「それでは皇妃様、私たちもそろそろ失礼いたしますわ」
「ええ、ごきげんよう。ぜひともまたいらして下さい!」

 迎えに来た馬車に乗り、最後の一組が本殿の方へと去っていく。花畑には、アンナと皇妃のみが残された。傍に控えていた侍女たちが後片付けを始める。

「皇妃様、みんな帰りました。残っているのは、私とあなた様だけです」
「そうですか」

 太陽が傾き、お茶会もお開きとなったが、皇妃はアンナにだけこの場に残るよう命じた。
 館の工事のことで相談とのことだが、彼女の口ぶりから別の理由があることが察せられた。

「あなたに、折り入って相談があるの……いいかしら?」
「もちろんです。皇妃様がお困りになっているのでしたら、私が断ることなどありえませんわ」

 アンナはニッコリと微笑んで、そう返した。その表情は彼女には見えないだろうが、息遣いや声の調子を聞くことで少し安心したようだ。皇妃の顔から僅かに不安の色が消える。

「先程のエスリー夫人のお話についてです」
「ゼフィリアス陛下のご来訪のことでしょうか?」
「ええ。たしかにその話、私も聞いているの。でもね……」

 皇妃は自分の悩みの種を打ち明けた。

「影武者を使う?」
「そうなの。兄上との面会には私ではなく別の人間を立てると、陛下やクロイス宰相はお考えのようで……」
「なるほど……」

 確かに、そうするしかないのかもしれない。
 皇妃マリアン=ルーヌが盲目であることは、宮廷の貴族の多くが知るところだが、ほとんどの国民、そして諸外国の人間には知らされていない。
 宮廷が描く肖像画はいずれもしっかりと両眼が開かれたものになっているし、世間に流布している新聞や雑誌の挿絵もそうだ。

 もちろん完全に秘密にできることではないし、目を患っているという噂は流れている。しかし帝室が否定も肯定もしないため、それは憶測の領域を過ぎぬものとなっていた。

 だが、実の兄である"鷲の帝国"の皇帝が会えば、憶測が事実であることが全世界に知れ渡る。その理由が貴族たちの権力闘争によるものであることもすぐに暴かれるだろう。そうなれば、両帝国の友好関係は終わりだ。
 だから影武者を用意しようと、皇帝やクロイス公の考えるのも当然であった。
 この兄妹はもう十年以上も顔を合わせていないのだから、少しでも幼い頃の面影がある女性を選べば、隠すことはさほど難しくはない。むしろ皇妃につきまとう不名誉な憶測が、ただの噂に過ぎないと思わせるチャンスなのだ。

「せっかく兄が来るのです。私は会いたい……」

 皇妃の望みはごくごく素朴なものだった。家族に会いたいという、誰もが抱く思い。しかし、この国で最も高い位にある女性には、それが叶わない。

「私も"百合の帝国"の皇妃。わが国に不利益となるような話をするつもりはありません。それにアンナ、あなたが一緒にいれば目が見えないという問題だって解決するはずです。そうでしょう?」
「それは、確かにそうですが……」

 アンナは言葉に詰まる。皇妃様は善良で優しく、裏表のない方だ。しかし、政治のことがわかっていないと言わざるを得ない。

 兄と会うひとときだけ目が見えれば良いという話ではない。傍に、無役の女貴族がいれば、それだけで"鷲の帝国"側の不信を買う。そういうことがわかっていらっしゃらない。
 それにアンナ自身、今の段階で自分の異能を皇帝やクロイス公に知られるわけにはいかない。この女性の願いを叶えてあげたいが、安請け合いだけは絶対にできない。

「お願い。私にはたくさんの兄弟姉妹がいたけど、この国に嫁いで以来誰とも会っていない。せめて仲が良かった兄上とは挨拶だけでもしたいの……」

 どうしたものか。アンナは考える。彼女の願いを無視するのは気が引けるが……。

「……すでに、陛下と宰相閣下の間で進んでいる話ならば、私の一存ではどうすることもできません」
「そう……ですか。いえ、確かにこれは私のわがまま……」
「ですが、血を分けたご兄妹に会いたいという皇妃様のお気持ちは痛いほどわかります」
「え?」
「このグレアン伯、皇妃様のために人肌脱ぎましょう!」

 うまく行けばゼフィリアス2世の信頼を得ることもできるかもしれない。それは皇帝やクロイス公と渡り合っていくための武器となるだろう。

「ありがとうございます! アンナ、本当にありがとう!」

 皇妃の目から大粒の涙が溢れ出る。感情を発露させるという、ある意味ではものを見ること以上に尊い働きを、彼女の目はまだ失っていなかった。