【火・金更新】寵姫として皇帝と国に尽くした結果暗殺されたので、錬金術で復活して宮廷に復讐してやる!

「皇妃様の館……と、申しますと、今宮殿の庭に作っているという噂の?」
「まさしく、それです」
「待ってください! そういうのは帝室お抱えの業者や職人がやるもんでしょ? オレはただの町大工ですよ?」
「訳あって、その業者が使えなくなってしまったのです。ゆえに、あなた方にお願いしたく」

 ダンとケントは目を丸くしている。無理もない。宮廷や皇族の衣食住にまつわる事は全て、お抱え業者が行う。これは数百年続く慣わしだった。
 よほどの理由がない限り新規参入はあり得ないし、あったとしても声がかかるのは、貴族相手の仕事を請け負う人間に限られる。

「もちろん、相応の報酬はお支払いします。マルムゼ」
「は」

 マルムゼは懐から小さな皮袋を取り出すと、ケントに手渡す。

「これは……!」

 皮袋の中身を見たケントは思わず息を呑んだ。その顔を見たダンが皮袋を受け取ると、その中身を作業机の上に広げる。

「なんてこった……」

 無骨な工具しか置かれていない作業机の上に、きらびやかな光の粒が溢れた。ダイヤ、ルビー、サファイア……いずれも大粒な上に、最大限の輝きが放たれるよう計算され尽くしたカットが施されている。
 他にも東方大陸から輸入した珊瑚玉。赤子の握り拳程もあろう大粒の真珠、太陽のような黄金色の光を放つ琥珀。それら一粒でも、庶民の家を建ててお釣りが来るほどの宝石。それが十数個、皮袋には詰まっていた。

「同じ大きさであと20袋は用意できると思います」
「ケント、これだけあれば街の再建も予定より……」
「……」

 喜び勇むダンとは対照的に、ケントは険しい顔で宝石を眺めていた。

「侯爵様。我々はその館をどこまで作れば良いのですか?」
「基礎工事は終わっていますので、内装・外装を含めた居館本体の建設を」
「内装……という事は、最後までやって欲しいという事ですね?」
「ええ」
「それならば我々にはできません。申し訳ありませんが……」

 ケントは頭を下げる。

「なっ! なんでだよ!?」
「わからねえかダン。皇妃様のお屋敷だぞ!? この工房を建て直すのと訳が違う。仕入れだけでいくらかかると思ってるんだ?」
「あっ」

 その言葉にダンも気づいた様子だった。

「話によれば宮殿の大広間も今、改修工事の真っ最中らしい。その広間にはこういう宝石が何万個も使われているんだそうだ。内装もやるって事は、俺たちがそういうものを用意しなきゃならないって事だ」

 ケントの言葉に、アンナは思わず口元をほころばせた。その顔をケントは見逃さなかった。

「申し訳ないが侯爵様、私はそんな面白い話はしてませんよ?」
「いえ、失礼しましたケント殿。ですがあなたが仰る事があまりにも正しいので……」
「は?」
「実はこの宝石こそが、その宮殿大広間に使われている宝石なのです」
「えっ!?」

 アンナがマルムゼに命じた、セコくチンケな小悪党的行為。その内容こそが、この宝石だった。
 現在、アンナの指揮のもと大広間の改修工事が始まっている。その最初の作業が、広間の壁や天井を飾り立てていた40213個の宝石の取り外しだった。これらは磨き直した上で新たに作り直した台座にはめ直されることになっている。が、その一部をマルムゼが失敬したのだ。
 もちろん証拠が残らないよう、リストと帳簿も改竄してある。マルムゼの異能"認識迷彩"があれば造作もないことだった。
 おそらく被害総額は史上最高のコソ泥行為であろう。

「20袋合わせたところで、大広間の宝石の1/100にもなりません。この程度であの内装を実現できない事は、私にもよくわかります」

 アンナは話を続ける。

「でもね。私も皇妃様も、あなた方にきらびやかな内装の施工など望んでいないのです。むしろ、いつも通りの仕事をして欲しいと思っているの」

 * * *
 一週間後、職人街の男衆たちが丸太を満載した台車をひいてヴィスタネージュの大庭園にやってきた。
 彼らはあらかじめ開放されていた北苑の通用門を通り、そのまま東苑へと入っていく。

 その知らせを聞いた宮廷女官長グリージュス公爵は血相を変えて、アンナも前に現れた。

「グレアン侯爵!」
「これは女官長殿、そのような格好でどうしたのですか?」

 アンナが「そんな格好」と評した彼女の出立ちは、薄いシャンパンゴールドのドレスと、高く結い上げ花飾りをつけた髪という、宮廷の女性に求めらる姿そのものと言って良いものだった。
 それに対してアンナはブーツとパンツ。髪は後ろで束ねたのみ。宮廷ではタブーとされている男装に近い。が、大勢の職人が出入りし、誇りや木屑が舞う改装中の大広間に相応しいのがどちらかは、一目瞭然だった。

「御用があるのでしたら、私から出向きましたのに」
「白々しい……アレはどういう事かしら?」
「アレ、とは」
「東苑に入っている職人のことです!」

 女官長グリージュス公爵は、鋭い視線をアンナにぶつけてくる。こうなるのは予想通りだが、まさかこの女が埃の舞う現場まで押しかけてくるとは。
 自分の思う通りにならないのが、よほどお気に召さなかったらしい。

「申したはずよ。皇妃様の館は、一旦工事を見合わせなさいと」
「ああ、ご安心ください。彼らを雇うのに宮廷費は一切使っていませんので」
「なんですって?」
「後ほど帳簿を提出しますが、彼らは家財管理総監の権限で雇っているわけではありません。費用は、皇妃様のポケットマネーから出ています」
「ポケットマネー?」
「はい。皇妃様に工事中止のご相談をしたところ、私物の宝石を工費に充てて欲しいとのことでしてので。それならば大広間(こちら)の工事にも影響しませんので、問題はないでしょう?」

 実際は違う。ケントたちに説明した通り、あの宝石はこの大広間を飾り立てていたものの一部だ。
 それを、アンナは皇妃の私物として取り扱っていた。本来ならすぐにバレるような不正行為だが、アンナは押し通せる自信があった。

「皇妃様が皇帝陛下とご婚約されたとき、先帝陛下から贈られた宝石がございます。その一部を使って工事を続けたいとの仰せでした」
「先帝陛下の……?」

 その一言で、グリージュスは全てを理解したようだ。

 話は皇妃マリアン=ルーヌがこの国に嫁いできた頃に遡る。先帝アルディス2世は、皇太子アルディスとの婚約祝いとして幼児が中には入れるほど大きな宝石箱が贈られたという。もちろん中には超大国の皇太子妃にふさわしいきらびやかな装飾品の数々が満載され、百科事典一冊ほどもあるリストが付属していた。
 その直後に、先帝は崩御。程なくマリアン=ルーヌは皇妃となるのだが、その直後に例の毒殺未遂事件が起こり彼女は失明してしまう。
 彼女の見舞いには多数の貴族の令嬢が訪れたというが、その度に皇妃の部屋に置かれた宝石箱の中身が減っていったのだという。

 エリーナがアルディス3世の寵姫として参内したのはそれから少し後のことだ。
 様々な政治的思惑と、真心の行き違いが重なり、彼の心が皇妃から完全に離れた後だったから、アンナが宝石箱の話を知ったのはつい最近になってのことだった。
 皇妃自身も、宝石類にはあまり興味がなかったため、彼女に古くから仕える侍女のみが心を痛めていた。それをアンナに教えてくれたのだ。
 今さら宝石箱の中身を返せなどと、貴族のご婦人方に詰め寄ったところで、証拠も残ってないからどうしようもない。しかし裏を返せば、もともと皇妃の所有物でない宝石を、リストに乗っている宝物のひとつと言い張ったところで、誰もそれを否定しようがないのだ。

 帝国の最も高貴な空間で行われている、あまりにもセコく情けない悪事。それを利用することで、アンナは館の建設資金を得ることに成功したのだ。

「しかし……庶民の大工に東苑の館を任せるとはいかがなものかと。宮廷の建築術をわきまえたお抱えの職人に任せるべきでしょう? もちろん、大広間の工事のあとで、ですが」

 そう来ると思った。金で攻められなければ、次は人だ。女官長のついてくる所は、何もかもアンナの想定通りだった。

「ぷっ……ふふふふっ!」

 事さらに大げさに吹き出し、そのまま笑って見せる。

「何がおかしいの?」
「女官長殿。この宮廷を統べるお方でありながら、皇妃様のご趣味を何ひとつ理解してらっしゃらないのですね?」
「なんですって?」
「いま大広間で、大理石の床や鏡張りの壁を作っているような職人に、任せられる訳がないでしょう。皇妃の村落(ル・アモー・ドゥ・ランペラトリス)を」
 ヴィスタネージュ大宮殿は、白亜の壁と柱、それを彩る金細工の装飾で構成される壮麗な建造物だが、その敷地のすべての建物が大理石づくりという訳ではない。
 特に東苑に点在する歴代皇族たちが建てた居館には、彼ら彼女らの趣味が色濃く反映されている。
 ある館は魔法時代の神殿を思わせる太い列柱を持ち、ある館は東方大陸の大王の宮殿にならって木造の赤い柱と瓦屋根を持つ。また別の館は、砂の国の異教寺院よろしくドーム状の丸屋根が特徴的だ。
 そんな多種多様な別邸(パビリオン)のなかでも、このたび作られた皇妃の村里(ル・アモー・ドゥ・ランペラトリス)はひときわ異彩を放っていた。歴代皇族が建てた居館がそれでも共通して持っていた「贅沢さ」を一切まとっていなかったのだ。

「華やかである必要がありません。私はここの花の香りや、草木を撫でる風の音を楽しめればそれでいいし、皆でそれを愛でられる場所が欲しいの」

 皇妃のそんな希望を叶えるのに、大理石の床も金細工の窓枠も必要がなかった。むしろ靴音を高く響かせる床は風の音を邪魔するし、きらびやかな窓枠が合ったところで花の香りがより豊かになるわけでもない。
 それらを叶えるのは、この人造湖や花畑が作り出す箱庭の世界に溶け込むような建物群だった。

「なるほど、それでオレたちにお頼みになったというわけですか」

 大工頭のダンは、アンナに言った。眼の前では、彼らが建てた家々に茅葺き屋根を乗せる作業の真っ最中だ。中央の皇妃の居館を中心に、ゲストハウスや使用人のための家、近衛兵の詰め所など大小8棟の建物。それらは全て、帝国中南部によく見られる農家風の建築様式で統一されていた。

「派手な屋敷を建てれば、この素敵な花畑が台無し。だから、ここに農村の景色を丸ごと再現することにしたのよ」
「確かに、これはオレたちの得意な仕事でしたね。むしろ、大理石の柱なんか作ってる、宮廷お抱えの職人には出来ねえかもしれません」
「実際、何度も設計をやり直しさせたわ」

 アンナは苦笑する。本来の予定なら、皇妃の館は"獅子の王国"との和平が成立するころには完成していたはずだった。それがここまで延びたのは、宮廷の出入り業者が皇妃の思い描くコンセプトをなかなか理解しなかったからなのだ。
 
「私たちも、ここまで農家そのものの作りにする予定はなかったのだけれど、あなた方に任せて正解でした」
「けど、本当に大丈夫ですか? 流石に貴族の方々には、むさ苦しすぎるのでは?」
「それを苦痛と感じない者にこそ、皇妃派の……次の時代を担う貴族の資格があるのですよ」

 その資質を選別する場所という意味でも、皇妃の農村はきっと良い働きをするであろう。この場所を嫌う者に、皇妃派を名乗ってもらう必要はまったくない。

「侯爵様!」

 ガラス職人のケントが大量の書類束を抱えてやってきた。それを見たダンは少しげんなりした顔をする。

「じゃあ、オレは各班の作業状況見てきますので」

 そう言って、ダンはそそくさとその場を後にした。
 大工の棟梁としては確かな腕前の男だ。壁にかかる重量だの、それを支える事ができる柱や梁の本数、そこに必要な釘の長さと数……そういった計算は得意なのに、それ以外の数字の話はからっきしらしい。
 ケントが今回の工費の見積もりや、職人街再建のための予算の話をする前に逃げ出した、というわけだ。

「いいんですよ。アイツは建てることだけ考えてれば。アイツの工房にも、近いうちに会計に強い人間を入れるつもりです」

 まだまだ新生職人街には人材が足りない。だからケントは、自身のガラス工房を切り盛りしながら、他の職人たちの会計や人事の世話もしていた。

「ということは、その目処も立ってきたのね」
「ええ! こっちの書類を見てください。帝国アカデミー出身の会計士を何人か雇うことが出来そうです! ダンの工房だけでなく、他の職人の所にも入れるつもりです」
「素晴らしいわ! いよいよ、かつての職人街の勢いを取り戻せそうね」
「それもこれも、侯爵様が多額の報酬を払っていただけたおかげですよ。職人たちの工房の建て直しも急ピッチで進んでいますし、何もかも順調で怖いくらいです」

 順調……そう、その通りだ。
 アンナは宮廷女官長の顔を思い浮かべた。グリージュス公らクロイス派の連中は、宮廷家財管理総監という重要度の低い職務に押し込めればアンナを制御できると考えていた。しかし了見違いもはなはだしい。
 アンナにとってはむしろ、この役職こそ最高の武器となった。そして職人街の再建を実現し、そこで働く者たちを味方につけることが出来た。

(あなたのおかげよ、グリージュス公。おかげで私は計画を次の段階へ進めることができる)

 何もかもが順調すぎて怖い。今のケントの言葉は、アンナにも当てはまっていた。

「ケント、職人街の再建に目処が立ったら、新たに着手してほしい仕事があります」
「何でしょう? 侯爵様からのご依頼でしたら何でもやりますよ!」
「錬金工房の復活です」
「え……?」
「知っての通り現政権はこの数年、工房を閉鎖してきました。ですがあれは帝国の錬金術の最前線。私は何としても建て直したいの」
「それは……私個人としては賛成ですが……」

 ケントの反応は、急速に歯切れ悪いものになった。

「あなたのお父君の話を聞きました。錬金術研究に欠かせない実験器具を作っていたそうね?」
「よくご存知で。正確な目盛りをつけたビーカーや、限界まで球体に近づけたフラスコ……そういったものを父は納品していました」
「あなたにもそれは作れる?」
「はい。その技術があったからこそ、軍に招かれたようなものでしたので……」

 一流のガラス職人の顔はみるみる険しくなっていく。まるでこの先にアンナが何を言い出すのか予測しているように。

「そして、もうひとり錬金術に欠かせなかった職人がいる」
「……」
「複雑な歯車や極細のパイプなどを作っていた、金属細工職人のタフト」

 かつて自分の父だった男の名だ。

「彼が今どこにいるか、ご存知ないですか?」
「申し訳ありません、侯爵様。その名を出すことはお控えください」
「……それは、彼が流血寵姫の父親だったからですか?」
「はい……」

 流血寵姫。エリーナの死後、クロイス派が彼女に付けた汚名だ。錬金工房を私物化し、罪もない庶民たちをさらい人体実験を行っていた最悪の殺人者。そんな噂は、今でも帝都の人間に信じられているということか。

「その噂は、貴族の流した嘘なのではなくて?」
「私はタフト氏やエリーナ寵姫の事をよく知っています。だから、あの噂が大嘘だと信じています! ……ですが、そう考えていない職人も多いのです」

 タフトの声は低く、苦しそうだった。

「例えばダンなんかはあの噂を信じ、今でもエリーナを憎んでいます。彼だけじゃありません。そういう奴は多い。だからあの親子の名は、どうか職人たちの前では出さないようにしてください」
「……そう。ごめんなさい、私が軽率でした」

 以前マルムゼが話してくれた事を思い出す。流血寵姫の噂は、クロイス派の貴族による犯罪をエリーナに押し付ける形で作られたという。
 今でも噂を信じている人たちの中には、そういった狂気に取り憑かれた貴族の犠牲になった者もいるのかもしれない。その恨みをぶつける先がエリーナしかないのだとしたら、流血寵姫の汚名が消えることはしばらくはないだろう。それこそ、アンナが帝国の頂点に立ち、彼女の名誉を回復する宣言でもしない限り……。

「ですがタフト氏がどうなったか、それをお答えすることはできます」
「なんですって!?」
「あの大火の日……錬金工房で火災が発生した時。私は彼と一緒にいたのです」
「一緒に!? どういう事? ともに仕事をしていたの?」

 アンナは思わず、かつての幼馴染の両肩を掴んでいた。ぎょっとするケントに気付き、慌ててアンナは手を離す。

「ご、ごめんなさい……」
「いえ……」

 焦るな、落ち着け。アンナは自分にいい聞かせる。けど無理だ。長い間生死もわからなかった実の父の消息が知れるかもしれないのだ。

「一緒にいたわけではありせん。私が注文の機材の納品した時、彼は工房の地下で何か作業をしていたようでした」
「おとう……いえ……タフト氏が地下に……?」
「工房に火の手が上がった時、彼は率先して消化活動に当たっていました。ですが火勢が強くなった時に、兵士によって火から遠ざけられて……そのまま彼らに連れて行かれました」
「兵士? どうして工房に兵士が?」
「今思うと不思議なのですが……あの日、工房には一個小隊くらいの兵士がいました。帝都の警備兵や警察官ではなかったです。あの金刺繍の黒い制服……」

 金刺繍の入った黒い軍服。帝国軍でそれを身につけることを許されている部隊はひとつしかない。
 
「近衛兵の軍服ね?」
「はい。それに、あの時タフトさんを取り押さえていた人たちは……皇帝陛下直属部隊の肩章をつけていました」
「つまり、皇帝……陛下が彼を連れて行った、と……?」
「恐らくは……」

 アンナはあの男の顔を思い浮かべる。かつての恋人アルディスと同じ顔でありながら、軽薄な薄ら笑いを絶やさない、ホムンクルスの男。
 大火のあった時、すでにあの男は皇帝になりすましていた。そして皇帝直属部隊が現場におり、父を連れて行った。
 そこに何の因果もないはずがない。またあの男と対峙しなければならない。アンナはそう予感した。
 完成と同時に、皇妃の村里はアンナたちの拠点としての機能を発揮し始めた。

 皇妃はこの人造の村落に毎日、数組だけゲストを呼び昼食やお茶を共にすることを新たな日課としていた。

「本日は素敵なおもてなしをありがとうございます。皇妃様」

 本日の客はオーバリー伯爵夫妻だ。夫人は皇妃の茶飲み友達の1人で、夫は財務省に勤めている。
 ちょうど彼らは、メインディッシュの野鴨のローストを食べ終えたところだった。この野鴨は、先ほど伯爵自身が北苑で獲ってきたものである。それを皇妃専属の料理人が調理した。
 皇妃と特別なゲストのみで行われる特別な晩餐会。これこそが、皇妃派の活動の基本形だ。

「喜んでいただけて何よりですオーバリー伯爵。今、コーヒーをお持ちしますので、ぜひともおくつろぎ下さい」

 そう言って皇妃は立ち上がる。

「コーヒーを!? そんな、皇妃様お手ずからですか?」
「ええ。最近アンナに淹れ方を教わりましたの。これがなかなか楽しくて、ゲストの皆様に最後に一杯お出ししているのです」

 皇妃はそう言って微笑んだ。その手をさりげなくアンナがつかみ、視覚を共有する。異能のことを知らない夫妻からしてみれば、身分を超えた親友同士の他愛のないスキンシップのように見えるかもしれない。
 皇妃が危なげのない手つきで、粗挽きしたコーヒー豆の上に熱湯を注ぎ込むと、簡素な木造の家屋に豊かな香りが漂い始めた。

「おまたせしました。どうぞ、伯爵」
「これは……大変恐縮です。いただきます」
 
 高価な酒と贅を凝らした食事を当たり前のように嗜んでいた男たちは、皇妃の素朴すぎる趣向に最初戸惑いはしたものの、すぐにそれを受け入れていった。
 特に、今では皇妃派のお茶会になくてはならない大地のケーキの素朴な味わいは、甘いものが苦手な殿方にも好評だった。
 食後に目の見えぬ皇妃がグレアン侯爵に手伝ってもらいながら、自らコーヒーを淹れる。それを大地のケーキと共にいただくのが、宮廷の人間にとって、新しい栄誉となっていった。

「オーバリー夫人、今夜は私ともう少しおしゃべりしませんか? あなたに教えていただいた小説の話がしたくて」
「まぁ、もうお読みになられてのですか? それは是非とも!」

 オーバリー夫人は、同伴者の夫に小声で伺う。

「……あなた、よろしいかしら?」
「もちろんだとも」
「では伯爵、その間にご相談したいことがあるのですが、パイプでもいかがですか?」

 すかさず、夫にむけてアンナが誘いをかける。これが「政治の時間」の合図だ。

「ほう、この館には喫煙室もあるのですか?」
「もちろんです。南方産の葉巻も用意していますよ」
「すばらしい! ぜひともご案内ください」
 
 こうして食後は、皇妃が婦人の相手をし、アンナが殿方に応対するのもお決まりの流れとなっていた。
 そしてこの喫煙室こそが、アンナの主戦場となるのである。

「戦争が終わり、軍事費に余裕ができています。そろそろ減税の話を進めても良いのでは?」
「山岳部の開墾に、予算を割くことはできないでしょうか?」
「未だに、帝都の小麦相場を操作しようとする輩がいるようです。なんとかせねば」

 毎日訪れるゲストに、そういった相談を持ちかけ、時には彼らの困り事に耳を傾けたりする。
 
 こうして、日に日に皇妃派の政治的な力は強くなっていた。

 * * *
 一方で、クロイス派の動きもここのところ活発だ。皇妃の村落が完成し、そこで派閥形成に力を入れ始めた皇妃はに対する牽制だろう。
 宰相と寵姫、親子二人で国政を牛耳らんとする彼らの武器は、皇妃はのそれよりも直接的でわかりやすかった。

「ついにルコット様のご懐妊が正式に発表されましたな」
「年明けにご出産の予定だとか、実にめでたいことです」
「陛下は長らくお子がおらず、それだけが我が帝国の悩みの種でしたからな」
「もし男児であらせられるならば皇太子ということに! そうなれば宰相閣下は……」

 こんな会話が連日、ヴィスタネージュの本殿で交わされている。
 ルコットの生む赤子が男であれば、クロイス公は未来の皇帝の祖父だ。そうなれば、クロイス派の天下は盤石となるであろう。女児だったとしても、影響力は絶大なものとなる。
 いずれにせよ東苑で農民ごっこなどをして遊んでいる皇妃やグレアン侯爵など、敵ではない。それが彼らの思いだった。

「マルムゼ、父親は本当にアルディスなの?」

 オーバリー夫妻のもてなしが終わり、アンナが自邸に戻ったころには時計の短針は12を越えていた。
 クロイス派が好むような夜通しのダンスパーティーなどに比べれば、皇妃のささやかな食事会は体力的にも精神的にも楽だ。けど、今日のように夜遅くまで話し込む日はいささか疲れが出る。
 アンナは使用人に、風呂を炊くように命じた後、マルムゼの報告を聞いていた。  
 
「少なくとも、寵姫が別の男と接している可能性はなさそうです。この数週間、調査を続けていましたが、その証拠となるようなものは何一つ見つかりませんでした」
「なら、やっぱりホムンクルス(私たち)には生殖能力があるということに……それはまずいわね」

 もしそうなら、せっかく作った皇妃の村里程度では、状況を覆せなくなる。

(でも、本当にそうなのかしら?)

 そんな思いもアンナの中に残っていた。どうしても、ホムンクルスのが生殖能力を持っている、というところが引っかかる。そこまで完璧な存在なのか、私たちは?
 アンナの考えの根拠となるのは、人並みよりは詳しいという程度の錬金術の知識と、自分自身の肉体に対する肌感覚でしかない。錬金工房の再建や研究の再開はまだ先の話だから、今のアンナではこの憶測に結論は出せない。だが、どうしても腑に落ちないのだった。

「ルコットが懐妊したように見せかけるなんらかのトリックがある可能性は?」
「ゼロではないでしょうが……詳しく調べる方法がありません。宮廷女官長を味方に引き込むくらいの離れ技が必要でしょう」
「なら無理ね」

 あの女を取り込むのが最も簡単な方法という時点で、それは不可能を意味していた。

 アンナはため息をつく。そして机の上に置かれた封筒に目を向けた。皇妃の村落にいる間に届けられたものらしい。
 皇帝からの書状であることを示す百合の紋章の封蝋が、艶やかな光沢を放っていた。

「やはり、()()本人に直接聞くしかないか……」

 アンナは封筒をつかむ。その中身は、皇帝自らがアンナに宛てた、狩りの誘いだった。

「皇帝は、皇妃の農村で昼食をとった後、そのまま北苑で狩りを行うそうよ」
「それにアンナ様が随行せよ、と言う事ですね。本当に行かれるのですか?」
「皇帝になりすましているあの男が何を考えているかわからないけれど……私と二人きりで話がしたいと言っているのだから余程のことよね」

 もしかしたら、今まさにアンナが知りたがっているルコットの子供についてのことかもしれない。それならば誘いに乗らない手はないが……。

「ですが、あの男と会うことに抵抗はないのですか」
「もちろんあるわよ。考えるだけでも虫酸が走る……!」

 アンナは思わず両手で自分を抱きしめ、身体を震わせた。アルディスを殺し、彼になりすましてのうのうと生きている男と二人で狩りだなんて、身の毛もよだつほど嫌だ。

「でもね、知りたいのはルコットの子供のことだけじゃない。私自身の家族についてもあの男は何かを知っている……」

 アンナは、ケントの言葉を思い出した。
 エリーナの父タフトを連れていったのは近衛兵の中でも皇帝直属の部隊だったという。ならば彼のことも、マルムゼ=アルディスは知っているかもしれない。

「だから、あえて誘いには乗ることにします」
「本当なら、片時も離れずあなたをお守りしたいのですが……」
「仕方ないわ、向こうが二人でと言ってるんだもの。皇帝が護衛をつけない以上、こちらだけあなたを連れて行くわけにもいかない」

 ふと、そのときアンナにあるいたずら心が芽生えた。いや、正確にはいたずらの体裁をとった、アンナのわがままかもしれない。

「その代わり……」
「は?」

 アンナは両手を突き出すようにマルムゼの前に広げてみせた。

「私の弱さがまた顔を出さないよう、勇気をくれる?」

 そう言ってからニコリと微笑んで見せる。この黒髪の青年に依存したいわけではない。でもなぜだか急にこんな感じで甘えてみたくなったのだ。

「全く、あなたというお人は」

 マルムゼは苦笑しながらも、アンナの突き出した腕と、自らの腕を交差させ、そのまま背中に回して彼女の体を抱き寄せた。
 厚い胸板が眼前に迫り、アンナも彼の背中に腕をまわす。そして、彼の心地の良いぬくもりに自分の身体を埋めた。

「当たり前のようにこんなことが出来るくらい、あなたはしたたかな人ですよ」
「なにそれ、言い方ってものがあるでしょ?」
「褒めているんです。あなたは強い。その強さと勇気を、むしろ私に分けてください。あなた様と離れることに耐えられるように……」

 湯が沸いたことなどすっかり忘れ、アンナは最愛の腹心と、しばらく抱擁を続けていた。
「ここが皇妃の村落か。なかなか趣きのある建物になってではないか」
「これもひとえに、この場所に館を建てることを許していただいた陛下のおかげです」

 その日、皇帝アルディスは、わずかな供のみで東苑の皇妃の村里を訪れた。
 お忍びの行動である。公式の予定では、今日は一日中書庫で読書をしていることになっているらしい。

「本当ならもっと早く訪れたかったのだがな。宰相が良い顔をしないので、こうして密かに来ることにしたのだ」
「まあ、そうだったのですね。私としては、いついらしても良かったのですが……」

 皇妃は良くとも、クロイス公は当然面白くないだろう。何かと難癖をつけて皇帝の意向を断り続けたのは、想像にたやすい。

「それと、そなたとも一度ゆっくり話をしたかった。グレアン侯爵」

 皇帝アルディス3世になりすます男は、アンナに朗らかな笑みを向けてきた。その表情に、アンナは生理的な嫌悪を覚えたが、態度に出す事なく頭を下げる。

「まさか私めを狩りにお誘いくださるとは、光栄の極みです。本日はよろしくお願いいたします」

 いつもはドレス姿のアンナも、今日はパンツスタイルの乗馬服を着て、肩に猟銃をかけている。

「それにしても、本当にお二人で行かれるのですか?」
「ああ、北苑に行くといっても森の深くまで入るつもりはない。せいぜい、今夜のディナー分くらいの野うさぎを捕まえられれば良いからな」
「この皇妃の村里にも、近衛兵が常駐しています。あまりに遅いようでしたら彼らを向かわせますので」
「ああ、ありがとう。君もうさぎは好きだったな? 土産を楽しみにしていたまえ」

 アルディスは、皇妃の額にそっと口付けをした。

「陛下、是非ともよき休日を。それとアンナ?」

 皇妃がアンナの方に向き直る。

「何でしょう皇妃様?」
「私の勘ですが、今日はきっと特別な一日になります。どうかご無事で」
「はい……?」

 何やら含みのある言い方。アンナも気になりはしたが、だからと言って今から皇帝の誘いを断るわけにもいかない。
 頭を切り替えると、馬具に足をかけ、鞍に飛び乗った。
 すでに馬上の人となっていた皇帝は、皇妃に手を振る。

「それでは行ってくる!」
「お気をつけて!」

 皇妃も手を振りかえし、2人を見送る。
 その傍には、マルムゼもいた。何やら思い詰めた顔をしているが、それもいつものことである。そんな彼に微笑み返すと、アンナは馬の腹を蹴り、皇帝に続いた。

 * * *
「それにしてもうまいことやったな?」

 北苑への道すがら、皇帝はアンナに話しかけてきた。

「なんの事でございしょう?」
「もちろん君たちの秘密基地のことさ。かつてフィルヴィーユ派は寵姫エリーナの館を拠点としていたが、それがあったのは貴族の私邸がならぶ南苑だ。ゆえにクロイス派に包囲され、エリーナは高等法院へ出頭せざるを得なくなった」

 エリーナが破滅したきっかけとなる事件の話だ。思えばあの時すでに、この男はアルディスと入れ替わっていた。
 このホムンクルスの影武者を影で操る者は、エリーナを亡き者とするため、クロイス派と結託しあの出頭命令を出させた。そんな推測が、アンナの頭の中では構築されていた。

「一方、君は皇妃を取り込み、東苑に拠点を築いた。あそこならば皇妃の許可がないものは入れない。クロイス公はフィルヴィーユ派以上に手を焼くであろう」
「……皇妃様に屋敷の建設を許可したのは、他でもないあなたです。それはお忘れなく」
「もちろんさ。私が皇妃との仲を深めるために用意した話を、君はうまく利用した。私は素直に君を賞賛したいのだよ」

 そんな話をしているうちに2頭は北苑へ続く門を通った。ここから先は原生林が広がっている、野生動物たちの楽園だ。

「ここで馬を降りよう。馬上だと何かと話しにくかろう」

 そこには馬を繋ぎ止めておく杭が立っている。徒歩での狩りの場合は、ここで馬や馬車を乗り捨てるのだ。

「ところで侯爵は銃の心得は?」

 手綱を杭に引っ掛けながら、彼はアンナに尋ねた。
 
「猟銃でしたら、何度か撃ったことがあります」

 同じくアンナも乗ってきた馬を繋ぎながら答える。

 アンナはかつて、この北苑の森での狩りを好んでいた。今は亡き皇帝アルディス3世と協力して、ウサギや鹿を仕留めたものだった。
 庶民のように、帝都の大通りでデートなどできない2人にとって、この森こそが愛を育む場所だった。

「そうか。では、うかうかと君に背中を見せるわけにはいかんな」

 マルムゼ=アルディスは、アンナの猟銃を見て言う。本気とも冗談ともつかない、感じの悪い言葉だった。

「そんな顔をするな。本題に入る前の、戯れ言さ」

 そんな事を言いながら、彼は草むら深くへと分け入っていく。野うさぎを捕まえるなら木々の少ない草原の方角へ行くべきだが、マルムゼ=アルディスは森の奥へと進んでいく。不審に思いながらも、会話が途切れぬようアンナは彼を追った。

「陛下、本題とは?」
「侯爵も想像はついてあるんじゃないのか?」
「……」
「ホムンクルスだよ。ルコットの腹の子は」

 何でもないことのようにマルムゼ=アルディスは言った。

「いや、腹の子というのは間違いだな。あれは誰の子も宿してはいない。そもそも私には生殖能力がないからな」

 やはりそうだったか。アンナが予測していたことは当たっていた。しかし、不可解な点は多い。

「腑に落ちない、といった顔だな」
「当然よ。突然、皇帝の子がホムンクルスで寵姫は懐妊などしていない、と言われても納得などできるはずがない」

 アンナは敬語を使うのをやめた。周りは木ばかりで、2人の会話ん聞く者など誰もいない。ここならこの男を皇帝ではなくただのホムンクルスとして扱っても咎められることはない。
 
「くっくく……君ほどの頭脳を持ってしてもか?」

 マルムゼ=アルディスは楽しそうに言う。
 出た。この男が初めて正体をさらけ出した時にも見せた薄笑い。かつての恋人の顔が見せるその表情に、アンナは嫌悪感をもよおした。

「簡単なからくりさ。我が主人が所有する私設の錬金工房がある。そこでこの国の皇太子となる胎児はすくすくと育っているさ」

 私設の錬金工房。やはりそういうものがあったのか。ホムンクルスを生み出せるのなら、それなりに大規模な施設だろう。この宮殿や職人街にあった工房施設の研究成果も、そこに移されているのかもしれない。

「……という事は、ルコットはあなた達と結託し、妊娠を装っているという事?」
「いや、彼女は何も知らない。クロイス派のピエロどもは、本気で我が世の春が来ると浮かれているのさ」
「なんですって?」
「人間の身体というのは面白くてね。強い暗示をかけると本当に自分が懐妊したと思い込んでしまう。その思い込みは精神だけではなく肉体にも作用するようだ」

 想像妊娠。そういう現象があるというのは聞いたことがある。しかし、狙ってそんな症状を引き出すことができるのか?

「そうか……あなたの異能は人の認識を書き換えることだったわね」
「流石に察しがいい。その通りさ」

 この男は自分の異能を"認識変換"だと語った。普段はその力で自らを皇帝アルディス3世に見せかけているが、言ってしまえばこれは洗脳だ。応用すれば、寵姫の心や身体を操ることもできるのだろう。

「私も主人に命じられるまでは半信半疑だったけどね。毎晩、閨で暗示をかけ続けていたら本当にルコットの身体は反応したよ。彼女は今、本気でつわりに苦しんでいるし、腹立って膨らんでいる。滑稽なことにね」

 滑稽。その一言に全神経を逆撫でされる思いがした。
 もちろんルコットに好意などひとかけらも抱いてはいない。けど、だからといって、彼女の皇帝を慕う心を否定しようとは思っていない。その想いや肉体の反応を嘲笑するなど、この男に許されるはずがない。

「……なぜ、私にそんな話を?」
「以前言ったはずだ。今の私の使命は、クロイス派と皇妃派を競わせることだと」
「真相を公表しろとでも?」
「そんなことに意味はないと、君ならわかるだろう?」

 その通りだ。証拠もなしにそんな事を公表したところでクロイス派は揺るぎもしないだろう。逆にアンナたちの品性が疑われるだけだ。
 逆にこの男が言う私設錬金工房とやらを見つけ出し、全ての証拠を掴んでそれらも公にすればどうなるか。今度は、クロイス派にダメージを与えるどころでは済まなくなる。皇室そのものの信頼が失墜し、帝国の存亡にも繋がりかねない。

「では私に何をさせたいの?」
「君にしては察しが悪いな。皇妃派からも皇子を出せばいい。そう言っているのさ」
「あ……なるほど、そう言うことね」

 確かに、ルコットが皇子を産んでも、そのすぐ後に正妃であるマリアン=ルーヌが子をなせば事態は拮抗する。どちらを皇太子とするかで、水面下での闘争は激化するだろう。しかし両者が並び立ち競い合うという、この男の主人の目論見は達成される。

「つまり、あなたに皇妃様を差し出せと」

 アンナの声は嫌悪感に満ちていた。
 あの愚かしいほどに純真な皇妃に、この男と夜を共にさせる。そしておぞましい異能で心と身体に間違った認識を植え付けさせる。
 この男の言は、そんな身の毛もよだつ事に加担しろと言ってるも同義だった。

「うん、まあ、それでもいいんだけどもね。もうひとつ方法があると思わないか?」
「え?」
「皇妃派から新たな寵姫を立てればいい。その者がが我が子を産むのさ」
「それは、どういう……」

 不意に、マルムゼ=アルディスの両腕が伸びてきた。それはアンナの肩を掴み、全体重をかけてアンナを後ろに倒そうとする。

「なっ!」

 アンナは尻餅をつくように倒れた。そして男の体が、のしかかる。

「フィルヴィーユ公爵夫人はとても聡明な女性だったという。そんな彼女に負けずとも劣らない君は、ルコットなどより寵姫にふさわしいと思わないか?」
「あなたは……最初から……」

 アンナは今更がさながら自分のうかつさを呪った。なぜ皇帝は2人きりでの狩りを申し出たのか。それは政治的な密談のためなどではなかった。
「あぁあっ!!」

 アンナは叫び声とともに全身全霊の力を込め、上にのしかかるマルムゼ=アルディスの身体を蹴り上げた。

「ぐっ!?」

 思わぬ反撃にひるんだ隙をついて、上体をひねり両肩を掴む腕を振り解く。そしてそのまま男の影から抜け出すと、十分な距離を取る。

「動かないで!」

 アンナは肩に担いでいた猟銃を皇帝に向かって構えた。

「今のはなかなか効いた。見かけによらず、かなりの脚力を持っている。もしかして君は私たちと同じか?」
「……」

 何も答えず、銃口も動かさない。が、マルムゼ=アルディスは彼女の表情から、何かを理解したようだった。

「以前からおかしいとは思っていたのだ。先代グレアン当主の急病、皇妃のほだされ方。君が飼っているホムンクルスの異能だけでは説明がつかなかったが、もう1人ホムンクルスがいるのなら納得できる」
「動かないで! 本当に撃つわよ!」
「やってみればいい。そうすれば、君は皇帝殺しの大罪人だ」
「どうでしょうね? あなたの異能の効果は、果たしてあなたの死後も持続するのかしら?」
「ふむ……なるほど、確かに検証した事はないからわからんな」

 ホムンクルスの異能の正体は、相手の脳に干渉することによって様々な現象を起こすもの、だという事は経験則からわかっている。が、その効果がいつまで持続するのかは定かではない。
 例えばアンナの"感覚共有"については、術者であるアンナと接触している人間のみが対象なので、深く考える余地はない。しかし、マルムゼの"認識明細"やこの男の"認識変換"についてはどうか?
 特にこの男の場合、術をかけられたものはこの男の亡骸を見ても、それが皇帝であると思わされてしまうのか……?

 そんな風に思考を巡らせたほんの一瞬。耳をつんざくような破裂音が炸裂した。直後、右肩に焼けるような熱さが発生し、思わず銃を落としてしまう。

「隙だらけだよ、侯爵。戦場で余計なことを考えるのは感心しないな」

 いつの間にか、マルムゼ=アルディスの手には短銃が握られていた。あれなら猟銃よりも小さな動作で発砲することができる。その小さな動作をアンナは見逃してしまったのだ。

「所詮は戦いの場に足を運んだことのない女子供。私の動きを制することなど、あたわぬ」

 偽りの皇帝はアンナの前に進み出る。そして、短銃をアンナの顎に添えると、銃口を上に向けさせるように持ち上げた。

「大人しくすれば、これ以上暴力を振るうことはしない」
「ふんっ!それなら異能を使って私を洗脳してしまえばいいじゃない!」
「ほう? 使って欲しいのか? それを望むというのなら、私無しでは生きられないよう認識を書き換えてしまうが?」

 この男に盲従する自分を想像し、全身に鳥肌が立つ。

「安心しろ。そんな無粋なことはしない。生き人形を抱いても楽しいことなどないからな。名門クロイスの愛娘、大国"鷲の帝国"の王女、そしてこの国に新風を巻き起こした才女。そういった者たちを組み敷いてこそ皇帝の……いや、男としての充足があるというもの」

 その言葉に、この男の行動原理が垣間見えた気がした。無より生み出され、偽りの皇帝としての生を命じられた存在。それが何を求めているか、が。

「今あげた3人のうち、1人目はもう十分に堪能した。残る2人のどちらかを私に差し出せ。皇妃か己か、好きな方を選ばせてやる」
「……うな」
「何?」
「アルディスの顔と声で、そんな下卑た事を言うな!!」

 怒りと悔しさで、涙がとめどなく溢れる。こんな男があのアルディスになりすましている。その事実が、ただただ許せなかった。

「アルディスの……?」

 アンナの涙ながらの抗議が、男の琴線に触れたようだった。何かを考えているようだが、アンナと同じ失敗をおかしてはいない。銃口はアンナの顎に突きつけられたままだ。

「お前がホムンクルスと仮定して……その魂には別の誰かが必要となる……。その聡明さ、クロイス派に対抗する派閥を立ち上げるほどの才覚……」

 マルムゼ=アルディスがつぶやくように発する言葉は、アンナの魂をまさぐり、その輪郭を確かめていく。そしてとうとう、男の思考は答えに到達してしまった。

「エリーナ? お前はフィルヴィーユ公爵夫人エリーナか!?」
「……」

 何も言わず、アンナは男の顔を睨みつけていた。しかしその表情は、言葉よりも雄弁に解答を与えてしまったようだ。

「なるほど。やはりお前だエリーナ・ディ・フィルヴィーユ! 他者に甘えてばかりの皇妃なぞより、お前の方が我が妻に相応しい!」

 偽皇帝の顔が歓喜に崩れた。もはや異能など関係ない。かつてアルディス3世がエリーナに見せた、慈しみに満ちた笑顔とは似てもにつかぬ醜悪な狂気の笑み。それをアルディスの顔と認識するのは、少なくともアンナには不可能だった。

「私に力を貸せ! 私を愛し、支えれば良い! お前なら私をホムンクルスの牢獄から解き放ってくれるだろう。名実ともに"百合の帝国"の支配者となる! そしてその横にお前が立つのだ!!」

 それが、この男の正体だった。
 操り人形でしかない自分を打破し、真の意味で皇帝となること。それがこのホムンクルスの望みなのだろう。
 主人がいる身でありながら、日々の振る舞いと思考は、皇帝である事を強いられ続けてきた。その不自由さが、このホムンクルスの怪物にしてしまった。
 しかし、だからといって、アンナがこの男に同情する義理も必要性も存在しなかった。

「誰がお前なんかに従うか……!」
「お前の父に合わせてやる、と言ってもか?」
「え……?」
「なんだ? 職人街を再建していると聞いたから、すでに知っているものと思っていたぞ。エリーナの父、タフトの消息についてだ」

 そうだ。職人街の錬金工房が焼失した際、父は近衛兵によって誘拐された。その事実を確認するのが、アンナにとっての今日の狩りの目的だったのだ。とてもそんな事を聞くような状況ではなくなってしまったが……。

「あれは賢者の石の隠し場所を知っている。だから、我が主人が身柄を押さえたのだ」

 そういう事だったのか……。アンナの頭の中で線が繋がる。
 工房跡地の奥深くに眠っていた、生成中の賢者の石。それは巧妙な仕掛けで隠され、誰にも見つからずに放置されていた。
 あの仕掛けや、石の生成装置には複雑な機械装置が必要となる。工房でも特にその腕を信頼されていたタフトが、作成に関わっていた可能性は極めて高い。

「あれから何年も経つのに、いまだに口を割ろうとしないがな。先ほど話した私設工房に今も幽閉している」
「……」

 父の顔、闇に浮かぶ賢者の石の光、複雑な仕掛け。それらのイメージが頭の中に浮かび上がる。
 その時、マルムゼ=アルディスが全体重をかけてアンナを押し倒す。

「一度ならず二度も隙を見せるとは。案外愚かな女だなエリーナ。いや、考えすぎるからこそそうなるのか?」

 男の下卑た笑みが眼前に迫る。顔の横には依然として真っ黒い銃口が突きつけられている。それはアンナを凝視する怪物の瞳のようにも見えた。

「さあ、私を受け入れろ。そしてアルディス3世と寵姫エリーナによる輝かしい時代を始めようではないか!!」

 もはやアンナ独りではどうすることも出来なかった。全身をしっかりと押さえつけられ、先ほどのように蹴り上げて抜け出すことも出来ない。
 男のどす黒い欲望を前に、アンナはあまりにも非力だった。

「この痴れ者が!!」

 突如横から怒声。怒りの感情がそのまま音波になったような激しい叫びだ。
 そして偽皇帝の身体が、アンナの上から弾き飛ばされる。

「ぐあっ!」

 マルムゼ=アルディスは地面の上を2、3回転してから突っ伏した。

「マルムゼ……?」

 いつのまにかアンナの目の前に、見慣れた青年の背中が屹立している。あの憎き偽皇帝と同じ名を持ちながら、今やアンナが最も信頼している者の背中。
 顔は見えないが、怒りに打ち震えているのは後ろ姿からでもわかった。黒髪が今にも天をつくのではないかという気すらしてくる。

「貴様……」

 顔をあげた偽皇帝。その顎を、マルムゼは容赦なく蹴り上げた。

「ぐはあっ!」

 口から大量の血。それでも、男はよろよろと立ち上がる。

「うあ……ううあぐああ」

 マルムゼの蹴りは、顎を打ち砕いたようだ。男の言葉は言葉にならず、不明瞭なうめきとして発せられた。

「……」

 蹴られた際に手から離れた短銃がアルディスの足元に転がっている。マルムゼは何も言わずにそれを取り上げると、彼が痴れ者と罵った男に突きつけた。

「ああ……!?」

 無慈悲な銃声が轟き、男の眉間が正確に貫かれた。
 異能を用いて大国の皇帝になりすましていた稀代の悪人の、それが絶命の瞬間だった。

「マルムゼ……」
「アンナ様!!」

 振り返ると、マルムゼは今にも泣きそうな顔でアンナを抱き寄せた。
 力強く、けど優しい腕が、アンナの体を包み込む。恐怖と怒りと悔しさに塗れていたアンナの感情が、すっと解きほぐされるのを感じた。

「申し訳ありません。仕方なかったとはいえ、あなた様のお側を離れたこと、あなた様を窮地に立たせたこと、悔やんでおります」
「マルムゼ……よく、よく来てくれました」
「もはや、片時も離れはしません。終生、あなたのお側におります!」

 アンナを抱きしめる腕の力がより強くなる。
 今、改めてアンナは実感した。マルムゼのことが好きだ。この青年を愛している。
 これまで自覚しつつも、どこか後ろめたさを覚えていたこの感情を、アンナは正面から受け止める覚悟を決めた。
 ホムンクルスとしてのしがらみや、それに起因する不信。そんなものは、最早どうでもいい。

 私はマルムゼを愛している。

 力強い腕に抱かれながら、アンナはその実感を噛み締めていた。

 だが、二人だけの世界で余韻にひたる暇など、今はない。
 数頭の馬の蹄の音が近づいてくるのが聞こえた。
 この状況、言い逃れはできない。皇帝を殺した。その正体がホムンクルスの影武者だったとしても、その事実は変わらない。新たな窮地が2人に近づいていた。

「アンナ! マルムゼ殿!」

 近づく馬群からは、意外な声がした。

「皇妃様……?」

 盲目の皇妃が、近衛兵の背中に掴まりながら馬に乗っていた。その他の馬もいずれも黒い軍服をまとう近衛兵たちが乗っている。彼らは皆、皇妃の指揮下にあるようだ。

「やはりこうなってしまいましたか」
「これは、その……」
「アンナ、何も言わないで。皆さん、この2人に馬を。それと陛下のご遺体を皇妃の村里に運んでください!」
 皇妃の村落。農家を模したゲストハウスのひとつに、皇帝の亡骸は運び込まれた。
 何度見ても、その眉間に大きな穴の空いたその顔はアルディス3世のものだった。どうやらマルムゼ=アルディスの異能は、彼の死後も人々に暗示をかけ続けるらしい。そして術者本人が死んだ以上、その暗示は永遠に解けることがない。
 つまり、この数年間死を偽装され続けてきた皇帝アルディス3世は、今日この日をもってついに死者となったのだ。

「翌朝、陛下の死を公表しますが、それまでに我々がなさねばならぬことが山のようにあります。それをひとつでも誤れば、私たちは破滅です」

 皇妃は毅然とした態度で、アンナとマルムゼ、そして近衛兵たちに語りかける。
 正直、皇妃がこのような状況に全く動じず、これほど堂々とした振る舞いを見せるのは意外だった。まるでこの日をずっと前から予期し、覚悟していたかのようだ。

「まずはアンナ、あなたにはきちんと説明をしておかなければいけませんね」

 盲目の皇妃が、アンナの方向に顔を向けた。そこに違和感を覚える。
 両眼が見開かれていたら、彼女の視線はアンナのそれと正確に重なったであろう。

「あなたが陛下とともに出発した後、私からマルムゼ殿に要請したのです。あなたの後を追うようにと」

 だからこそマルムゼはあのタイミングで駆けつけることができたのだろう。もし、彼がいなければ今頃どうなっていたか、想像するだけでもおぞましい。

「さらにその後ろを我々が追いました。マルムゼ殿が変事を察知したら、すぐに駆けつけられるように」
「そう……だったのですね」
「私は2種類の変事を想像していました。ひとつは陛下があなたに害を加えようとする状況、そしてもうひとつはあなたが陛下に害を加える状況」
「え……?」

 アンナは自分の心臓が一際大きく脈打つのを感じた。私が皇帝に害を……? いや、全くあり得ないわけではなかった。もともとあの男も復讐の対象に入っているのだ。今日のことがなくとも、いずれはその手で殺すつもりでいた。

「そして、私はマルムゼ殿に伝えました。どちらの状況であってもアンナを守り、陛下を殺すように、と」
「なっ!?」

 アンナはマルムゼの顔を見る。

「皇妃様のおっしゃる通りです。私はこの男の殺害を命じられました。しかし、最新的な判断をしたのは私自信です。そしてその判断が過ちだったとは全く考えていません!」

 マルムゼはその黒い瞳にアンナへの慈しみを満たしながら、そう応じた。

「それでは皇妃様は、最初から陛下を……」
「もちろん陛下が何事もなくただ狩りをお楽しみになるつもりでした、こうはなりませんでした。けど……仕方ありませんわ。だってこの亡骸は本当の陛下ではないのでしょう?」
「なぜ、それを……?」

 今自分が話しているのは、本当に皇妃マリアン=ルーヌなのか? そんな疑念を抱いてしまうほど、いつもの彼女とは別人だった。その上、この亡骸の正体まで知ってる? 一体どういうことなのだ?

「きっかけは、あなたに花畑の景色を見せてもらった事だと思うの、アンナ」
「花畑?」
「そう、あなたの持つ不思議な力で一時的に視覚を取り戻して……それで気づいたのよ。あなたが手を離し、世界が暗闇に包まれた後も、ほのかに光が残っていることにね」

 この人は何の話をしているのだ?

「すぐにそれは特定の人から発せられているのだと気がついた。特に強い光を持つのは、リアン太公や我が兄ゼフィリアス。他の皇族の方々や、一部の貴族にもほのかな光を放つ方はいましたが、この2人はとりわけ強かった」
「つまり……王家の血筋……?」
「そうね。確かに光を持つ方々の特徴として私もそれを考えました。でも一方でアンナ、あなたやマルムゼ殿からも強い光を感じるのです」
「え?」

 自分たちにも光が?
 いや、そういうことか。アンナは皇妃の言う光の正体が見えた気がした。

「でもあなたたちの光は少し違う。例えるなら……兄たちが自然の花の香りだとするなら、あなた方のそれは香料を調合して作った香水。どこか人工的なものを感じるのです」

 竜退治の英雄たちが使っていた魔法の力と、それを再現すべくサン・ジェルマンが生み出した異能の力。その差を皇妃は光として感じ取っているのだ。
 恐らく"鷲の帝国"の皇族に受け継がれてきた魔法の力の残滓。それが盲目という特殊な環境で、アンナの異能に触れた事で、活性化されたのだろう。
 全くの憶測だが、そう考えれば辻褄が合う。

「そして、アルディス陛下は人工的な光を放っていた。だから思ったのです、この人は本当の陛下ではない。何者かがアンナの持つような不思議な力を使い、皆をあざむいているのだと」
「そこまで……わかっておいででしたたか」
「そんな言葉が出るということは、正解なのね。そして、アンナはそれを前から知っていた」
「申し訳ありません。決して、皇妃様をあざむくつもりは……」
「いいのよ。あなたは私よりもより広く、深く物事を考えている。私に説明していないことなんて、星の数ほどあるでしょう」

 皇妃の微笑みはいつも通りの屈託のないものだった。
 アンナはその微笑みにほっとした自分に気づき、直後に無意識にこの人を恐れていた自分にも気がついた。

(優しいだけの愚か者? 違う、確かに私はそう思っていたけど、それは間違いだ)

 あるがままでいるだけで人の上に君臨する、紛れもなく王としての資質に恵まれた女性だった。

「皇妃様、連隊長閣下がお前です」

 皇妃付きの近衛兵の一人が、伝えてきた。

「わかりました。すぐにお通しして」

 近衛兵にそう伝えると、皇妃は再びアンナの方を向いた。恐らくはアンナが放っているという、異能の光で彼女の位置を特定しているのだろう。

「近衛連隊長のボールロワ伯爵がお見えになられたようです」

 皇妃はアンナに言う。ボールロワ伯爵は近衛兵の主力一万を指揮する人物だ。宮殿近くにある近衛府にいるはずだが、いつの間に、そして何のために彼を呼んだのか?

「アンナ、私に()()を預けてくれませんか」
「それ、とは?」
「あなたが肌身離さず持ち、今私たちが必要としているものです。それがあれば近衛連隊長を、いや帝国正規軍10万を味方につけることができる。違いますか?」
「まさか……!?」

 リュディスの短剣。なぜアンナが持っていることを知っているのだ?

「光を放つのは人だけではありません。あなたの懐の短剣は、兄やリアン大公以上に明るい輝きを持っています」

 短剣に秘められた魔力。つまり帝国の祖・リュディス1世の魔法の残り香を感知しているということか?
 様々な要因が重なり、彼女は今どんな錬金術師よりも、錬金術の真髄に近いところにいるのかもしれない。

「しかし、これは……」

 流石のアンナもためらいを覚えた。アンナはこの短剣を乱を起こさないための抑止力として用いるべきだと考えている。それをこの皇妃に渡して本当に良いのか?

「どうかしましたか?」
「いや、その……」
「ふふっ、いつもの私と違う態度に戸惑っている、といったところでしょうか?」

 皇妃は、はにかみながら言う。こうした表情は普段の彼女と変わらない。

「アンナ。あなたと出会った私には、欲が生まれてしまったようです」
「欲、でございますか?」
「ええ。視力を失った時、私はそれが自分の運命だと受け入れてしまった。ひっそりと皇宮の奥で、誰にも影響を与えず生きていくべきだと思い定めてしまった」

 確かにかつての彼女は世捨て人も同然であった。誰も必要とせず、誰からも必要とされない。ただ"鷲の帝国"との同盟を担保するだけの存在。
 それゆえに、アルディスもこの女性を持て余し、その心はエリーナへと向けられることとなった。

「でもあなたが現れ、私に色々な世界を見せてくれたのです。私はもう、かつての私に戻りたくない。そのためには前へ進むしかありません!」

 皇妃は改めて、アンナに向かって手を突き出した。

「今、手をこまねいていればクロイス公爵に先手を取られます。そうなれば私たちは今の地位を奪われるだけでなく、命すら脅かされる。違いますか?」

 違わない。皇妃の村里に立ち寄った後に皇帝が死んだのだ。彼は必ずそれを利用する。皇帝の死の責任を皇妃やアンナに押し付けるだろう。
 そして実際、あの男を殺したのは、マルムゼとアンナなのだから、追及を免れることは難しい。皇妃派はフィルヴィーユ派と同じ運命をたどることになる。

「かしこまりました」

 アンナは懐から短剣を取り出し、皇妃の手の平に乗せた。皇妃は古い鞘をぐっと握りしめる。

 覚悟を決めた。
 これはピンチなどではない。アンナが思い描いていた復讐の絵図を、一足飛びに実現させるまたとない好機なのだ!

「かくなる上は、あなた様にお願いがございます」
「何でしょうアンナ?」
「この帝国に君臨し、幾百万の民に安息と平穏をお与えください。そのために私は全身全霊をもってあなた様をお支えします。……女帝陛下」

 アンナがマリアン=ルーヌを新たな称号で呼ぶと、彼女は満足そうにうなずいた。

「もちろん、そのつもりです。我が腹心アンナ、まずは二人で宮廷を掌握しましょう」