「宰相を完全に敵に回しましたな」

 クロイス侯爵が立ち去ると、今度はラルガ侯爵が声をかけてきた。後ろには息子エイダー男爵もついている。

「ラルガ侯爵、此度は本当にありがとうございました。そして、巻き込んでしまったことお詫びさせていただきたく……」
「今さら、何を殊勝なことをおっしゃる。私とてクロイス派には不満を持ち続けていた。今回のような機会を与えてくれたことありがたく思っています」

 そう言って侯爵は軽く笑った。が、すぐに鋭い眼光がアンナに向けられる。

「ですが、あなたは同時に我々の信用を損なうような行動をとった。それはわかっておりましょうな?」

 背後のエイダー男爵もアンナを睨みつけていた。

「あなたは、不審な行動をすればその場で斬っても良いとまで言われた。にも関わらず息子の指示に従わず、あの工房跡地で姿を消した。お分かりですな? 今あなたの首と胴が繋がっているのは、私と息子の情けによるものだと」
「不審な行動を取ったのはお詫びいたします。しかし、闇物資があの通路の奥にもあるのではと私は思い……」
「よしましょう。私もそんな言い訳を聞きたいのではない」

 侯爵は首を横に振った。

「クロイス派の専横に立ち向かう姿勢はお見事。ですがあなたは無用に敵を作りすぎる。私まで敵に回すとは、3年前の過ちを繰り返すおつもりですか、フィルヴィーユ公爵夫人?」

 ラルガは思いがけない名前を口にした。

「は?」
「息子は言いました。あなたとあなたの従者は、何やら不思議な力を用いていたと。もともと錬金術は、失われた魔法の力を復活させることを目的とした学問。あそこには、闇物資と同じかそれ以上に重大なものがあったのではないのですか?」
「なんの、ことでしょう?」
「あなたのような並外れた行動力と洞察力をもった女性は他にいない。恐らくそのお姿は、あの政変を生き延びるために使った錬金術によるものなのでしょう。そう考えるのがもっとも自然です。少なくとも私にとっては」

 侯爵は息子に目配せをした。そして二人は同時にアンナのもとに跪く。

「こ、侯爵!」

 侯爵が、爵位が下の伯爵に首を垂れるなど本来ならあり得ない。しかし、目上の公爵夫人なら話は別だ。

「確かにかつて、あなたと私は政敵同士でした。しかしあなたとの舌戦は、真剣で立ち会うような奇妙な爽快感があった。それは貴族どもの足の引っ張り合いでは決して味わえぬ感覚。国を憂いた者同士だけが分かち合えるものだったのでしょう」

 跪いたまま、侯爵は続ける。

「あなたが今もなお、この国を正しく導くご意思があるのならば、我ら親子はあなたを支持します!」
「……」
「どうか権力をお握りください。我ら親子、助力は惜しみません」

 予想外の展開。しかし、この男が味方となるのであれば、これほど心強いことはない。

「あなたのご推察の通りです。侯爵閣下」

 アンナは決意する。

「フィルヴィーユ公爵夫人エリーナ。確かに私はかつて、そう呼ばれていました」
「やはり、そうでしたか」
「立ってください、侯爵閣下。形の上では私は伯爵、あなたよりも下の立場にいるものです。帝国貴族たる者、目下の相手に跪いてはなりません」

 無言のまま、侯爵は立ち上がる。

「ですが、私はいずれかつてと同じ……いえ、それ以上の地位を得ます。帝国の未来のために!」
「おお……それでは」
「忙しくなりますよ。私についていくというのであれば」

 アンナは右手を差し出した。ラルガはそれをがっしりと掴む。

「老い先短い人生ですが、いかようにもお使いください」

 続いて、息子のエイダー男爵とも握手を交わす。

「昨日は失礼いたしました。軍事に関することは私にお任せください!」

 老練な大貴族と、若手軍人の親子との盟約。まさにこのときこそが、後に「"百合の帝国"の女主人」と称されたアンナ・ディ・グレアンが自らの派閥を持った瞬間だった。
 そしてここから、クロイス公爵を筆頭とした大貴族たちとの熾烈な戦いが始まるのである。

 * * *

 アンナは大庭園を進む馬車に揺られながら考えていた。
 いそがしい一日だった。クロイス公爵の宣戦布告を受け、ラルガ親子からは忠誠を誓われる。
 宮廷の力系はアンナを中心に今日一日で大きく動いた。

(でも望むところよ!)

 心の中でそう唱えて、アンナは自らを鼓舞した。
 この激動は、アンナの復讐が順調に進んでいる証拠だ。敵が鮮明となり、同時に味方が増える。結構なことではないか。

 橋を越えて、東苑に入る。本来皇族しか入れない場所だが、自由に出入りできる特権を、皇妃から与えられている。そして宮殿に参内する日は必ずあの花畑で会う約束を皇妃と交わしていた。

(あのお方もまた、自分にとって得がたい力となる)

 アンナは皇妃に対してそう考えていた。
 あの純真無垢な人柄を利用するのは気が引けるが、宮廷内で力を握るためには彼女を味方につけるのが最も確実かつ手早い。だから今日のような忙しい日であっても、彼女とは必ず会っておかなくてはならない。

「あら?」

 花畑には先客がいるようだった。皇妃の馬車の他に、馬が一頭いる。その馬具は煌びやかな近細工で彩られている。持ち主は非常に高貴な身分であるらしい。

「えっ!?」

 馬に近づき、その蔵に刻印された紋章を見て、アンナは一瞬固まった。百合をモチーフにした皇帝の紋章。寵姫時代に一緒に遠乗りをしていたから見慣れていた。皇帝のみが使用を許された馬具だ。

「アルディスが、ここに来ている……?」

 今朝、御前会議で顔を見たばかりが、その時とは状況が違う。私的な空間であの男と会いたくはない。

(けど、妙ね……?)

 アンナは周囲を見回した。護衛が一人もいない。皇妃の護衛はいつもどおり遠巻きに彼女を守っているが、アルディス皇帝は単身この花畑に来たようだ。あまりにも不用心ではないか?

「陛下がいらしているのなら、私はここでおまちしてましょうか?」

 その皇妃の護衛に話しかける。すると彼は、きょとんとした顔でアンナを見つめてきた。
 
「は、なんのことでございましょう?」
「え?」

 皇帝に気づいていない? そんな馬鹿なことあるか?

「どういうこと?」

 何かがおかしい。意を決してアンナは人造池の方へと歩いていった。

「まさかこんな場所で陛下にお会いするなんて」

 茂みの向こうから皇妃の声が聞こえた。陛下、か。やはり、アルディスと一緒にいるようだ。

「そなたがこの花畑を気に入っていると言う話を聞いてな。どうだろう、ここに館を建てては?」
「よろしいのですか?」
「ああ、私はそちに夫らしいことを何もしてやれていない。せめて、健やかに過ごせる家くらい用意しようではないか?」
「あの……ありがとうございます」

 皇帝夫妻の会話が聞こえてくる。それに聞き耳を立てていたアンナの顔は真っ青になっていた。

(どういうこと……? )

 あの夫婦が仲良さそうに会話している。もしそうだとしても充分に奇妙なことだが、アンナの驚きはそこにはない。
 今、皇妃と話している相手。その声は明らかにアルディスのものではない。

「ありがとうございます陛下」
「これまで私は其方を粗略にしすぎた。少しずつ埋め合わせをさせて欲しい」

 皇妃に優しく語りかけるその声を、アンナはよく知っていた。だから、聞き間違えるはずがない。

 アンナは茂みに身を潜め、顔だけを出して様子を伺う、花畑の中に置かれたテーブル。そこに皇妃は座っている。そして彼女の横にいる男……。

「うそ……でしょ……」

 その者が着ている服は、確かに今日の御前会議で皇帝が着用していたものだった。
 背格好も似ている。しかし、その髪色が全く違う。アルディスの獅子のたてがみを思わせる豊かな赤毛ではない。
 つややかな黒髪。かつての恋人ではなく、今現在アンナの側にいる腹心と同じ髪色。そして同じ声。

「マルムゼ……?」

 皇妃が話す相手は、かのホムンクルスの青年に間違いなかった。

第I部 寵姫復活編 -完-