【火・金更新】寵姫として皇帝と国に尽くした結果暗殺されたので、錬金術で復活して宮廷に復讐してやる!

「ホムンクルスに子をなす能力があるか……ですか?」
「ええ」

 ヴィスタネージュ宮殿から屋敷に戻ったアンナは、書斎でマルムゼに訪ねた。

「それは……どういう意図のご質問でしょうか?」

 珍しくマルムゼは答えに躊躇している。サン・ジェルマンのロック機能……と言うわけでもなさそうだが。

「どういうって……」

 腹心のらしくない態度をいぶかしむアンナだが、すぐにその理由を察した。

「ちっ!ちがうわ!! 私たちの話をしているわけじゃないから!」

 慌てて、首と両手の平を左右に振る。頬が火照るのを感じた。
 そう。確かにアンナとマルムゼは、子供ができる可能性がある事をしているのだ。

「安心して、月のものはちゃんと来ているし、私にその兆候はないから……!」
「安心……ですか」

 なぜだかマルムゼが寂しそうな顔をする。それを見て、アンナの心もざわつく。

「ええっと、その……だからそう言う事じゃないんだってば!」

 書斎に不釣り合いな大声になってしまった。使用人が怪しんでなければ良いが。というか、なんでこんな流れになってしまったのだ……。

「違うの。ルコットに懐妊の兆候があるとあの女が……新女官長が言っていたのよ」
「寵姫殿が? ……となると、お相手は皇帝という事に……なるほど、そういう事でしたか」

 皇帝アルディス3世はすでに亡く、ホムンクルスの替え玉が入れ替わっている。その事を知っているのは、帝国でもごくわずか。グリージュス公どころか夜を共にするルコットすら知らないだろう。

「私の知識だけでは、なんとも言えません。私が体感する限り、異能と運動神経の向上以外は、普通の人間と変わらないので、生殖能力を持つ可能性はありますが……」
「人造生命が子孫を成せるとすれば、それはもはや神の領域よね」
「そうです。私もそこが気になります」
「いくらサン・ジェルマンといえども、その境地に到達していたのかしら……?」

 そもそもサン・ジェルマン伯のホムンクルスは未完成なのだ。魂の創造には至らず、エリクサーに溶かし込んだ人間の魂を、空の肉体に馴染ませなければならない。悲劇のエリーナがアンナの肉体を得て復活したのも、この工程があったからこそだ。
 そんな未完成のホムンクルスが、生殖能力を備えていると考えて果たして良いのだろうか……?

「ならば、寵姫や女官長が嘘をついているか、あるいは……」
「寵姫が皇帝以外の男と通じているか……」

 もし寵姫に間男がいるとすれば、大変なスキャンダルだ。帝国の歴史の中には、この罪を犯して立場どころか命まで失った寵姫が数名いる。

(逆にこの話が真実だった場合、危うくなるのはこちら側ね)

 ホムンクルスに生殖能力があったなら、帝国が十数年待ち続けた世継ぎの誕生だ。
 クロイス公の孫が次代の皇帝のなれば、皇妃の立場は一気に悪くなるだろう。どちらに転ぶとしても波乱は必至だ。

「調べる必要があるわね。マルムゼ、お願いできる?」
「かしこまりました」

 今は無用な予断はよしておこう。下手に動けば自滅しかねないナイーブな問題だ。正しい情報がない状態であれこれ考えるのは、自分の首を絞める事になりかねない。

「ところでその女官長なのですが……」

 マルムゼは話題を切り替えた。

「あなた様の上役になったのは、非常に厄介ですな」
「そうね。でも、実はそれほど心配もしていないの」
「と、言いますと?」
「どうせ今だけよ。すぐに私はあの女より上の立場となる」

 アンナの両眼が不適にきらめいた。
 かつて皇妃が、アンナを女官長に指名したいと言ったことがあった。当時の皇妃には政治的な力は皆無で、宮廷の人事に口出しをすることなど不可能だった。
 だが、状況は変わりつつある。長い戦争の集結により、その立役者となった皇妃派の発言権は増してきている。

「あなた様が最終的に権力をお取りになる事については、私は少しも疑っておりません。ですが今、動きづらいのは事実ではありませんか?」
「それはその通りね。大広間の改装をするとなると、皇妃様の館にお金や業者を回すことは難しくなる……」
「皇妃派の拠点を作らせないのが奴らの狙いでしょう」

 かつてフィルヴィーユ派がクロイス派と対抗できたのは、庭園内にあるエリーナの居館や錬金工房を拠点とできたからだ。
 それに、皇妃の身柄を安全なところに置いておきたいという考えもあった。真偽はともかくルコットが懐妊したという話が出てきたのだ。別の後継候補を出さないためにも、彼女の命を奪おうとしてくるかもしれない。

「館の建設は進めます。止めるわけにはいきません」
「ですが、どうやって?」

 大広間改修のための業者や職人を、東苑に回すようなことをすれば、すぐに女官長に気づかれるだろう。それに、工事費用の使途も細かく追及してくるはずだ。

「宮廷家財管理総監」

 アンナは、自らに与えられた役職の名をとなえた。

「この役職に私を据えたことが、奴らの最大の失敗よ」

 第貴族の家に生まれ育った連中からしてみれば、この役職は、宮廷に飾り付け屋くらいの認識しかないだろう。しかし、職人街で生まれて、錬金工房で働き、官僚たちを束ねてきたアンナには全く別の景色が見えていた。

「マルムゼ。あなたにはセコくてチンケな小悪党の真似事をしてもらうことになるけど、いいかしら?」
「ぶっ……」

 アンナが普段使わないような言い回しをした事に、思わずマルムゼは吹き出した。

「ふふふ……いえ失礼。あなた様がそれをお望みならば、セコくもチンケにもなりますよ、私は」

 黒髪の青年は女主人の手を取ると手の甲に自らの唇を当てる。
 女主人は、信頼と愛しさを込めた眼差しで微笑み、それに応えた。
 帝都には6つの市門がある。
 帝国建国時には街の周囲をぐるりと囲っていた城壁は、市域の拡大とともに取り壊され消滅したが、門だけは移築され今も残っている。
 それぞれ現在の市域の外れにあり、今も程度の玄関口として機能している。

「えっ?」

 南西の市門をくぐる手前から、アンナは賑やかな気配に気づき、馬車の窓を開けた。
 2年前、アンナの肉体を得てから初めて通ったのがこの門だ。あの時は絶望に打ちひしがれたのを覚えている。大火で焼け落ちた職人街はスラムに成り果て、中央にあった錬金工房は広大な更地と化していた。エリーナが生まれ育った故郷は無惨な姿に朽ち果てていたのだ。
 それが今、活気に満ちた人の声と、金槌やノコギリの音で溢れかえっていた。

「すごい……こんなに人が戻ってきていたのね」

 馬車を降りたアンナは、その喧騒を聞きながら心を打ち震わせていた。
 焼け落ちた家々の瓦礫は取り払われ、そこに新しい家を建てるための柱が組まれている。そして人々の顔には正気が宿り、せわしなく動き回っている。

「すべて、あなた様の功績です。アンナ様」
「そんな。私はまだ何もしていないのに」

 いずれは、職人街を再建するつもりでいた。が、今の時点でまだ何も着手していないのだ。
 それなのに、人々がこの廃墟に集まり、一から街を再建しようとしている。

「錬金工房跡地で行われていた貴族の悪事を暴き、"獅子の王国"との戦争を終わらせた。どちらも、あなた様が成し遂げたことではありませんか」

 話は"皇帝の小麦"に関する一連の事件まで遡る。
 先代グリージュス家当主で、あの女の夫だったグリージュス公爵は、軍の物資を横領し、工房跡地の地下に隠していた。
 劇場建設予定地という名目で立ち入り禁止になっていた広大な更地が、大貴族による悪事の拠点とされていた。この事実に元住人は怒り、小規模な暴動が発生したらしい。
 だが当時、帝都防衛総監だったラルガ侯爵は、彼らを弾圧せず、一部の暴れ者の逮捕だけで済ませてしまった。事を穏便に済ませたい帝都市長も住民の行動を黙認し、更地には人々が居着くようになったそうだ。

 そして戦争の終結。これによって、前線に駆り出されていた男たちが戻ってきた。彼らは仕事を求め、かつて帝都の経済を下支えしてきた職人街に集まってきた。
 
 こうして、歴史ある帝都職人街の再建が急速に進み出したのだ。誰の主導でもなく、民衆たちの意志によって。

(確かにあのふたつの事件はきっかけになったのかもしれない。でも、活気は私が生み出したものではないわ)

 絶え間なく続く復興の音は、アンナの心を強く震わせていた。

「失礼ですが、グレアン侯爵閣下……でございましょうか?」

 突然、声をかけられた。とっさにマルムゼが、アンナの身をかばう姿勢をとる。その俊敏な動作に、声の主は動揺したようだ。

「あっあの、すみません! 突然お声がけなどしてしまい!!」
「あなたは……?」

 その顔を見て、アンナは心臓が止まる思いがした。

「ケン……」
「私、ガラス職人のケントと申します。この街の再建のまとめ役のような事をしております」
「あ……は、初めまして……グレアン侯爵アンナです」

 あぶなかった。本来、アンナ・ディ・グレアンはこの男と面識があってはならないのだ。相手が先に名乗った事によって、アンナはその人物の名を呼んでしまう失態を避けることができた。

(最後に会ったのはいつだったかしら。すっかり大人……というより、おじさんね)

 ()()()()()()だから……もう30歳を超えているはずだ。アンナは、少年の頃の面影が残るその髭面を見て、前世の記憶を懐かしんだ。
 ケント。彼は、この職人街で一番大きなガラス工房の跡取りで、エリーナの幼馴染だ。

 * * *
「それにしてもよく私だと分かりましたわね?」
「このような場所にお越しくださる貴族……それもご婦人となると、侯爵様しかいらっしゃらないだろうと、そんな確信がございました」

 ケントは自分のガラス工房へと案内してくれた。ここがは今、職人街再建のための拠点となっており、商工会議所を兼ねているのだという。

「ここでいいわ」

 玄関を抜けてすぐの場所にある工房で、アンナは足を止めた。

「ここですか? 食堂ならテーブルや椅子もあるし、いくらかおくつろぎできると思うのですが?」
「いいえ、こういう空気が好きなのよ。ここでお話がしたい」

 アンナは中央に据え置かれた炉や、その周辺に配置された作業台、道具置き場などを眺めた。工房自体は新築だが、どこか懐かしい。ケントの父親の工房と同じ配置だ。

「この炉は、石炭で動かす最新式ね」
「お詳しいのですね! ええ、錬金術を応用して作られているものです!」
「高かったのではなくて?」
「実は軍からの払い下げ品なのです。私は前線近くの街で、軍属として物資製造をやっていましたので」
「ということは、もしかしてエイダー男爵が?」

 前線からの撤兵は、ラルガ侯爵の息子であるエイダー男爵が指揮していた。

「はい。男爵様に、帝都に戻って職人街を再建したいという話をしたら、この炉を持ち帰れるよう取り計らってくれたのです」
「そうだったのね」

 アンナは心の中で喝采した。やるじゃないか男爵。きっと彼は、不要となった軍備をこうして、兵や軍属たちに手土産として持ち帰らせているのだろう。疲弊した彼らの新たな生活が少しでも楽になるように。

「ところで……実は侯爵様のお知り合いが、この街にいるのですが、会っては下さいませぬか?」
「私の……知り合い?」

 アンナは首を傾げる。このケントのように、エリーナの顔見知りは何人もこの街にいるだろう。けど、アンナを知る人物とは、いったい誰のことだ?

「ダン! 隠れてないで入ってこい!」

 ケントが叫ぶように呼びかけると、工房の入り口から、おずおずと1人の男が入ってきた。

「あなたは!」

 横に控えていたマルムゼが、何も言わずに半歩前に歩み出た。剣の柄には手をあてている。何かあればすぐに斬りかかれる態勢だ。

「大工のダンです……覚えていらっしゃいますでしょうか?」

 小さく身を縮こませ、押し黙っている男に変わって、ケントが彼の紹介をする。

「……覚えています」

 アンナが廃墟と化したこの地を訪れた時に襲いかかってきた強盗の1人だ。エリーナとしても知っている顔だったから、マルムゼに殺すなと命じて逃してやった。

「あ、あの時は……す、す、すみませんでしたあ……っ!」

 ダンは弾かれたように勢いよく地面に伏せ、絞り出すような声で謝罪した。

「彼は腕利きの大工でしたが、自暴自棄になっていた時期がありました。そんな時にお会いしたあなたに謝りたいと、いつも言っていたのです」
「あの時は、何もかも無してしまって……何もかもが憎くて……それであんな事を……」

 とめどもなか溢れてくるダンの後悔の言葉を、アンナは黙って聞いている。

「あなた様がここで行われていた大貴族の悪事を暴いたと聞き、あの時会ったお方 だとすぐに気がつきました。それからオレは……オレは……」

 ダンが伏せる地面に涙が落ち、黒いシミが作られている。みるみる広がっていくそれを見て、アンナはそれが彼の心からの後悔であることを理解した。

「わかりました。顔をあげてください、ダン」

 意識的に穏やかな声で、アンナは大工に語りかける。

「当時の職人街の状況や、あなたの境遇を思えば、悪事に手を染めるのも仕方なかったのでしょう。けど、だからと言って全てを水に流すわけにもいきません」
「それは……もちろん! もちろんです! どんな罰でもお受けします!」
「では、私を手伝ってください」
「へ?」

 ダンは顔を上げ、きょとんとした表情でアンナを見つめた。

「ケント、彼は腕利きの大工だと言いましたね?」
「ええ。この工房をはじめ、ここの建物の多くはこいつの指揮で建てたものです。個人の力量はもちろん、親方としての才覚もありますよ」
「ならば、その腕をふるって皇妃様の館を建ててください。それがあなたに下す罰です」
「皇妃様の館……と、申しますと、今宮殿の庭に作っているという噂の?」
「まさしく、それです」
「待ってください! そういうのは帝室お抱えの業者や職人がやるもんでしょ? オレはただの町大工ですよ?」
「訳あって、その業者が使えなくなってしまったのです。ゆえに、あなた方にお願いしたく」

 ダンとケントは目を丸くしている。無理もない。宮廷や皇族の衣食住にまつわる事は全て、お抱え業者が行う。これは数百年続く慣わしだった。
 よほどの理由がない限り新規参入はあり得ないし、あったとしても声がかかるのは、貴族相手の仕事を請け負う人間に限られる。

「もちろん、相応の報酬はお支払いします。マルムゼ」
「は」

 マルムゼは懐から小さな皮袋を取り出すと、ケントに手渡す。

「これは……!」

 皮袋の中身を見たケントは思わず息を呑んだ。その顔を見たダンが皮袋を受け取ると、その中身を作業机の上に広げる。

「なんてこった……」

 無骨な工具しか置かれていない作業机の上に、きらびやかな光の粒が溢れた。ダイヤ、ルビー、サファイア……いずれも大粒な上に、最大限の輝きが放たれるよう計算され尽くしたカットが施されている。
 他にも東方大陸から輸入した珊瑚玉。赤子の握り拳程もあろう大粒の真珠、太陽のような黄金色の光を放つ琥珀。それら一粒でも、庶民の家を建ててお釣りが来るほどの宝石。それが十数個、皮袋には詰まっていた。

「同じ大きさであと20袋は用意できると思います」
「ケント、これだけあれば街の再建も予定より……」
「……」

 喜び勇むダンとは対照的に、ケントは険しい顔で宝石を眺めていた。

「侯爵様。我々はその館をどこまで作れば良いのですか?」
「基礎工事は終わっていますので、内装・外装を含めた居館本体の建設を」
「内装……という事は、最後までやって欲しいという事ですね?」
「ええ」
「それならば我々にはできません。申し訳ありませんが……」

 ケントは頭を下げる。

「なっ! なんでだよ!?」
「わからねえかダン。皇妃様のお屋敷だぞ!? この工房を建て直すのと訳が違う。仕入れだけでいくらかかると思ってるんだ?」
「あっ」

 その言葉にダンも気づいた様子だった。

「話によれば宮殿の大広間も今、改修工事の真っ最中らしい。その広間にはこういう宝石が何万個も使われているんだそうだ。内装もやるって事は、俺たちがそういうものを用意しなきゃならないって事だ」

 ケントの言葉に、アンナは思わず口元をほころばせた。その顔をケントは見逃さなかった。

「申し訳ないが侯爵様、私はそんな面白い話はしてませんよ?」
「いえ、失礼しましたケント殿。ですがあなたが仰る事があまりにも正しいので……」
「は?」
「実はこの宝石こそが、その宮殿大広間に使われている宝石なのです」
「えっ!?」

 アンナがマルムゼに命じた、セコくチンケな小悪党的行為。その内容こそが、この宝石だった。
 現在、アンナの指揮のもと大広間の改修工事が始まっている。その最初の作業が、広間の壁や天井を飾り立てていた40213個の宝石の取り外しだった。これらは磨き直した上で新たに作り直した台座にはめ直されることになっている。が、その一部をマルムゼが失敬したのだ。
 もちろん証拠が残らないよう、リストと帳簿も改竄してある。マルムゼの異能"認識迷彩"があれば造作もないことだった。
 おそらく被害総額は史上最高のコソ泥行為であろう。

「20袋合わせたところで、大広間の宝石の1/100にもなりません。この程度であの内装を実現できない事は、私にもよくわかります」

 アンナは話を続ける。

「でもね。私も皇妃様も、あなた方にきらびやかな内装の施工など望んでいないのです。むしろ、いつも通りの仕事をして欲しいと思っているの」

 * * *
 一週間後、職人街の男衆たちが丸太を満載した台車をひいてヴィスタネージュの大庭園にやってきた。
 彼らはあらかじめ開放されていた北苑の通用門を通り、そのまま東苑へと入っていく。

 その知らせを聞いた宮廷女官長グリージュス公爵は血相を変えて、アンナも前に現れた。

「グレアン侯爵!」
「これは女官長殿、そのような格好でどうしたのですか?」

 アンナが「そんな格好」と評した彼女の出立ちは、薄いシャンパンゴールドのドレスと、高く結い上げ花飾りをつけた髪という、宮廷の女性に求めらる姿そのものと言って良いものだった。
 それに対してアンナはブーツとパンツ。髪は後ろで束ねたのみ。宮廷ではタブーとされている男装に近い。が、大勢の職人が出入りし、誇りや木屑が舞う改装中の大広間に相応しいのがどちらかは、一目瞭然だった。

「御用があるのでしたら、私から出向きましたのに」
「白々しい……アレはどういう事かしら?」
「アレ、とは」
「東苑に入っている職人のことです!」

 女官長グリージュス公爵は、鋭い視線をアンナにぶつけてくる。こうなるのは予想通りだが、まさかこの女が埃の舞う現場まで押しかけてくるとは。
 自分の思う通りにならないのが、よほどお気に召さなかったらしい。

「申したはずよ。皇妃様の館は、一旦工事を見合わせなさいと」
「ああ、ご安心ください。彼らを雇うのに宮廷費は一切使っていませんので」
「なんですって?」
「後ほど帳簿を提出しますが、彼らは家財管理総監の権限で雇っているわけではありません。費用は、皇妃様のポケットマネーから出ています」
「ポケットマネー?」
「はい。皇妃様に工事中止のご相談をしたところ、私物の宝石を工費に充てて欲しいとのことでしてので。それならば大広間(こちら)の工事にも影響しませんので、問題はないでしょう?」

 実際は違う。ケントたちに説明した通り、あの宝石はこの大広間を飾り立てていたものの一部だ。
 それを、アンナは皇妃の私物として取り扱っていた。本来ならすぐにバレるような不正行為だが、アンナは押し通せる自信があった。

「皇妃様が皇帝陛下とご婚約されたとき、先帝陛下から贈られた宝石がございます。その一部を使って工事を続けたいとの仰せでした」
「先帝陛下の……?」

 その一言で、グリージュスは全てを理解したようだ。

 話は皇妃マリアン=ルーヌがこの国に嫁いできた頃に遡る。先帝アルディス2世は、皇太子アルディスとの婚約祝いとして幼児が中には入れるほど大きな宝石箱が贈られたという。もちろん中には超大国の皇太子妃にふさわしいきらびやかな装飾品の数々が満載され、百科事典一冊ほどもあるリストが付属していた。
 その直後に、先帝は崩御。程なくマリアン=ルーヌは皇妃となるのだが、その直後に例の毒殺未遂事件が起こり彼女は失明してしまう。
 彼女の見舞いには多数の貴族の令嬢が訪れたというが、その度に皇妃の部屋に置かれた宝石箱の中身が減っていったのだという。

 エリーナがアルディス3世の寵姫として参内したのはそれから少し後のことだ。
 様々な政治的思惑と、真心の行き違いが重なり、彼の心が皇妃から完全に離れた後だったから、アンナが宝石箱の話を知ったのはつい最近になってのことだった。
 皇妃自身も、宝石類にはあまり興味がなかったため、彼女に古くから仕える侍女のみが心を痛めていた。それをアンナに教えてくれたのだ。
 今さら宝石箱の中身を返せなどと、貴族のご婦人方に詰め寄ったところで、証拠も残ってないからどうしようもない。しかし裏を返せば、もともと皇妃の所有物でない宝石を、リストに乗っている宝物のひとつと言い張ったところで、誰もそれを否定しようがないのだ。

 帝国の最も高貴な空間で行われている、あまりにもセコく情けない悪事。それを利用することで、アンナは館の建設資金を得ることに成功したのだ。

「しかし……庶民の大工に東苑の館を任せるとはいかがなものかと。宮廷の建築術をわきまえたお抱えの職人に任せるべきでしょう? もちろん、大広間の工事のあとで、ですが」

 そう来ると思った。金で攻められなければ、次は人だ。女官長のついてくる所は、何もかもアンナの想定通りだった。

「ぷっ……ふふふふっ!」

 事さらに大げさに吹き出し、そのまま笑って見せる。

「何がおかしいの?」
「女官長殿。この宮廷を統べるお方でありながら、皇妃様のご趣味を何ひとつ理解してらっしゃらないのですね?」
「なんですって?」
「いま大広間で、大理石の床や鏡張りの壁を作っているような職人に、任せられる訳がないでしょう。皇妃の村落(ル・アモー・ドゥ・ランペラトリス)を」
 ヴィスタネージュ大宮殿は、白亜の壁と柱、それを彩る金細工の装飾で構成される壮麗な建造物だが、その敷地のすべての建物が大理石づくりという訳ではない。
 特に東苑に点在する歴代皇族たちが建てた居館には、彼ら彼女らの趣味が色濃く反映されている。
 ある館は魔法時代の神殿を思わせる太い列柱を持ち、ある館は東方大陸の大王の宮殿にならって木造の赤い柱と瓦屋根を持つ。また別の館は、砂の国の異教寺院よろしくドーム状の丸屋根が特徴的だ。
 そんな多種多様な別邸(パビリオン)のなかでも、このたび作られた皇妃の村里(ル・アモー・ドゥ・ランペラトリス)はひときわ異彩を放っていた。歴代皇族が建てた居館がそれでも共通して持っていた「贅沢さ」を一切まとっていなかったのだ。

「華やかである必要がありません。私はここの花の香りや、草木を撫でる風の音を楽しめればそれでいいし、皆でそれを愛でられる場所が欲しいの」

 皇妃のそんな希望を叶えるのに、大理石の床も金細工の窓枠も必要がなかった。むしろ靴音を高く響かせる床は風の音を邪魔するし、きらびやかな窓枠が合ったところで花の香りがより豊かになるわけでもない。
 それらを叶えるのは、この人造湖や花畑が作り出す箱庭の世界に溶け込むような建物群だった。

「なるほど、それでオレたちにお頼みになったというわけですか」

 大工頭のダンは、アンナに言った。眼の前では、彼らが建てた家々に茅葺き屋根を乗せる作業の真っ最中だ。中央の皇妃の居館を中心に、ゲストハウスや使用人のための家、近衛兵の詰め所など大小8棟の建物。それらは全て、帝国中南部によく見られる農家風の建築様式で統一されていた。

「派手な屋敷を建てれば、この素敵な花畑が台無し。だから、ここに農村の景色を丸ごと再現することにしたのよ」
「確かに、これはオレたちの得意な仕事でしたね。むしろ、大理石の柱なんか作ってる、宮廷お抱えの職人には出来ねえかもしれません」
「実際、何度も設計をやり直しさせたわ」

 アンナは苦笑する。本来の予定なら、皇妃の館は"獅子の王国"との和平が成立するころには完成していたはずだった。それがここまで延びたのは、宮廷の出入り業者が皇妃の思い描くコンセプトをなかなか理解しなかったからなのだ。
 
「私たちも、ここまで農家そのものの作りにする予定はなかったのだけれど、あなた方に任せて正解でした」
「けど、本当に大丈夫ですか? 流石に貴族の方々には、むさ苦しすぎるのでは?」
「それを苦痛と感じない者にこそ、皇妃派の……次の時代を担う貴族の資格があるのですよ」

 その資質を選別する場所という意味でも、皇妃の農村はきっと良い働きをするであろう。この場所を嫌う者に、皇妃派を名乗ってもらう必要はまったくない。

「侯爵様!」

 ガラス職人のケントが大量の書類束を抱えてやってきた。それを見たダンは少しげんなりした顔をする。

「じゃあ、オレは各班の作業状況見てきますので」

 そう言って、ダンはそそくさとその場を後にした。
 大工の棟梁としては確かな腕前の男だ。壁にかかる重量だの、それを支える事ができる柱や梁の本数、そこに必要な釘の長さと数……そういった計算は得意なのに、それ以外の数字の話はからっきしらしい。
 ケントが今回の工費の見積もりや、職人街再建のための予算の話をする前に逃げ出した、というわけだ。

「いいんですよ。アイツは建てることだけ考えてれば。アイツの工房にも、近いうちに会計に強い人間を入れるつもりです」

 まだまだ新生職人街には人材が足りない。だからケントは、自身のガラス工房を切り盛りしながら、他の職人たちの会計や人事の世話もしていた。

「ということは、その目処も立ってきたのね」
「ええ! こっちの書類を見てください。帝国アカデミー出身の会計士を何人か雇うことが出来そうです! ダンの工房だけでなく、他の職人の所にも入れるつもりです」
「素晴らしいわ! いよいよ、かつての職人街の勢いを取り戻せそうね」
「それもこれも、侯爵様が多額の報酬を払っていただけたおかげですよ。職人たちの工房の建て直しも急ピッチで進んでいますし、何もかも順調で怖いくらいです」

 順調……そう、その通りだ。
 アンナは宮廷女官長の顔を思い浮かべた。グリージュス公らクロイス派の連中は、宮廷家財管理総監という重要度の低い職務に押し込めればアンナを制御できると考えていた。しかし了見違いもはなはだしい。
 アンナにとってはむしろ、この役職こそ最高の武器となった。そして職人街の再建を実現し、そこで働く者たちを味方につけることが出来た。

(あなたのおかげよ、グリージュス公。おかげで私は計画を次の段階へ進めることができる)

 何もかもが順調すぎて怖い。今のケントの言葉は、アンナにも当てはまっていた。

「ケント、職人街の再建に目処が立ったら、新たに着手してほしい仕事があります」
「何でしょう? 侯爵様からのご依頼でしたら何でもやりますよ!」
「錬金工房の復活です」
「え……?」
「知っての通り現政権はこの数年、工房を閉鎖してきました。ですがあれは帝国の錬金術の最前線。私は何としても建て直したいの」
「それは……私個人としては賛成ですが……」

 ケントの反応は、急速に歯切れ悪いものになった。

「あなたのお父君の話を聞きました。錬金術研究に欠かせない実験器具を作っていたそうね?」
「よくご存知で。正確な目盛りをつけたビーカーや、限界まで球体に近づけたフラスコ……そういったものを父は納品していました」
「あなたにもそれは作れる?」
「はい。その技術があったからこそ、軍に招かれたようなものでしたので……」

 一流のガラス職人の顔はみるみる険しくなっていく。まるでこの先にアンナが何を言い出すのか予測しているように。

「そして、もうひとり錬金術に欠かせなかった職人がいる」
「……」
「複雑な歯車や極細のパイプなどを作っていた、金属細工職人のタフト」

 かつて自分の父だった男の名だ。

「彼が今どこにいるか、ご存知ないですか?」
「申し訳ありません、侯爵様。その名を出すことはお控えください」
「……それは、彼が流血寵姫の父親だったからですか?」
「はい……」

 流血寵姫。エリーナの死後、クロイス派が彼女に付けた汚名だ。錬金工房を私物化し、罪もない庶民たちをさらい人体実験を行っていた最悪の殺人者。そんな噂は、今でも帝都の人間に信じられているということか。

「その噂は、貴族の流した嘘なのではなくて?」
「私はタフト氏やエリーナ寵姫の事をよく知っています。だから、あの噂が大嘘だと信じています! ……ですが、そう考えていない職人も多いのです」

 タフトの声は低く、苦しそうだった。

「例えばダンなんかはあの噂を信じ、今でもエリーナを憎んでいます。彼だけじゃありません。そういう奴は多い。だからあの親子の名は、どうか職人たちの前では出さないようにしてください」
「……そう。ごめんなさい、私が軽率でした」

 以前マルムゼが話してくれた事を思い出す。流血寵姫の噂は、クロイス派の貴族による犯罪をエリーナに押し付ける形で作られたという。
 今でも噂を信じている人たちの中には、そういった狂気に取り憑かれた貴族の犠牲になった者もいるのかもしれない。その恨みをぶつける先がエリーナしかないのだとしたら、流血寵姫の汚名が消えることはしばらくはないだろう。それこそ、アンナが帝国の頂点に立ち、彼女の名誉を回復する宣言でもしない限り……。

「ですがタフト氏がどうなったか、それをお答えすることはできます」
「なんですって!?」
「あの大火の日……錬金工房で火災が発生した時。私は彼と一緒にいたのです」
「一緒に!? どういう事? ともに仕事をしていたの?」

 アンナは思わず、かつての幼馴染の両肩を掴んでいた。ぎょっとするケントに気付き、慌ててアンナは手を離す。

「ご、ごめんなさい……」
「いえ……」

 焦るな、落ち着け。アンナは自分にいい聞かせる。けど無理だ。長い間生死もわからなかった実の父の消息が知れるかもしれないのだ。

「一緒にいたわけではありせん。私が注文の機材の納品した時、彼は工房の地下で何か作業をしていたようでした」
「おとう……いえ……タフト氏が地下に……?」
「工房に火の手が上がった時、彼は率先して消化活動に当たっていました。ですが火勢が強くなった時に、兵士によって火から遠ざけられて……そのまま彼らに連れて行かれました」
「兵士? どうして工房に兵士が?」
「今思うと不思議なのですが……あの日、工房には一個小隊くらいの兵士がいました。帝都の警備兵や警察官ではなかったです。あの金刺繍の黒い制服……」

 金刺繍の入った黒い軍服。帝国軍でそれを身につけることを許されている部隊はひとつしかない。
 
「近衛兵の軍服ね?」
「はい。それに、あの時タフトさんを取り押さえていた人たちは……皇帝陛下直属部隊の肩章をつけていました」
「つまり、皇帝……陛下が彼を連れて行った、と……?」
「恐らくは……」

 アンナはあの男の顔を思い浮かべる。かつての恋人アルディスと同じ顔でありながら、軽薄な薄ら笑いを絶やさない、ホムンクルスの男。
 大火のあった時、すでにあの男は皇帝になりすましていた。そして皇帝直属部隊が現場におり、父を連れて行った。
 そこに何の因果もないはずがない。またあの男と対峙しなければならない。アンナはそう予感した。
 完成と同時に、皇妃の村里はアンナたちの拠点としての機能を発揮し始めた。

 皇妃はこの人造の村落に毎日、数組だけゲストを呼び昼食やお茶を共にすることを新たな日課としていた。

「本日は素敵なおもてなしをありがとうございます。皇妃様」

 本日の客はオーバリー伯爵夫妻だ。夫人は皇妃の茶飲み友達の1人で、夫は財務省に勤めている。
 ちょうど彼らは、メインディッシュの野鴨のローストを食べ終えたところだった。この野鴨は、先ほど伯爵自身が北苑で獲ってきたものである。それを皇妃専属の料理人が調理した。
 皇妃と特別なゲストのみで行われる特別な晩餐会。これこそが、皇妃派の活動の基本形だ。

「喜んでいただけて何よりですオーバリー伯爵。今、コーヒーをお持ちしますので、ぜひともおくつろぎ下さい」

 そう言って皇妃は立ち上がる。

「コーヒーを!? そんな、皇妃様お手ずからですか?」
「ええ。最近アンナに淹れ方を教わりましたの。これがなかなか楽しくて、ゲストの皆様に最後に一杯お出ししているのです」

 皇妃はそう言って微笑んだ。その手をさりげなくアンナがつかみ、視覚を共有する。異能のことを知らない夫妻からしてみれば、身分を超えた親友同士の他愛のないスキンシップのように見えるかもしれない。
 皇妃が危なげのない手つきで、粗挽きしたコーヒー豆の上に熱湯を注ぎ込むと、簡素な木造の家屋に豊かな香りが漂い始めた。

「おまたせしました。どうぞ、伯爵」
「これは……大変恐縮です。いただきます」
 
 高価な酒と贅を凝らした食事を当たり前のように嗜んでいた男たちは、皇妃の素朴すぎる趣向に最初戸惑いはしたものの、すぐにそれを受け入れていった。
 特に、今では皇妃派のお茶会になくてはならない大地のケーキの素朴な味わいは、甘いものが苦手な殿方にも好評だった。
 食後に目の見えぬ皇妃がグレアン侯爵に手伝ってもらいながら、自らコーヒーを淹れる。それを大地のケーキと共にいただくのが、宮廷の人間にとって、新しい栄誉となっていった。

「オーバリー夫人、今夜は私ともう少しおしゃべりしませんか? あなたに教えていただいた小説の話がしたくて」
「まぁ、もうお読みになられてのですか? それは是非とも!」

 オーバリー夫人は、同伴者の夫に小声で伺う。

「……あなた、よろしいかしら?」
「もちろんだとも」
「では伯爵、その間にご相談したいことがあるのですが、パイプでもいかがですか?」

 すかさず、夫にむけてアンナが誘いをかける。これが「政治の時間」の合図だ。

「ほう、この館には喫煙室もあるのですか?」
「もちろんです。南方産の葉巻も用意していますよ」
「すばらしい! ぜひともご案内ください」
 
 こうして食後は、皇妃が婦人の相手をし、アンナが殿方に応対するのもお決まりの流れとなっていた。
 そしてこの喫煙室こそが、アンナの主戦場となるのである。

「戦争が終わり、軍事費に余裕ができています。そろそろ減税の話を進めても良いのでは?」
「山岳部の開墾に、予算を割くことはできないでしょうか?」
「未だに、帝都の小麦相場を操作しようとする輩がいるようです。なんとかせねば」

 毎日訪れるゲストに、そういった相談を持ちかけ、時には彼らの困り事に耳を傾けたりする。
 
 こうして、日に日に皇妃派の政治的な力は強くなっていた。

 * * *
 一方で、クロイス派の動きもここのところ活発だ。皇妃の村落が完成し、そこで派閥形成に力を入れ始めた皇妃はに対する牽制だろう。
 宰相と寵姫、親子二人で国政を牛耳らんとする彼らの武器は、皇妃はのそれよりも直接的でわかりやすかった。

「ついにルコット様のご懐妊が正式に発表されましたな」
「年明けにご出産の予定だとか、実にめでたいことです」
「陛下は長らくお子がおらず、それだけが我が帝国の悩みの種でしたからな」
「もし男児であらせられるならば皇太子ということに! そうなれば宰相閣下は……」

 こんな会話が連日、ヴィスタネージュの本殿で交わされている。
 ルコットの生む赤子が男であれば、クロイス公は未来の皇帝の祖父だ。そうなれば、クロイス派の天下は盤石となるであろう。女児だったとしても、影響力は絶大なものとなる。
 いずれにせよ東苑で農民ごっこなどをして遊んでいる皇妃やグレアン侯爵など、敵ではない。それが彼らの思いだった。

「マルムゼ、父親は本当にアルディスなの?」

 オーバリー夫妻のもてなしが終わり、アンナが自邸に戻ったころには時計の短針は12を越えていた。
 クロイス派が好むような夜通しのダンスパーティーなどに比べれば、皇妃のささやかな食事会は体力的にも精神的にも楽だ。けど、今日のように夜遅くまで話し込む日はいささか疲れが出る。
 アンナは使用人に、風呂を炊くように命じた後、マルムゼの報告を聞いていた。  
 
「少なくとも、寵姫が別の男と接している可能性はなさそうです。この数週間、調査を続けていましたが、その証拠となるようなものは何一つ見つかりませんでした」
「なら、やっぱりホムンクルス(私たち)には生殖能力があるということに……それはまずいわね」

 もしそうなら、せっかく作った皇妃の村里程度では、状況を覆せなくなる。

(でも、本当にそうなのかしら?)

 そんな思いもアンナの中に残っていた。どうしても、ホムンクルスのが生殖能力を持っている、というところが引っかかる。そこまで完璧な存在なのか、私たちは?
 アンナの考えの根拠となるのは、人並みよりは詳しいという程度の錬金術の知識と、自分自身の肉体に対する肌感覚でしかない。錬金工房の再建や研究の再開はまだ先の話だから、今のアンナではこの憶測に結論は出せない。だが、どうしても腑に落ちないのだった。

「ルコットが懐妊したように見せかけるなんらかのトリックがある可能性は?」
「ゼロではないでしょうが……詳しく調べる方法がありません。宮廷女官長を味方に引き込むくらいの離れ技が必要でしょう」
「なら無理ね」

 あの女を取り込むのが最も簡単な方法という時点で、それは不可能を意味していた。

 アンナはため息をつく。そして机の上に置かれた封筒に目を向けた。皇妃の村落にいる間に届けられたものらしい。
 皇帝からの書状であることを示す百合の紋章の封蝋が、艶やかな光沢を放っていた。

「やはり、()()本人に直接聞くしかないか……」

 アンナは封筒をつかむ。その中身は、皇帝自らがアンナに宛てた、狩りの誘いだった。

「皇帝は、皇妃の農村で昼食をとった後、そのまま北苑で狩りを行うそうよ」
「それにアンナ様が随行せよ、と言う事ですね。本当に行かれるのですか?」
「皇帝になりすましているあの男が何を考えているかわからないけれど……私と二人きりで話がしたいと言っているのだから余程のことよね」

 もしかしたら、今まさにアンナが知りたがっているルコットの子供についてのことかもしれない。それならば誘いに乗らない手はないが……。

「ですが、あの男と会うことに抵抗はないのですか」
「もちろんあるわよ。考えるだけでも虫酸が走る……!」

 アンナは思わず両手で自分を抱きしめ、身体を震わせた。アルディスを殺し、彼になりすましてのうのうと生きている男と二人で狩りだなんて、身の毛もよだつほど嫌だ。

「でもね、知りたいのはルコットの子供のことだけじゃない。私自身の家族についてもあの男は何かを知っている……」

 アンナは、ケントの言葉を思い出した。
 エリーナの父タフトを連れていったのは近衛兵の中でも皇帝直属の部隊だったという。ならば彼のことも、マルムゼ=アルディスは知っているかもしれない。

「だから、あえて誘いには乗ることにします」
「本当なら、片時も離れずあなたをお守りしたいのですが……」
「仕方ないわ、向こうが二人でと言ってるんだもの。皇帝が護衛をつけない以上、こちらだけあなたを連れて行くわけにもいかない」

 ふと、そのときアンナにあるいたずら心が芽生えた。いや、正確にはいたずらの体裁をとった、アンナのわがままかもしれない。

「その代わり……」
「は?」

 アンナは両手を突き出すようにマルムゼの前に広げてみせた。

「私の弱さがまた顔を出さないよう、勇気をくれる?」

 そう言ってからニコリと微笑んで見せる。この黒髪の青年に依存したいわけではない。でもなぜだか急にこんな感じで甘えてみたくなったのだ。

「全く、あなたというお人は」

 マルムゼは苦笑しながらも、アンナの突き出した腕と、自らの腕を交差させ、そのまま背中に回して彼女の体を抱き寄せた。
 厚い胸板が眼前に迫り、アンナも彼の背中に腕をまわす。そして、彼の心地の良いぬくもりに自分の身体を埋めた。

「当たり前のようにこんなことが出来るくらい、あなたはしたたかな人ですよ」
「なにそれ、言い方ってものがあるでしょ?」
「褒めているんです。あなたは強い。その強さと勇気を、むしろ私に分けてください。あなた様と離れることに耐えられるように……」

 湯が沸いたことなどすっかり忘れ、アンナは最愛の腹心と、しばらく抱擁を続けていた。
「ここが皇妃の村落か。なかなか趣きのある建物になってではないか」
「これもひとえに、この場所に館を建てることを許していただいた陛下のおかげです」

 その日、皇帝アルディスは、わずかな供のみで東苑の皇妃の村里を訪れた。
 お忍びの行動である。公式の予定では、今日は一日中書庫で読書をしていることになっているらしい。

「本当ならもっと早く訪れたかったのだがな。宰相が良い顔をしないので、こうして密かに来ることにしたのだ」
「まあ、そうだったのですね。私としては、いついらしても良かったのですが……」

 皇妃は良くとも、クロイス公は当然面白くないだろう。何かと難癖をつけて皇帝の意向を断り続けたのは、想像にたやすい。

「それと、そなたとも一度ゆっくり話をしたかった。グレアン侯爵」

 皇帝アルディス3世になりすます男は、アンナに朗らかな笑みを向けてきた。その表情に、アンナは生理的な嫌悪を覚えたが、態度に出す事なく頭を下げる。

「まさか私めを狩りにお誘いくださるとは、光栄の極みです。本日はよろしくお願いいたします」

 いつもはドレス姿のアンナも、今日はパンツスタイルの乗馬服を着て、肩に猟銃をかけている。

「それにしても、本当にお二人で行かれるのですか?」
「ああ、北苑に行くといっても森の深くまで入るつもりはない。せいぜい、今夜のディナー分くらいの野うさぎを捕まえられれば良いからな」
「この皇妃の村里にも、近衛兵が常駐しています。あまりに遅いようでしたら彼らを向かわせますので」
「ああ、ありがとう。君もうさぎは好きだったな? 土産を楽しみにしていたまえ」

 アルディスは、皇妃の額にそっと口付けをした。

「陛下、是非ともよき休日を。それとアンナ?」

 皇妃がアンナの方に向き直る。

「何でしょう皇妃様?」
「私の勘ですが、今日はきっと特別な一日になります。どうかご無事で」
「はい……?」

 何やら含みのある言い方。アンナも気になりはしたが、だからと言って今から皇帝の誘いを断るわけにもいかない。
 頭を切り替えると、馬具に足をかけ、鞍に飛び乗った。
 すでに馬上の人となっていた皇帝は、皇妃に手を振る。

「それでは行ってくる!」
「お気をつけて!」

 皇妃も手を振りかえし、2人を見送る。
 その傍には、マルムゼもいた。何やら思い詰めた顔をしているが、それもいつものことである。そんな彼に微笑み返すと、アンナは馬の腹を蹴り、皇帝に続いた。

 * * *