ふたりが入った宿は、ホテル・プラスターなどとは比べるべくもない簡素な民宿だ。グレアン伯の名を出せば、もちろん貴族御用達の高級ホテルに泊まれるが、今回は帝都で菓子屋を営む若夫婦と、身分を偽っている。

「プラスターの図面を出して」

 アンナは部屋に入るとすぐにマルムゼに命じた。

「はい」

 黒髪の青年は、手際よく折り畳まれた紙を荷袋から取り出し、テーブルに広げる。

「400名のうち、護衛の兵士はおよそ300名……」
「もちろん全員に、前もって私の異能を使うのは無理です。夜中に忍び込み、番兵に見つかる前に術をかけていく、というやり方になるでしょう」

 かつて、先代グレアン伯の部屋に忍び込んだ時に使った手だ。

「皇帝が泊まるのは、やはり本館のスイートルームでしょうか?」
「いえ、ホテルの庭園内に賓客用の離れがあったはず。おそらく泊まるのはそっちよ」
「なぜ、お分かりに?」
「皇妃様がおっしゃっていたの。兄君は昔から造園が趣味で、国外を訪れるたびに現地の庭園を見学するって」

 東苑に建てる館の計画を立てているときに、ふと皇妃がもらした事だ。ゼフィリアス帝は訪れた庭園で、石畳の並べ方や噴水の彫像などを観察し、自分の宮殿の庭でそれを応用してみせるのだそうだ。

「ならば、どの遠くから庭園を眺めることしかできないスイートルームよりも、ど真ん中にある離れを選ぶ。そういう事ですね?」
「ええ」

 マルムゼの異能を駆使し、"鷲の帝国"皇帝の寝所に忍び込む。それが、今回の計画だ。クロイス公やアルディスの目の届かぬところで、ラルガとの面会、そしめ皇妃と兄の再会の手筈を整える。そのためにアンナは、身分を隠してこの山間の町にやってきた。

「庭園は隠れるところが少ないわ。忍び込むのも難しくなるけど、できる?」
「あなた様がやれと仰せならば」

 マルムゼはまっすぐアンナの瞳を見据えてくる。数瞬、ふたりは目を合わせたまま無言でいた。

「わかったわ。では決行は深夜1時。それまでここで仮眠をとりましょう」

 アンナは懐中時計を見ながら言った。

「では、私は外に控えております」
「は、何言ってるの? あなたも寝るのよ」
「え? いやしかしアンナ様がお休みの時に何かあったら……」
「はあ〜」

 アンナはわざとらしくため息を漏らしてみせる。

「あのね、私たちは庶民の若夫婦という設定でここにとまってるのよ? 廊下で旦那がひとり立っていたら、どう見てもおかしいでしょ?」
「う……それは……確かに」
「それに、今夜はあなたにも万全でいてもらはなくてはならない。だからしっかり寝なさい!」
「かしこまりました。では……この辺りで失礼します」

 マルムゼはぎこちなく体を動かし、床に寝転がろうとした。

「聞こえなかった? 私は万全と言ったんだけど。そんな硬い床の上で万全な状態になれるの?」
「し、しかしですね……」

 マルムゼは耳の先を紅潮させている。彼が指差す先には簡素なベッドがひとつ。安宿に夫婦と偽って泊まったのだ。ツインベッドなど用意されてるはずもない

「大丈夫よ。このベッド横幅あるし、2人で仮眠するくらいならなんとも……」
「そうではなくて!」

 マルムゼは声を荒らげた。

「そこまで私を信用していると?」
「……ああ、そういう事? でもあなたの性格だと、目上の女性に迫ろうなんて思わないでしょ。リアン太公じゃあるまいし」
「それは……そうですが。いえ、そうではなく、別の意味でもです」
「別の意味?」
「私に寝首をかかれることはないと、信じておいでですか?」
「は? 何を今さら……」

 半笑いで言いかけて、アンナはすぐに言葉を止めた。

(駄目ね、私は。こんな態度、誠実じゃない)
 
 男女としても主従としても、今のアンナの命令が適切ではないことくらい、彼女自身もわかっている。
 けど、わざと何でもないように振る舞ったのは、アンナの虚勢だ。

「そうね。あなたに酷い仕打ちをした後だもの……ちゃんと話をしましょう」

 数週間前、不審にかられたアンナはマルムゼの忠誠心を試すような事をした。それにマルムゼは、危ういほどにまっすぐ態度で応えてくれた。
 なのにアンナは、気まずさから彼を遠ざけ、今回の旅の直前まで必要最低限の接し方しかしてこなかったのだ。

「傷はもう大丈夫?」
「はい。おかげさまで完治しております」
「あの日の事と、それ以来あなたを遠ざけてきたことについて改めて謝ります。ごめんなさい」
「あなたは、私のふたりの主人のうちの一人です。主人が家臣をどう扱おうと勝手。私に不満はございません」

 マルムゼはそう答え、さらに続けた。

「ただ、あなたが私をどれほど信用されているか。それは知りたい」
「うん……」

 いっそのこと全て話してしまえばいい。アンナは何度もそう思った。マルムゼに芽生えた不審の理由。あの日東苑で皇妃と共にいた事を、彼に問い詰めればいいのだ。
 けど、それはできなかった。彼のもう一人の主人、サン・ジェルマンの真意がわからない以上、迂闊には動けない。下手すればアンナの身を滅ぼしかねない。

 それに……怖かった。復讐や謀略とは関係なく、もっと根源的なところでアンナはマルムゼの正体が明らかにする事を恐れている。

 なぜだけはわからない。けれどアンナには、マルムゼの裏の顔など知りたくない、目に映るものだけを信じたいという思いが確かにあった。

「完全に信用することは、正直できない。あなたは必要になるまで何も語らない。異能のこともそうだったし、サン・ジェルマン伯のことも……」

 そう話しながら、アンナは自分がマルムゼの目を見ていないことに気づく。駄目だ、これでは。

「でもね……」

 一度目をつぶってから、決意を込めてからの黒い瞳を見る。そうだ。ここから先の言葉はちゃんとこの青年と目を合わせながら言わないと。

「この肉体で目覚めてから、あなたはずっと私を助けてくれた。だから信頼したい。仲間として!」

 確かに信用はできない。けど、信頼…この青年を文字通り信じて頼りたい。矛盾しているようだが、アンナにはそんな想いが確かにあった。

「仲間として……ですか?」
「ええ」

 マルムゼは目を閉じる。磨き上げられた黒曜石のような瞳を瞼の裏に隠し、しばらく何かを考えているようだった。

「わかりました」

 彼はベッドへと歩み寄る。

「あなた様とは主従であると同時に同志。目的達成のため、このベッド半分使わせていただきます」

 * * *