「そこの露天で売ってましたの、おひとついかが?」
「結構。私は甘いものが苦手なので」

 ラルガ侯爵はいつもの不機嫌そうな顔で首を横に振った。仕方ないのでアンナは紙袋からひとつだけ揚げパン(クラプフェン)を取り出して、かじる。
 ふわりとした生地を噛むとさわやかな香りと酸味が口に広がる。中にあんずのジャムが入っているのだ。
 これは"鷲の帝国"の伝統菓子で、ここ数日で帝都の露店にも並ぶようになった。

 ゼフィリアス2世の来訪以来。帝都ではちょっとした"鷲の帝国"ブームが起きている。大通りには両国の国旗が交互に掲げられ、それをあしらった土産物が飛ぶように売れているらしい。この揚げパンのような、"鷲の帝国"の名物料理も露店や食堂で大人気だそうだ。

「みんな楽しそうよね。両国の友好を無邪気に祝っている」

 アンナはラルガ邸の窓から表通りの様子を眺めながら言った。
 先ほどクラプフェンを買った露天には、いつのまにか行列ができている。そこに並ぶ若い女性の何人かは、黄色と黒で染めたスカーフを身につけていた。"鷲の帝国"の国旗の色だ。

「庶民はそれでいいのです。裏で腐臭を放つ権力闘争のことなどは、我々だけが背負ってればいい」
「ええ、その通りね」

 彼らの無邪気な笑顔を守るためにアンナたちが戦わねばならない。もし、先日の皇帝の小麦(ファリーヌ・アンペルール)事件が解決せず、グリージュス公が私腹を肥やし続けていたら……露天に揚げパンなど並ばなかったかもしれない。

「それで、どうかしら?」
「あなたのおっしゃった通りです。今朝、ゼフィリアス陛下から使いが来ました」

 ラルガは封筒を取り出した。開封されているが、まだ赤い蝋が付いている。双頭の鷲の図柄が刻印された封蝋は、紛れ間なく"鷲の帝国"皇帝が送り主であることを示していた。

「明日の午後、私に会いたいとのことです。全く、どんな手品を使ったのですかな?」
「……それは、錬金術にも関わることのため、秘密とさせてください」

 モン・シュレスでの経緯を説明するとなると、マルムゼの正体や彼と同じ顔を持つホムンクルス、そしてサン・ジェルマン伯の事に触れざるを得ない。
 ラルガ侯爵は政治・軍事の両面に秀でた男だが、錬金術に明るいわけではない。これらの話をするのは時期尚早だった。

「前に話した通り、例の部屋を押さえています。明日はそこで陛下と会いましょう」
「承知しました。しかし……宮殿には、もっと位の高い部屋がございます。一国の皇帝を出迎えるのに、本当にあそこで良かったのですか?」
「どうせ最上級の部屋は全部クロイス派が押さえてるわ。陛下には、惨めな弱小派閥ゆえ小さな部屋になってしまい申し訳ありません、と謝りましょう」

 アンナが皮肉を言うと、ラルガもほんの少しだけ口元を緩めた。

「それに、あの部屋じゃなきゃ駄目なのよ。私があそこを選んだのにはちゃんと理由があるから……」

 * * *