"獅子の王国"との和平によって宮廷の力関係は一変した。
「これは、グレアン侯爵」
謁見の間へと続く大廊下で、アンナは初めてその称号で声をかけられた。宮廷で顔をよく見かける貴族だ。
「この度はまことにおめでとうござます」
「ありがとうございます」
和平締結の功労者として、アンナには皇帝直轄領の一部が褒賞として与えられ、爵位も伯爵から侯爵へと格上げとなったのだ。
「お噂では役職もお賜りになられるとか？」
「今日の謁見では、陛下からその話があるのでは？」
「ならば一緒に仕事をすることになるかもせれませんなあ。その時はよろしくお願いします」
次々とアンナの周りに貴族や官僚が集まってくる。中には、これまでクロイス派に名を連ねていたものもいる。
これまでクロイス派の独裁状態だった宮廷に、もうひとつの引力が誕生した。クロイス公に気に入られていなかった者や、派閥に入っていたものの恩恵が小さかった者たちが、アンナに近づき始めていた。
すでにグレアン家の屋敷には何人もの小貴族が訪れているし、執事の話では毎日のように贈答品が届いているという。
（小賢しいコウモリたち。今はこうして媚びを売ってくるけど、もし私がヘマをしたら途端に手の平を返すのでしょうね）
アンナはこうして群がってくる貴族たち1人1人には、なんの期待もしていない。けど、アンナの周りに人が集まってきたという事実は重要だ。
これまで、貴族の夫人や令嬢が中心の茶飲み友達でしかなかった「皇妃派」が、いよいよ政治的な勢力として機能し始めるのだ。
「おい、ウィダス卿がお帰りだぞ」
誰かが小声で周りに知らせる。アンナに向けられていたいくつもの視線が、一斉に謁見の間の扉へと注がれた。
そこには軍服に身を包んだ長身の青年が立っている。その胸に先日まで輝いていた、大臣職を表すメダルは付いていない。
アンナを取り囲んで活気付いていた人たちの間に気まずい沈黙が流れた。アンナは、彼らをかき分け軍服の青年のもとに歩み寄る。
「ウィダス卿、ご機嫌麗しゅう存じます」
「ごきげん？ ははっ、嫌味かね？ 私はちょうど今、皇帝陛下に宮廷を去る挨拶をしてきたところだぞ？」
ウィダスは戦争大臣の任を解かれることとなった。
そもそも戦争大臣とは、その名が示す通り戦争時に皇帝の代理として軍を統括する臨時の職務だ。"獅子の王国"との和平が成立した今、"百合の帝国"に交戦国はなく、したがって戦争大臣というポストは消滅する。
だがウィダスには、それに代わる新たな役職も与えられなかった。和平交渉に至るまでのいざこざがあった際、彼は前線の将兵を抑えることができなかった。その不手際の責任を取らされる形となったのだ。
「幼少の頃より陛下にお仕えして二十数年、こんな幕切れになるとは思ってもいなかったさ……」
ウィダスの表情からは、かつての覇気が失われている。
思えば、この軍人も気の毒と言えるかもしれない。幼きアルディス皇太子の遊び相手として宮廷に参内し、公私ともに常に彼と共にあった。
だがアルディスは何者かによって暗殺され、影武者のホムンクルスが彼に成り変わった。そんな事はつゆ知らず、彼は幼馴染の主君に支え続けていた。
そして、その影武者に最初に命じられたのが、そんな主君の恋人であるエリーナの殺害だったのだ。
「……これからどうされるのです？」
「古巣の近衛隊にも私の居場所はもうない。しばらくは実家に戻り、おとなしくしているさ」
確かウィダス家は子爵だ。爵位はそれほど高くはないが、彼の父は南部の穀倉地帯に領地を持っていたはずだ。
「きっとまた、軍や宮廷にお戻りになられますわ。そしてこれまでよりも活躍なさってください」
「ははっ、心にもないことを言うな」
「そんなことは……私の本心です」
半分は、ね。と心の中で付け加える。
もちろんこの男の活躍を望んでいるはずはないが、戻ってきて欲しいとは思っている。
何も知らなかったとはいえ、エリーナ殺害の実行犯なのだ。領地でささやかだが平穏に暮らしていく、そんな人生を許すはずがない。アンナはこの男に然るべき死を与えるつもりだった。
「ふん、まあいいさ。ならばまた会おう」
失脚した戦争大臣はそう言い残すと、振り返ることもなく大廊下を歩み去っていった。
* * *
「これは、グレアン侯爵」
謁見の間へと続く大廊下で、アンナは初めてその称号で声をかけられた。宮廷で顔をよく見かける貴族だ。
「この度はまことにおめでとうござます」
「ありがとうございます」
和平締結の功労者として、アンナには皇帝直轄領の一部が褒賞として与えられ、爵位も伯爵から侯爵へと格上げとなったのだ。
「お噂では役職もお賜りになられるとか？」
「今日の謁見では、陛下からその話があるのでは？」
「ならば一緒に仕事をすることになるかもせれませんなあ。その時はよろしくお願いします」
次々とアンナの周りに貴族や官僚が集まってくる。中には、これまでクロイス派に名を連ねていたものもいる。
これまでクロイス派の独裁状態だった宮廷に、もうひとつの引力が誕生した。クロイス公に気に入られていなかった者や、派閥に入っていたものの恩恵が小さかった者たちが、アンナに近づき始めていた。
すでにグレアン家の屋敷には何人もの小貴族が訪れているし、執事の話では毎日のように贈答品が届いているという。
（小賢しいコウモリたち。今はこうして媚びを売ってくるけど、もし私がヘマをしたら途端に手の平を返すのでしょうね）
アンナはこうして群がってくる貴族たち1人1人には、なんの期待もしていない。けど、アンナの周りに人が集まってきたという事実は重要だ。
これまで、貴族の夫人や令嬢が中心の茶飲み友達でしかなかった「皇妃派」が、いよいよ政治的な勢力として機能し始めるのだ。
「おい、ウィダス卿がお帰りだぞ」
誰かが小声で周りに知らせる。アンナに向けられていたいくつもの視線が、一斉に謁見の間の扉へと注がれた。
そこには軍服に身を包んだ長身の青年が立っている。その胸に先日まで輝いていた、大臣職を表すメダルは付いていない。
アンナを取り囲んで活気付いていた人たちの間に気まずい沈黙が流れた。アンナは、彼らをかき分け軍服の青年のもとに歩み寄る。
「ウィダス卿、ご機嫌麗しゅう存じます」
「ごきげん？ ははっ、嫌味かね？ 私はちょうど今、皇帝陛下に宮廷を去る挨拶をしてきたところだぞ？」
ウィダスは戦争大臣の任を解かれることとなった。
そもそも戦争大臣とは、その名が示す通り戦争時に皇帝の代理として軍を統括する臨時の職務だ。"獅子の王国"との和平が成立した今、"百合の帝国"に交戦国はなく、したがって戦争大臣というポストは消滅する。
だがウィダスには、それに代わる新たな役職も与えられなかった。和平交渉に至るまでのいざこざがあった際、彼は前線の将兵を抑えることができなかった。その不手際の責任を取らされる形となったのだ。
「幼少の頃より陛下にお仕えして二十数年、こんな幕切れになるとは思ってもいなかったさ……」
ウィダスの表情からは、かつての覇気が失われている。
思えば、この軍人も気の毒と言えるかもしれない。幼きアルディス皇太子の遊び相手として宮廷に参内し、公私ともに常に彼と共にあった。
だがアルディスは何者かによって暗殺され、影武者のホムンクルスが彼に成り変わった。そんな事はつゆ知らず、彼は幼馴染の主君に支え続けていた。
そして、その影武者に最初に命じられたのが、そんな主君の恋人であるエリーナの殺害だったのだ。
「……これからどうされるのです？」
「古巣の近衛隊にも私の居場所はもうない。しばらくは実家に戻り、おとなしくしているさ」
確かウィダス家は子爵だ。爵位はそれほど高くはないが、彼の父は南部の穀倉地帯に領地を持っていたはずだ。
「きっとまた、軍や宮廷にお戻りになられますわ。そしてこれまでよりも活躍なさってください」
「ははっ、心にもないことを言うな」
「そんなことは……私の本心です」
半分は、ね。と心の中で付け加える。
もちろんこの男の活躍を望んでいるはずはないが、戻ってきて欲しいとは思っている。
何も知らなかったとはいえ、エリーナ殺害の実行犯なのだ。領地でささやかだが平穏に暮らしていく、そんな人生を許すはずがない。アンナはこの男に然るべき死を与えるつもりだった。
「ふん、まあいいさ。ならばまた会おう」
失脚した戦争大臣はそう言い残すと、振り返ることもなく大廊下を歩み去っていった。
* * *
