「また東苑でございますか、皇妃様?」

 ヴィスタネージュ宮殿のグラン・テラス。本殿から庭園に向かって突き出した大理石敷きの広大な空間は、野外演奏会や夜会に使われる場所だ。
 そこに豪奢な装飾を施した馬車が数台並んでいる。

「そうですが何か、ペティア夫人?」

 皇妃マリアン=ルーヌは、これらの馬車で友人たちと東苑に向かい、お茶会をすることになっていた。そこに宮廷女官長ペティア夫人が現れたのだ。

「以前も申し上げたはずです。東苑は皇族方の私的な空間。いかにご友人とはいえ、頻繁にあの場所への出入りを許されるのはいかがなものかと」
「そ、それは……」

 ペティア夫人の抑揚のない硬質な声に、皇妃は思わずたじろぐ。馬車に乗り込もうとしていたゲストたちも、2人の異様な雰囲気に気がつく。
 するとペティア夫人は、そのゲストたちにも硬い視線をぶつけた。

「そもそも、このヴィスタネージュは、帝国貴族の誇り高き栄華の殿堂。皆様のそのだらしのないお姿は、一体何ですか?」

 参加者は皆、腰を絞らないゆったりとしたドレスを着用している。髪もきつく結い上げたり巻いたりせず、自然体のままで簡素な花飾りなどをつけている女性が多い。
 初回のお茶会の成功以来、何度か東苑の花畑で同じようなパーティーを開いているが、すっかりこのスタイルが定番となった。
 参加者たちは、この会のためにドレスを新調し、仕立て屋たちの間では「皇妃の花畑様式(ジャルダン・ド・ランペラトリス)」と呼ばれ、新たなファッションと認知されているらしい。

 しかし、こういう格好を宮廷女官長は喜ばない。彼女にとって、あるべき貴婦人の姿とはコルセットできつく締め上げた腰と、かっちりと結いあげた髪があってこそなのだ。

「ペティア夫人、お話は私が伺います。皆様はお出かけください」

 アンナがペティア夫人の前に歩み出て言った。

「下がりなさい、グレアン伯爵夫人! 僭越ですよ!」

 相変わらず、女官長はアンナ自身が伯爵号を持つ人間だということを認めようとはしていないらしい。

「そうは申されますが、私はこの会の実務的な部分を皇妃様から任されております。クレームは皇妃様やゲストの皆様ではなく、私に」
「あなたが? では皇族でもなんでもないあなたが勝手に東苑を……!」

 みるみるうちに夫人の顔が赤くなっていく。もはや、アンナしか目に入っていないはずだ。それを確認すると、アンナは隣に立つエスリー子爵夫人に目配せをした。初回の茶会で、真っ先に大地のケーキを食した彼女は、今では皇妃の茶会のムードメーカー的存在となっている。

「皆さま、ぼーっとしていでも仕方ありませんわ。風が冷たくなる前にパーティーを始めましょう」

 そう言いながら、貴婦人たち馬車に乗せていく。

「さ、皇妃様も」
「で、でも……」

 エスリー夫人は少しだけ強引に、皇妃の手を取り馬車へと乗り込んだ。

「ま、待ちなさ……」
「ペティア夫人、お話は私が伺うと申し上げましたが」

 エリーナだった頃の、守旧派貴族と渡り合ってきた胆力を全開にして、ペティア夫人に詰め寄る。

「くっ……」

 さしもの宮廷女官長も気勢を抑えられてしまう。こうして広いグラン・テラスには睨み合う2人の女性だけが取り残された。

「……あなたが来てから皇妃様は変わってしまわれた。以前はあのような怠惰なお姿で、外を歩き回るようなことはなかった」
「それが私のせいだとでも?」
「他に考えられますか!? 皇妃陛下をたぶらかす佞臣め!」

 佞臣、か。エリーナ時代に散々言われた言葉だ。皇帝陛下を色香で惑わし、政治に口出しをする佞臣だと。

「夫人、お伺いしたいのですが……このヴィスタネージュの主はどなたでしょう?」
「は?」
「皇帝陛下、並びに皇妃陛下であると私は思っていたのですが、違いますか?」
「もちろんそうです。なのに、あなたは皇妃様のご性格につけ込んで好き勝手を……!」
「私がお連れするまで、皇妃様は東苑に行ったことがないと仰せでした」
「え……?」

 ペティア夫人の口が止まった。

「ご自分の家の、しかも自分たちだけの私的な空間にも関わらず、です。あのお方は、これほど広大な自宅を持っていながら、この本殿と周りの狭い空間しか知らなかった」
「それは、皇妃様は目を患っていたから……」
「いたからなんです? 現にあのお方は、東苑を知って以来あのように活き活きとされている。親しいご友人と過ごされたことが、この本殿でありましたか?」

 異国へ嫁いだ直後に視力を奪われ、以来陰謀に怯えながらこの本殿の狭い一室でひっそりと暮らしてきた。誰の目を気にすることもない東苑に行くことすら許されなかった。思えば、これまでの皇妃の境遇はあまりにも残酷だ。

「しかし、このヴィスタネージュには伝統があります! 秩序があります! いかに皇妃様といえども、それを守って頂かなくては」
「伝統? 秩序? 便利な言葉ですね。女官長という立場なら、それ言葉で皇族でも黙らせる事が可能とでも?」

 いい機会だ。ここではっきりと教えてやろう。もう皇妃はお前の手駒ではないと。

「先ほどの言葉、そっくりお返しします。皇妃様の性格につけ込み、伝統や秩序の名の下にあの方を支配していたのは、果たしてどちらでしょう?」
「なな、な……」

 赤くなっていたペティア夫人の顔は、一転し蒼白へと近づいていった。何か言いたそうだが、わなわなと口が震えて言葉が出てこない。

「そこまで」

 横から声。2人しかいなかったはずのグラン・テラスにいつのまにか見物客がいた。薄紫の生地にふんだんに羽飾りをつけたドレスと、同じく羽飾りがついた帽子の貴婦人が、大勢の取り巻きをつ連れている。

「あなたの負けみたいよ、ペティア夫人。今日のところはそれくらいにしておきなさい」
「ルコット様……」

 寵姫ルコット。宰相クロイス公の愛娘にして、皇帝アルディスの現在の恋人だ。
 
「あなたも、ほどほどになさい。それ以上、女官長殿の面目を潰してはいけませんよ」
「……礼失礼しました」

 アンナは一歩引き下がり頭を下げる。ペティア夫人はアンナの顔を身もせずに、そそくさとその場を後にした。

「あなたとお話しするのは初めてよね、グレアン伯爵?」
「はい。お初にお目にかかります、クロイス嬢」
「堅苦しい挨拶はいいわ。とても面白い見せ物が見られて気分がいいの」

 ルコットは孔雀羽の扇で口元を隠して抜くクスクスと笑った。それに合わせて取り巻きたちも笑う。その完璧な連携に、アンナは嫌悪感を覚えた。

「私も、あのおばさんの小言にはウンザリしてましたの。だから、あなたがやり込めたのを見てスカッとしちゃった」
「左様でございますか」
「ウワサ通り、聡明な方のようね。どうかしら、私の下で働いてみない?」
「は?」

 あまりにも意外な言葉に、思わずアンナは返答に窮した。

「って無理よね。あの皇妃様のお気に入りだもの」

 ルコットが「皇妃様」と言ったタイミングで、取り巻きたちはまたも笑い出した。きっと、そのタイミングで笑うと、この女の機嫌が良くなるのを彼女たちは知っているのだろう。

「まあ何にしても、あなたには感謝しているわ、グレアン伯爵。あの辛気臭い方が東苑に引きこもってくれたおかげで、本殿の風通しがとても良くなったのだから!」

 いくら寵姫とはいえ……いや、寵姫だからこそ許されない非礼な言葉だ。
 このような皇妃への侮辱が許されているという事が、今の宮廷の実情を表していた。今、ヴィスタネージュで最も実力を持つ女性は皇妃でも女官長でもなく、このクロイス公の娘なのだ。

「これから皆でカード遊びをしますの。真珠の間を使わせていただくけど、どうせ皇妃様は使わないだろうし、構いませんよね?」

 真珠の間は、女性の遊興向けに作られた23の部屋のうち、最も豪華な一室だ。その部屋を使用する優先権は、言うまでもなく皇妃が一番であり、その次が寵姫となる。

「では、ご機嫌よう」

 そう言い残し、取り巻きの行列を従えてルコットは本殿に入って行った。
 今度こそ、グラン・テラスにひとり残されたアンナは腕を組んで深くため息をついた。

「どいつもこいつも……」