛したいのだよ」
そんな話をしているうちに2頭は北苑へ続く門を通った。ここから先は原生林が広がっている、野生動物たちの楽園だ。
「ここで馬を降りよう。馬上だと何かと話しにくかろう」
そこには馬を繋ぎ止めておく杭が立っている。徒歩での狩りの場合は、ここで馬や馬車を乗り捨てるのだ。
「ところで侯爵は銃の心得は?」
手綱を杭に引っ掛けながら、彼はアンナに尋ねた。
「猟銃でしたら、何度か撃ったことがあります」
同じくアンナも乗ってきた馬を繋ぎながら答える。
アンナはかつて、この北苑の森での狩りを好んでいた。今は亡き皇帝アルディス3世と協力して、ウサギや鹿を仕留めたものだった。
庶民のように、帝都の大通りでデートなどできない2人にとって、この森こそが愛を育む場所だった。
「そうか。では、うかうかと君に背中を見せるわけにはいかんな」
マルムゼ=アルディスは、アンナの猟銃を見て言う。本気とも冗談ともつかない、感じの悪い言葉だった。
「そんな顔をするな。本題に入る前の、戯れ言さ」
そんな事を言いながら、彼は草むら深くへと分け入っていく。野うさぎを捕まえるなら木々の少ない草原の方角へ行くべきだが、マルムゼ=アルディスは森の奥へと進んでいく。不審に思いながらも、会話が途切れぬようアンナは彼を追った。
「陛下、本題とは?」
「侯爵も想像はついてあるんじゃないのか?」
「……」
「ホムンクルスだよ。ルコットの腹の子は」
何でもないことのようにマルムゼ=アルディスは言った。
「いや、腹の子というのは間違いだな。あれは誰の子も宿してはいない。そもそも私には生殖能力がないからな」
やはりそうだったか。アンナが予測していたことは当たっていた。しかし、不可解な点は多い。
「腑に落ちない、といった顔だな」
「当然よ。突然、皇帝の子がホムンクルスで寵姫は懐妊などしていない、と言われても納得などできるはずがない」
アンナは敬語を使うのをやめた。周りは木ばかりで、2人の会話ん聞く者など誰もいない。ここならこの男を皇帝ではなくただのホムンクルスとして扱っても咎められることはない。
「くっくく……君ほどの頭脳を持ってしてもか?」
マルムゼ=アルディスは楽しそうに言う。
出た。この男が初めて正体をさらけ出した時にも見せた薄笑い。かつての恋人の顔が見せるその表情に、アンナは嫌悪感をもよおした。
「簡単なからくりさ。我が主人が所有する私設の錬金工房がある。そこでこの国の皇太子となる胎児はすくすくと育っているさ」
私設の錬金工房。やはりそういうものがあったのか。ホムンクルスを生み出せるのなら、それなりに大規模な施設だろう。この宮殿や職人街にあった工房施設の研究成果も、そこに移されているのかもしれない。
「……という事は、ルコットはあなた達と結託し、妊娠を装っているという事?」
「いや、彼女は何も知らない。クロイス派のピエロどもは、本気で我が世の春が来ると浮かれているのさ」
「なんですって?」
「人間の身体というのは面白くてね。強い暗示をかけると本当に自分が懐妊したと思い込んでしまう。その思い込みは精神だけではなく肉体にも作用するようだ」
想像妊娠。そういう現象があるというのは聞いたことがある。しかし、狙ってそんな症状を引き出すことができるのか?
「そうか……あなたの異能は人の認識を書き換えることだったわね」
「流石に察しがいい。その通りさ」
この男は自分の異能を"認識変換"だと語った。普段はその力で自らを皇帝アルディス3世に見せかけているが、言ってしまえばこれは洗脳だ。応用すれば、寵姫の心や身体を操ることもできるのだろう。
「私も主人に命じられるまでは半信半疑だったけどね。毎晩、閨で暗示をかけ続けていたら本当にルコットの身体は反応したよ。彼女は今、本気でつわりに苦しんでいるし、腹立って膨らんでいる。滑稽なことにね」
滑稽。その一言に全神経を逆撫でされる思いがした。
もちろんルコットに好意などひとかけらも抱いてはいない。けど、だからといって、彼女の皇帝を慕う心を否定しようとは思っていない。その想いや肉体の反応を嘲笑するなど、この男に許されるはずがない。
「……なぜ、私にそんな話を?」
「以前言ったはずだ。今の私の使命は、クロイス派と皇妃派を競わせることだと」
「真相を公表しろとでも?」
「そんなことに意味はないと、君ならわかるだろう?」
その通りだ。証拠もなしにそんな事を公表したところでクロイス派は揺るぎもしないだろう。逆にアンナたちの品性が疑われるだけだ。
逆にこの男が言う私設錬金工房とやらを見つけ出し、全ての証拠を掴んでそれらも公にすればどうなるか。今度は、クロイス派にダメージを与えるどころでは済まなくなる。皇室そのものの信頼が失墜し、帝国の存亡にも繋がりかねない。
「では私に何をさせたいの?」
「君にしては察しが悪いな。皇妃派からも皇子を出せばいい。そう言っているのさ」
「あ……なるほど、そう言うことね」
確かに、ルコットが皇子を産んでも、そのすぐ後に正妃であるマリアン=ルーヌが子をなせば事態は拮抗する。どちらを皇太子とするかで、水面下での闘争は激化するだろう。しかし両者が並び立ち競い合うという、この男の主人の目論見は達成される。
「つまり、あなたに皇妃様を差し出せと」
アンナの声は嫌悪感に満ちていた。
あの愚かしいほどに純真な皇妃に、この男と夜を共にさせる。そしておぞましい異能で心と身体に間違った認識を植え付けさせる。
この男の言は、そんな身の毛もよだつ事に加担しろと言ってるも同義だった。
「うん、まあ、それでもいいんだけどもね。もうひとつ方法があると思わないか?」
「え?」
「皇妃派から新たな寵姫を立てればいい。その者がが我が子を産むのさ」
「それは、どういう……」
不意に、マルムゼ=アルディスの両腕が伸びてきた。それはアンナの肩を掴み、全体重をかけてアンナを後ろに倒そうとする。
「なっ!」
アンナは尻餅をつくように倒れた。そして男の体が、のしかかる。
「フィルヴィーユ公爵夫人はとても聡明な女性だったという。そんな彼女に負けずとも劣らない君は、ルコットなどより寵姫にふさわしいと思わないか?」
「あなたは……最初から……」
アンナは今更がさながら自分のうかつさを呪った。なぜ皇帝は2人きりでの狩りを申し出たのか。それは政治的な密談のためなどではなかった。
北苑への道すがら、皇帝はアンナに話しかけてきた。
「なんの事でございしょう?」
「もちろん君たちの秘密基地のことさ。かつてフィルヴィーユ派は寵姫エリーナの館を拠点としていたが、それがあったのは貴族の私邸がならぶ南苑だ。ゆえにクロイス派に包囲され、エリーナは高等法院へ出頭せざるを得なくなった」
エリーナが破滅したきっかけとなる事件の話だ。思えばあの時すでに、この男はアルディスと入れ替わっていた。
このホムンクルスの影武者を影で操る者は、エリーナを亡き者とするため、クロイス派と結託しあの出頭命令を出させた。そんな推測が、アンナの頭の中では構築されていた。
「一方、君は皇妃を取り込み、東苑に拠点を築いた。あそこならば皇妃の許可がないものは入れない。クロイス公はフィルヴィーユ派以上に手を焼くであろう」
「……皇妃様に屋敷の建設を許可したのは、他でもないあなたです。それはお忘れなく」
「もちろんさ。私が皇妃との仲を深めるために用意した話を、君はうまく利用した。私は素直に君を賞賛したいのだよ」
そんな話をしているうちに2頭は北苑へ続く門を通った。ここから先は原生林が広がっている、野生動物たちの楽園だ。
「ここで馬を降りよう。馬上だと何かと話しにくかろう」
そこには馬を繋ぎ止めておく杭が立っている。徒歩での狩りの場合は、ここで馬や馬車を乗り捨てるのだ。
「ところで侯爵は銃の心得は?」
手綱を杭に引っ掛けながら、彼はアンナに尋ねた。
「猟銃でしたら、何度か撃ったことがあります」
同じくアンナも乗ってきた馬を繋ぎながら答える。
アンナはかつて、この北苑の森での狩りを好んでいた。今は亡き皇帝アルディス3世と協力して、ウサギや鹿を仕留めたものだった。
庶民のように、帝都の大通りでデートなどできない2人にとって、この森こそが愛を育む場所だった。
「そうか。では、うかうかと君に背中を見せるわけにはいかんな」
マルムゼ=アルディスは、アンナの猟銃を見て言う。本気とも冗談ともつかない、感じの悪い言葉だった。
「そんな顔をするな。本題に入る前の、戯れ言さ」
そんな事を言いながら、彼は草むら深くへと分け入っていく。野うさぎを捕まえるなら木々の少ない草原の方角へ行くべきだが、マルムゼ=アルディスは森の奥へと進んでいく。不審に思いながらも、会話が途切れぬようアンナは彼を追った。
「陛下、本題とは?」
「侯爵も想像はついてあるんじゃないのか?」
「……」
「ホムンクルスだよ。ルコットの腹の子は」
何でもないことのようにマルムゼ=アルディスは言った。
「いや、腹の子というのは間違いだな。あれは誰の子も宿してはいない。そもそも私には生殖能力がないからな」
やはりそうだったか。アンナが予測していたことは当たっていた。しかし、不可解な点は多い。
「腑に落ちない、といった顔だな」
「当然よ。突然、皇帝の子がホムンクルスで寵姫は懐妊などしていない、と言われても納得などできるはずがない」
アンナは敬語を使うのをやめた。周りは木ばかりで、2人の会話ん聞く者など誰もいない。ここならこの男を皇帝ではなくただのホムンクルスとして扱っても咎められることはない。
「くっくく……君ほどの頭脳を持ってしてもか?」
マルムゼ=アルディスは楽しそうに言う。
出た。この男が初めて正体をさらけ出した時にも見せた薄笑い。かつての恋人の顔が見せるその表情に、アンナは嫌悪感をもよおした。
「簡単なからくりさ。我が主人が所有する私設の錬金工房がある。そこでこの国の皇太子となる胎児はすくすくと育っているさ」
私設の錬金工房。やはりそういうものがあったのか。ホムンクルスを生み出せるのなら、それなりに大規模な施設だろう。この宮殿や職人街にあった工房施設の研究成果も、そこに移されているのかもしれない。
「……という事は、ルコットはあなた達と結託し、妊娠を装っているという事?」
「いや、彼女は何も知らない。クロイス派のピエロどもは、本気で我が世の春が来ると浮かれているのさ」
「なんですって?」
「人間の身体というのは面白くてね。強い暗示をかけると本当に自分が懐妊したと思い込んでしまう。その思い込みは精神だけではなく肉体にも作用するようだ」
想像妊娠。そういう現象があるというのは聞いたことがある。しかし、狙ってそんな症状を引き出すことができるのか?
「そうか……あなたの異能は人の認識を書き換えることだったわね」
「流石に察しがいい。その通りさ」
この男は自分の異能を"認識変換"だと語った。普段はその力で自らを皇帝アルディス3世に見せかけているが、言ってしまえばこれは洗脳だ。応用すれば、寵姫の心や身体を操ることもできるのだろう。
「私も主人に命じられるまでは半信半疑だったけどね。毎晩、閨で暗示をかけ続けていたら本当にルコットの身体は反応したよ。彼女は今、本気でつわりに苦しんでいるし、腹立って膨らんでいる。滑稽なことにね」
滑稽。その一言に全神経を逆撫でされる思いがした。
もちろんルコットに好意などひとかけらも抱いてはいない。けど、だからといって、彼女の皇帝を慕う心を否定しようとは思っていない。その想いや肉体の反応を嘲笑するなど、この男に許されるはずがない。
「……なぜ、私にそんな話を?」
「以前言ったはずだ。今の私の使命は、クロイス派と皇妃派を競わせることだと」
「真相を公表しろとでも?」
「そんなことに意味はないと、君ならわかるだろう?」
その通りだ。証拠もなしにそんな事を公表したところでクロイス派は揺るぎもしないだろう。逆にアンナたちの品性が疑われるだけだ。
逆にこの男が言う私設錬金工房とやらを見つけ出し、全ての証拠を掴んでそれらも公にすればどうなるか。今度は、クロイス派にダメージを与えるどころでは済まなくなる。皇室そのものの信頼が失墜し、帝国の存亡にも繋がりかねない。
「では私に何をさせたいの?」
「君にしては察しが悪いな。皇妃派からも皇子を出せばいい。そう言っているのさ」
「あ……なるほど、そう言うことね」
確かに、ルコットが皇子を産んでも、そのすぐ後に正妃であるマリアン=ルーヌが子をなせば事態は拮抗する。どちらを皇太子とするかで、水面下での闘争は激化するだろう。しかし両者が並び立ち競い合うという、この男の主人の目論見は達成される。
「つまり、あなたに皇妃様を差し出せと」
アンナの声は嫌悪感に満ちていた。
あの愚かしいほどに純真な皇妃に、この男と夜を共にさせる。そしておぞましい異能で心と身体に間違った認識を植え付けさせる。
この男の言は、そんな身の毛もよだつ事に加担しろと言ってるも同義だった。
「うん、まあ、それでもいいんだけどもね。もうひとつ方法があると思わないか?」
「え?」
「皇妃派から新たな寵姫を立てればいい。その者がが我が子を産むのさ」
「それは、どういう……」
不意に、マルムゼ=アルディスの両腕が伸びてきた。それはアンナの肩を掴み、全体重をかけてアンナを後ろに倒そうとする。
「なっ!」
アンナは尻餅をつくように倒れた。そして男の体が、のしかかる。
「フィルヴィーユ公爵夫人はとても聡明な女性だったという。そんな彼女に負けずとも劣らない君は、ルコットなどより寵姫にふさわしいと思わないか?」
「あなたは……最初から……」
アンナは今更がさながら自分のうかつさを呪った。なぜ皇帝は2人きりでの狩りを申し出たのか。それは政治的な密談のためなどではなかった。