「ん……」
いつのまにかアンナはぼんやりと天井を眺めていた。グレアン家の屋敷の、自分の寝室だ。身体はベッドに横たえられているらしい。
(あれ? 私、どうしたんだっけ……?)
確か、ヴィスタネージュの宮殿にいたのではなかったか?
和平条約が終わって……バルコニーに皇帝が現れて……混濁した記憶をまとめようとする。何が、あったんだっけ……?
『アルディス3世陛下が陣中でお亡くなりになってからです』
不意にあの男の言葉がよみがえる。
「はっ!?」
半開きだった眼を大きく見開くと、がばりと上体を起こした。すると即座に、横から気遣わしげな声。
「気がつかれましたか?」
ベッドの横には椅子が置かれ、マルムゼが座っていた。彼は気遣わしげな表情で、アンナの顔を覗き込んでくる。
「私は……どうして家に……? 何があったの?」
「宮殿でお倒れになり、ここまでお運びしました」
「そうだったのね……」
窓の外は既に暗かった。林の奥にふたつ、光のかたまりが見える。
ひとつは帝都の中心街を貫く大通りの常夜灯。もうひとつはヴィスタネージュ大宮殿。条約締結を祝うパーティーは、屋外で開かれる運びとなっていたため、宮殿の灯りはいつも以上に煌々と輝いて見えた。
「パーティー……行かないと……」
「宮廷の者に、ご欠席される旨は伝えました。今夜はしっかりお休みください」
「そう……ありがとう」
条約の表向きの立役者はラルガ侯爵だ。あの人さえいればパーティーは特に問題はないだろう。
ゼフィリアス帝は明日の朝、帰国される。最後に挨拶できないのは心残りだが……。
「私はどうして倒れたの?」
「覚えておられないのですか?」
「ごめんなさい、記憶が混濁していて……」
「あの男と話しているときにです」
「あの男……」
マルムゼ=アルディスと名乗った男……。
『アルディス3世陛下が陣中でお亡くなりになって……』
再びあの言葉が思い返される。すると急激に不快感が胸に湧き立ち首の上までこみ上げてきた。
「ううっ!?」
「アンナ様!?」
手で口を押さえながら、布団をはねのけ、寝室の隣の洗面所へ走る。
「うう……うあああっ!」
口を大きく開き、胃の内容物とともに不快感を追い出そうとしたが何も出てこない。
ホムンクルスの肉体は頑強だ。ちょっとやそっとのことでは、嘔吐することはない。けど、吐き気はアンナの体の内側を蝕んでくる。
「落ち着いて下さい……落ち着いて……」
洗面台にしがみつくアンナの背中を、マルムゼの手がさする。優しい手つきだった。
「……アルディスは……死んでいたのね」
そのまま、洗面所の床にへたり込む。すると今度は、大粒の涙が目から溢れ出る。
どうせならこっちも出てきて欲しくないのに……。アンナは自身の意思で制御できない涙腺を呪った。
「この2年間、ずっと恨み続けてきた。私を裏切り、全てを奪った彼に復讐することだけを考えていた……なのに……」
彼は死んでいた。エリーナよりも先に、だ。
ならば、エリーナに死を命じたのもきっと彼ではなく、あの男だったのだろう。
彼は変わってなどいなかった。エリーナを裏切ってなどいなかった。彼はきっと、エリーナを愛したまま死んでいったのだ。
「それなのに、私は……」
彼を恨んだ。最愛の人だったアルディスを恨み、復讐を誓った。
「私のこの2年はいったい何だったの?」
グレアン伯を陥れ、彼の家を乗っ取り、皇妃を籠絡し、グリージュス公爵を死に追いやった。すべて復讐のため、アルディスに近づくためだ。それなのに……。
「私がやってきたことは復讐などではなかった、サン・ジェルマンに踊らされていただけだった……」
「それは違います!」
マルムゼが力強く、アンナの言葉を否定する。
「お忘れですか? あなた様の復讐はアルディス皇帝ひとりを標的としたものではない。クロイス公、ウィダス卿をはじめとした周りの者たち。あなた様の功績を貶め、家族や故郷すら奪った、彼ら全てでしょう?」
「それは……」
「言うなれば、貴族社会そのもの。民を顧みず、己の保身や富の独占のためにこの帝国に寄生する、ヴィスタネージュの宮廷そのものではありませんか!?」
そうだ……。確かにこの青年からしたら、そう見えているのかもしれない。でも……。
「ありがとう、マルムゼ。でもね、違うの。そんな立派なものじゃない」
「何が違うのです?」
「そもそも私が政治を志したのは、アルディスに寄り添いたかったから。民のための政治を目指したのは、私が平民出身だったからに過ぎない。本当の目的はアルディスだった。全てがアルディスを中心に回っていたの」
アンナの身体を得てからの数年間……いや、エリーナの時代より封印してきた自分の感情が一気に溢れてくる。
フィルヴィーユ派を率いる改革派。そんなものは後付けだ。あの頃、エリーナの心はどこまで行っても皇帝アルディス3世の寵姫でしかなかった。
アルディスが全ての動機だった。アルディスが全てだった。
愛していた。好きだった。アルディス、アルディス、アルディス……!
アルディスこそが寵姫エリーナの全てだった。
「そんな私が、アルディスを恨んでしまった。彼にまつわる全てを壊そうと思ってしまった。私は、そういう身勝手な女なのよ……!」
「あなた様が受けた仕打ちを思えば、やむを得ぬ事でしょう。それに、動機がなき皇帝陛下だったとしても、あなたの功績が無に帰するわけではありません!」
「でも……でも……!」
何故だ、なぜこの青年は私をここまで認めようとするのだ。
私は私情だけで動き、多くの人々を不幸にしたつまらぬ人間なのに……。
「最初の誓いをお忘れですか?」
「え?」
「あなた様は仰せでした。世界が悪女と罵ろうとも、ご自身にとっての正義は貫くと……」
確かに言った。更地となった錬金工房後で、元職人のごろつきたちに絡まれた後だ。
彼らのような被害者を出さぬために、誇りを持って復讐をなすとこの青年に誓った。
「今こそ、その覚悟が問われている時なのかもしれません」
「マルムゼ……」
マルムゼはうずくまるアンナの肩を掴むと、優しく持ち上げて立たせた。そして、自分はその前に跪く。
そして、アンナの手を取るとそっと甲に口付けした。
「私の気持ちはあの頃から変わっておりません。いや、あの頃よりもこの決意は強いかもしれません。アンナ様、私はどんなことがあってもあなた様についていきます」
そう言うと、彼は首を上げてまっすぐアンナの瞳を見つめた。黒曜石のように輝く彼の両眼にはいつになく穏やか光が宿っている。
「突然のことで、混乱されているかと思います。今はしっかりと休み、心を落ち着けて下さい」
「ありがとう……。その、マルムゼ……」
ほとんど無意識に言葉を続けそうになり、アンナは慌てて口を止めた。
「なにか?」
「いえ、その……」
アンナはためらう。なんて事を考えているのだ私は。
「構いません、何なりとお申し付けください」
「……」
マルムゼの言葉がひどく優しく聞こえた。
その声音にはつい甘えてしまいたくなる響きがあった。
「ひとりになりたくない。ひとりになると何を考え始めるかわからなくて……怖いの」
ああ、私はなんで破廉恥な女なんだ。
最愛と想い、それが故に強く恨んでしまった男の死を知った。その途端にこれか。
たった今、自らのうちに眠るその男への愛情を再確認したばかりではないか。
なのに……。
「今夜は私と一緒にいて下さい」
なんで私はこんな事を言っているのだろう?
最低……。本当に最低な女だ、私は。
「……わかりました」
それでも、やっぱり優しい声だった。
「私はあなたが強い人だと知っています。そして同じくらい、か弱き人だということも。私は、どちらのあなた様もお慕いしております」
マルムゼは力強く、だが決して乱暴ではない手つきでアンナの身体を抱きしめた。
いつのまにかアンナはぼんやりと天井を眺めていた。グレアン家の屋敷の、自分の寝室だ。身体はベッドに横たえられているらしい。
(あれ? 私、どうしたんだっけ……?)
確か、ヴィスタネージュの宮殿にいたのではなかったか?
和平条約が終わって……バルコニーに皇帝が現れて……混濁した記憶をまとめようとする。何が、あったんだっけ……?
『アルディス3世陛下が陣中でお亡くなりになってからです』
不意にあの男の言葉がよみがえる。
「はっ!?」
半開きだった眼を大きく見開くと、がばりと上体を起こした。すると即座に、横から気遣わしげな声。
「気がつかれましたか?」
ベッドの横には椅子が置かれ、マルムゼが座っていた。彼は気遣わしげな表情で、アンナの顔を覗き込んでくる。
「私は……どうして家に……? 何があったの?」
「宮殿でお倒れになり、ここまでお運びしました」
「そうだったのね……」
窓の外は既に暗かった。林の奥にふたつ、光のかたまりが見える。
ひとつは帝都の中心街を貫く大通りの常夜灯。もうひとつはヴィスタネージュ大宮殿。条約締結を祝うパーティーは、屋外で開かれる運びとなっていたため、宮殿の灯りはいつも以上に煌々と輝いて見えた。
「パーティー……行かないと……」
「宮廷の者に、ご欠席される旨は伝えました。今夜はしっかりお休みください」
「そう……ありがとう」
条約の表向きの立役者はラルガ侯爵だ。あの人さえいればパーティーは特に問題はないだろう。
ゼフィリアス帝は明日の朝、帰国される。最後に挨拶できないのは心残りだが……。
「私はどうして倒れたの?」
「覚えておられないのですか?」
「ごめんなさい、記憶が混濁していて……」
「あの男と話しているときにです」
「あの男……」
マルムゼ=アルディスと名乗った男……。
『アルディス3世陛下が陣中でお亡くなりになって……』
再びあの言葉が思い返される。すると急激に不快感が胸に湧き立ち首の上までこみ上げてきた。
「ううっ!?」
「アンナ様!?」
手で口を押さえながら、布団をはねのけ、寝室の隣の洗面所へ走る。
「うう……うあああっ!」
口を大きく開き、胃の内容物とともに不快感を追い出そうとしたが何も出てこない。
ホムンクルスの肉体は頑強だ。ちょっとやそっとのことでは、嘔吐することはない。けど、吐き気はアンナの体の内側を蝕んでくる。
「落ち着いて下さい……落ち着いて……」
洗面台にしがみつくアンナの背中を、マルムゼの手がさする。優しい手つきだった。
「……アルディスは……死んでいたのね」
そのまま、洗面所の床にへたり込む。すると今度は、大粒の涙が目から溢れ出る。
どうせならこっちも出てきて欲しくないのに……。アンナは自身の意思で制御できない涙腺を呪った。
「この2年間、ずっと恨み続けてきた。私を裏切り、全てを奪った彼に復讐することだけを考えていた……なのに……」
彼は死んでいた。エリーナよりも先に、だ。
ならば、エリーナに死を命じたのもきっと彼ではなく、あの男だったのだろう。
彼は変わってなどいなかった。エリーナを裏切ってなどいなかった。彼はきっと、エリーナを愛したまま死んでいったのだ。
「それなのに、私は……」
彼を恨んだ。最愛の人だったアルディスを恨み、復讐を誓った。
「私のこの2年はいったい何だったの?」
グレアン伯を陥れ、彼の家を乗っ取り、皇妃を籠絡し、グリージュス公爵を死に追いやった。すべて復讐のため、アルディスに近づくためだ。それなのに……。
「私がやってきたことは復讐などではなかった、サン・ジェルマンに踊らされていただけだった……」
「それは違います!」
マルムゼが力強く、アンナの言葉を否定する。
「お忘れですか? あなた様の復讐はアルディス皇帝ひとりを標的としたものではない。クロイス公、ウィダス卿をはじめとした周りの者たち。あなた様の功績を貶め、家族や故郷すら奪った、彼ら全てでしょう?」
「それは……」
「言うなれば、貴族社会そのもの。民を顧みず、己の保身や富の独占のためにこの帝国に寄生する、ヴィスタネージュの宮廷そのものではありませんか!?」
そうだ……。確かにこの青年からしたら、そう見えているのかもしれない。でも……。
「ありがとう、マルムゼ。でもね、違うの。そんな立派なものじゃない」
「何が違うのです?」
「そもそも私が政治を志したのは、アルディスに寄り添いたかったから。民のための政治を目指したのは、私が平民出身だったからに過ぎない。本当の目的はアルディスだった。全てがアルディスを中心に回っていたの」
アンナの身体を得てからの数年間……いや、エリーナの時代より封印してきた自分の感情が一気に溢れてくる。
フィルヴィーユ派を率いる改革派。そんなものは後付けだ。あの頃、エリーナの心はどこまで行っても皇帝アルディス3世の寵姫でしかなかった。
アルディスが全ての動機だった。アルディスが全てだった。
愛していた。好きだった。アルディス、アルディス、アルディス……!
アルディスこそが寵姫エリーナの全てだった。
「そんな私が、アルディスを恨んでしまった。彼にまつわる全てを壊そうと思ってしまった。私は、そういう身勝手な女なのよ……!」
「あなた様が受けた仕打ちを思えば、やむを得ぬ事でしょう。それに、動機がなき皇帝陛下だったとしても、あなたの功績が無に帰するわけではありません!」
「でも……でも……!」
何故だ、なぜこの青年は私をここまで認めようとするのだ。
私は私情だけで動き、多くの人々を不幸にしたつまらぬ人間なのに……。
「最初の誓いをお忘れですか?」
「え?」
「あなた様は仰せでした。世界が悪女と罵ろうとも、ご自身にとっての正義は貫くと……」
確かに言った。更地となった錬金工房後で、元職人のごろつきたちに絡まれた後だ。
彼らのような被害者を出さぬために、誇りを持って復讐をなすとこの青年に誓った。
「今こそ、その覚悟が問われている時なのかもしれません」
「マルムゼ……」
マルムゼはうずくまるアンナの肩を掴むと、優しく持ち上げて立たせた。そして、自分はその前に跪く。
そして、アンナの手を取るとそっと甲に口付けした。
「私の気持ちはあの頃から変わっておりません。いや、あの頃よりもこの決意は強いかもしれません。アンナ様、私はどんなことがあってもあなた様についていきます」
そう言うと、彼は首を上げてまっすぐアンナの瞳を見つめた。黒曜石のように輝く彼の両眼にはいつになく穏やか光が宿っている。
「突然のことで、混乱されているかと思います。今はしっかりと休み、心を落ち着けて下さい」
「ありがとう……。その、マルムゼ……」
ほとんど無意識に言葉を続けそうになり、アンナは慌てて口を止めた。
「なにか?」
「いえ、その……」
アンナはためらう。なんて事を考えているのだ私は。
「構いません、何なりとお申し付けください」
「……」
マルムゼの言葉がひどく優しく聞こえた。
その声音にはつい甘えてしまいたくなる響きがあった。
「ひとりになりたくない。ひとりになると何を考え始めるかわからなくて……怖いの」
ああ、私はなんで破廉恥な女なんだ。
最愛と想い、それが故に強く恨んでしまった男の死を知った。その途端にこれか。
たった今、自らのうちに眠るその男への愛情を再確認したばかりではないか。
なのに……。
「今夜は私と一緒にいて下さい」
なんで私はこんな事を言っているのだろう?
最低……。本当に最低な女だ、私は。
「……わかりました」
それでも、やっぱり優しい声だった。
「私はあなたが強い人だと知っています。そして同じくらい、か弱き人だということも。私は、どちらのあなた様もお慕いしております」
マルムゼは力強く、だが決して乱暴ではない手つきでアンナの身体を抱きしめた。