グレアン伯爵邸の書斎には、2種類の呼び鈴がある。
 取手が赤いものは、執事やメイドなどの家中のものに仕事を申しつけるためのもの。そして黒い取手は、腹心マルムゼを呼び出し内密の話をするためのものだ。
 グリージュス事件に関する報告書をまとめると、アンナは黒い方の呼び鈴を鳴らした。

「お呼びでしょうか、アンナ様」

 程なくして黒髪の青年が書斎に入ってきた。黒い呼び鈴を鳴らした時には、マルムゼ以外のものは書斎に近づいてはならないよう取り決めてある。

「ええ、あなたに確認したいことがあるの」

 アンナは腹心の顔をじっと見据える。

 やはり、この顔だ。マルムゼで間違いない。

 ヴィスタネージュの東苑で、皇妃と話していた男。彼女の前で、まるで皇帝のように振る舞っていた男。それは紛れもなくこの黒髪の青年だった。

「は……? 確認、とは何についてでしょうか?」
「あなたが忠誠を誓う相手は誰?」

 二人きりで皇妃と会えだなんて、もちろんアンナは命じていない。まして皇帝を演じろなどと。
 だとすれば、なぜマルムゼはあそこにいたのか。自身の判断で? 違う。この男にはもうひとり主人がいる。私をホムンクルスとして復活させた謎の人物が。

「私が忠誠を誓い相手。それはもちろん、あなた様です」

 白々しい、そう思った。出会った頃から謎ばかりの男。
 有能であり、アンナの胸中を全て知っているから、余計な詮索はせずにきたが……そほそろはっきりさせねばならない。

「でも、あなたには別に主人がいるのでしょう?」
「それは……確かにそうですが、今はあなたにお仕えことが私の全てです。そしてそれは我が主人の意にも添う事になります」
「そんな詭弁は求めていないっ!」

 思ったよりも大きな声が出てしまった。

「それでは結局、私よりも優先するものがあると言っているのと同じでしょう?」
「アンナ様。一体どうされたのですか? なぜ突然そのような……」

 アンナの態度に、マルムゼも訝しんでいる。しかし、そんな態度も全て演技のように見えてしまう。皇妃の前で皇帝を演じてみせたのだ。どんな態度も本心と思ってはならない。

「あなたがもし本当に忠誠を誓うのであれば、その証を見せてみなさい」
「証、とは……」
「私に命を差し出す覚悟を」

 アンナは立ち上がった。書斎の壁には一振りの剣が飾られている。グレアン伯爵家の紋章が入ったそれは、代々この家に家宝として伝わったものだという。アンナはそれを無造作につかむとマルムゼの喉元に突きつけた。

「アンナ様、お戯れを……」
「悪いけど、私は本気よ」

  剣の切っ先は、マルムゼの首筋に触れるか触れないかの位置にある。

「動いては駄目よ。私がが少しでも手をひねれば、この剣はあなたの首を切り裂く」

 力の加減次第では頸動脈を切り裂くかもしれない。
 とにかくこの青年より優位に立ちたかった。生殺与奪の権を握り、全てを白状させたかった。
 なぜ私に従うのか? なぜ皇妃に近づいたのか? 全て主人とやらの命令なのか? その目的はなんなのか?

「私の何が、あなた様のご不興を買ったか分かりませんが……私の気持ちに偽りはありません」

 マルムゼは事もなげに、刃を掴んだ。そして躊躇なくそれを首に押し当てる。

「これが、その証になるのであれば」
「マルムゼ!」

 青年の予想外の行動に、思わずアンナは彼の名を叫んだ。ぐいと力が入れられ、マルムゼの血管に刃が走るその刹那。

 彼女は思わず剣から手を離した。

「あ……」

 重心が崩れ、落下した剣はガランと大きな金属音を立てて床に落ちる。
 
 動脈を傷つけはしなかったものの、マルムゼの首と、刃を握った右手の平からは赤い血が流れ出ていた。それを見た瞬間、アンナは自分がしたことをようやく理解した。

「ごめん……なさい。すぐに傷の手当てを!」

 机の上の、使用人を呼ぶ赤の呼び鈴を取ろうとする。が、マルムゼの手に阻まれる。

「なりません。伯爵ともあろうお方が、不用意に家臣を傷つけた。万が一そんな風評が広がれば、あなた様の進む道に支障が出ます。これは、私とあなた様だけの秘密としましょう」
「けど……」
「ご安心を。この程度の傷、ホムンクルスの肉体ならすぐに再生します」

(何をやっているの、私はできるだけ……?)

 彼に誓ったはずだ。どれだけの悪行をなそうと、己の正義は見失わないと。
 今の私の行動は果たして正義か?

「どうかしていたわ、私……」
「何があったのか、今は聞きません。あなた様にも心の整理をする時間が必要でしょう」

 マルムゼはにっこりと微笑む。

「この通り、この命ならいつでも投げ出す覚悟はあります。そのことはご承知おきください」
「ええ。ええ、そうね」

 アンナはへたり込むように、椅子に腰を下ろした。
  
「あなたが私のために尽くしてくれていること、誰よりも理解しているつもりだった。なのに……」

 いや、だからこそ、東苑で見た彼の姿にショックを受けたのかもしれない。自分自身が思っている以上に……。

「ひとつだけ……教えて」
「何なりと」
「あなたの主人の名を教えて。名前だけでいい……」

 この青年は多くを語らない。異能のことですら、必要になるまで説明を避けていた。
 皇妃と接触した理由、それを命じたもうひとりの主人の正体。それらを、今ここで何を問い詰めても無駄だろう。けど、せめて名前だけは知っておきたかった。

「……サン・ジェルマン」

 よく知っている名前だ。やっぱり、そうか。

 エリクサーやホムンクルスを生み出すだけの力量を持つ錬金術師。おそらく彼であろうとは、アンナ自身も考えていた。

 サン・ジェルマン伯爵。伯爵を名乗っているが、帝国貴族ではない。出自不明の錬金術師で、世界を渡り歩いている男だ。不定期に錬金工房にも訪れ、独自の研究や世界で見聞きした知識などを工房にもたらし、そのたびに工房の研究は大きく前進していた。
 それゆえ工房側も客員教授の肩書きを与え、自由な出入りを許していた。
 彼がマルムゼの、そしてアンナの生みの親だとすれば、あらゆることが腑に落ちる。

「……ありがとう。傷が癒えるまで、休んでいなさい」
「はい」

 マルムゼは一礼すると、書斎を退室した。
 ひとり残されたアンナは深くため息をつき、背もたれに体重を預けた。窓から差し込む陽光がひどく眩しく感じ、目隠しをするように腕で顔を覆った。

(本当に、どうしてあんな事を……)

 マルムゼの返答次第では本当に首を切り付けるつもりでいた。殺すつもりはなかったが、結果的にマルムゼの命を奪う可能性はあったかもしれない。

(最大の味方を失う所だった)

 今になって恐怖が、怒涛のように押し寄せてくる。
 皇妃やラルガ侯爵親子など、アンナに味方してくれる人間は、着々と増えている。
 でもマルムゼは、他の誰にも代え難い存在だ。エリーナの無念も、アンナの心の闇も、全て知っているかけがえのない腹心なのだ。

 どうしてあんな軽率な行動をとってしまったのだろう?
 感情に振り回されるなど、普段のアンナならありえない。衝動に身をまかす誘惑は、常に理性によって押さえつけられていた。
 なのに今回、マルムゼに裏切られたかもしれないという疑念は、理性をねじ伏せてしまった。悔しさとも怒りともつかない正体不明の感情が、つい先程までアンナの身体を奪ってしまっていた。

「しっかりなさい、エリーナ……!」

 アンナは敢えて、昔の名前で自分を鼓舞した。
 最愛の人に裏切られ、悪女の烙印を押されて死んでいった悲劇の寵姫。同じ思いをしながら滅ぶなんてごめんだ。
 焦らずじっくりとサン・ジェルマン伯爵と向き合う必要がある。そしてなんとしても私の復讐を成し遂げる。

 アンナは己の胸に、その覚悟を刻み直していた。