無人の旧職人街は完全な暗闇に覆われていた。
月光と建物から漏れ出るランプの灯りのみを頼りに進んでいた捜査隊も、流石にこのエリアに入ると足が止まる。
「なるほど、こっから先は完全な闇。ランプを使えば、あの小屋からすぐにわかると……考えてるな」
エイダー男爵は目を凝らしながらつぶやいた。
広大な更地の中央部に、丸太や石灰などの建築資材と小さな作業小屋がある。星のかすかな光でようやく視認できるほどのおぼろな影だ。
「あそこに積まれた丸太の影に地下道への入り口があります」
マルムゼが言う。入り口の所在までは確認済みなのだ。
「どうやって進みますか、男爵?」
「……」
エイダーは考え込み、返事をしない。資材置き場までは何も障害物がない更地。這って直進すれば、灯りなしでも到達可能に見える。
が、更地というのがかえって怖い。落とし穴や撒き菱のような罠が仕掛けられている可能性は極めて高い。
「強行突入はどうでしょう?あえて松明を焚いて、全軍で小屋に突っ込むのです」
マルムゼが提案する。
「それは……相手に気づかれても良いと?」
「どれだけ気配を殺しても、300人が動けばどこかで必ず気づかれます。接近に時間を掛ければ、証拠品を燃やされる可能性もあるでしょう」
「なるほど……」
エイダー男爵はしばらく考えいた。
「大雑多に見えるが、案外有効な策だ。向こうはまだこちらの動きに気づいていないはず……」
300人の兵士が声をあげて突撃すれば、必ず混乱が生じる。それに乗じて、相手が証拠品の小麦を焼き払う前に、地下に到達すればいいのだ。
「なるほど、恐らくあなたが正しい。流石はもと近衛兵ですな」
マルムゼは黒と銀の近衛隊軍服を着ている。いつもは、アンナの好みの色とデザインで仕立てた服を着せているが、今日だけは例外だ。
軍人や兵士相手には、この格好の方が意見を通しやすいと考えたためだが、どうやらうまくいったらしい。軍人特有の仲間意識が良い方に働いたようだ。
「よし各小隊は小屋を囲むように展開。合図と同時に松明を灯し突撃せよ」
命令は速やかに、300名の兵士たち全員に伝えられた。そして更地を包囲するように展開する。
「全軍突撃!」
男爵の雄叫びと共に、銃剣を構えた全兵士が走り始める。
案の定、落とし穴に足を取られる者、撒き菱を踏み抜くものが続出するが、構わず突き進む。
小屋から銃声。見張りたちも応戦を始めたようだが、すでに足の速い者は資材置き場に到達していた。
「小屋にいる者は殺すな! 全員逮捕するのだ!」
生かしておけばクロイス派の悪事の証人となる。
「隊長! 地下道の入り口を発見しました」
積まれた木材はに囲われるよにして穴は存在した。台車が何台も出入できるような大きな穴だ。
木の板で塞がっているように偽装されているが、兵士が蹴破ると松明の光が届かないような黒々とした空間が現れた。
兵士たちは暗闇にひるむこともなく中へと入っていく。
「アンナ様、我々も」
「ええ!」
二人は地下へと足を踏み出した。
「奴らが隠した小麦は一掴みも残さず、全て押収せよ!」
背後で声。エイダー男爵はアンナとマルムゼのすぐ後ろにいた。兵士たちの指揮をしつつも、父グレアン侯の命令はしっかりと守っている。
厄介なお目付役だ。アンナは舌打ちしたい気分にかられた。
地上との通路を抜けた先に広大な空間が広がっていた。そこに小麦の袋が堆く積み上げられている。
袋だけではない、樽や木箱なども大量にある。どうやらグリージュス公爵が溜め込んでいた闇物資は小麦だけではなかったらしい。
「あれは!」
松明に照らされた木箱のひとつがアンナの目に飛び込んだ。
それには焼印で『陸軍第18連隊』と記されている。エリーナが生前に追おうとしていた、軍需物資の横流し問題。どうやらその実行犯もグリージュス公爵だったらしい。
「袋を焼き払わせるな! 抵抗する者には容赦無用!」
エイダー男爵自身もサーベルを抜き払って臨戦体制をとる。今が頃合いか。
「マルムゼ!」
アンナは視線で、奥に続く通路を示した。マルムゼはうなずき、二人はそちらへ向かって走ろうとする。
「お二方、どちらへ行かれる?」
エイダーが2人の行動に気がつき、制止する。目ざとい男だ。
「男爵、御免!」
すかさずマルムゼの手が伸び、エイダー男爵の体に触れた。"認識迷彩"を発動。
男爵の認識を書き換え、マルムゼとアンナが通路に入るのを見逃させようとする。
「奥へ向かうのは、この空間にある物資を外に出してからにしていただこう。それまではここで待機願いたい!」
「!!」
マルムゼの異能が効かない!?
アンナは思わず舌打ちしそうになった。その場に絶対に人がいてはいけない状況ならば、"認識迷彩"は通用しない。これは以前マルムゼが説明していたことだ。
つまりこの男は、この戦場で自分の命令なしに勝手な行動を起こす者を、一切認めてない。
いかなる例外も許さない。軍人としては完璧すぎるほどに完璧な思考の持ち主だ。こうなると、更に深層の意識を書き換える必要があるが、そんな隙を彼は与えてくれないだろう。
「足手纏いにはなるな、そう私は申し上げたはず。隊の足を引っ張るような行動を謹んでいただきたい!」
さて、どうする。どうにかしてこの男から離れなければならない。
「アンナ様、私に"感覚共有"をお使いください」
「え?」
「そして内部構造を私に」
なるほど、すぐにマルムゼの意図を察知する。アンナはマルムゼの手を強く握りしめ、この工房を訪れた時の記憶を思い返した。
「ご無礼仕る!」
マルムゼは右腕をアンナの背中に、左腕を脚に回してアンナの身体を抱き抱えた。アンナも彼の首に腕を絡ませる。
「待たれよ!」
エイダーの叫びを背後に残し、マルムゼは全力で通路の中へ駆け込んでいった。疾い。アンナを抱いた状態にも関わらず、追いすがるエイダーを突き放していく。
「くそっ! 誰か灯りを! この奥にランプをかざせ!」
エイダーの声が急速に遠のいていく。ここから先に照明はない。正確な構造を知らなければ、全力疾走するマルムぜを追うことは難しいだろう。
「次の角を右に曲がって、その先の分かれ道は左よ」
「はい!」
一方マルムゼは一周たりとも止まらず暗闇を疾駆する。ホムンクルスは通常に人間より感覚が鋭敏だ。ほんの僅かな光でも周囲の状況を察知できる。
「そうしたら階段があるはずです。それを下りて……」
「承知しています!」
あ、そうか。口に出すまでもない事にアンナは気がつく。今彼は頭の中でアンナと同じものを見ているのだ。
どこをどう進めば、どこへ行き着くのか。アンナが目指している場所はどこなのか。マルムゼはすべて理解している。
階段をまるで飛び降りるように駆け抜け、すぐさま分岐を左へ進む。さらに分かれ道と階段。複雑に曲がりくねった通路を抜ける。
それまでと変わり、真っ直ぐに一本の通路が伸びる区画に出た。そこでマルムゼは壁の穴に手を突っ込むと、中にあるレバーを引く。通路の配置されたガスランプが自動的に点り、通路が照らされた。
天井にめぐらされている金属製の管。それに可燃性の気体が通り、それがランプに火をつけるのだ。帝都の繁華街を昼のように照らしているガス灯と同じ仕掛けだ。
「ここは錬金術師たちの個人研究室があった区画です」
通路沿いに扉が連なっている。だがその奥はいずれも空き部屋となっており、文献や研究資材はひとつも残っていない。工房が閉鎖される時にすべて押収されたのだろう。
「突き当たりまで進んでください」
マルムゼは通路の最奥まで走り、そこでアンナの身体をおろした。
「ここから先は?」
「隠し通路になっています」
アンナはしゃがみ込む。床のタイルに積もった埃を手で払いのける。
「壁際から四列目。赤いタイルの2つ右側……これね」
かつて錬金術師に教えられたタイルを見つけると。全体重をかけてそれを押し込んだ。
すると、壁のブロックがいくつか飛び出してくる。それを決められた手順通りに押し戻す。今度は反対側の壁のブロックが飛び出す。それを同じように手順通り押すと、ついに突き当たりの壁が動き始めた。
「この先に……何があるのですか?」
「私も、入り方は聞いていましたが中へ入るのは初めてです。ここを管理していた錬金術師は、自分が死んだ時以外は中に入るなと、そう言っていました」
アンナはごくりと唾を飲み込む。そして意を決して、壁に現れた空間へと足を踏み入れる。
「これは」
中の空間は意外にも光があった。だが、ランプの灯火ではない。月光に似た、青く淡い光だ。
「見つけた……」
アンナは自分の心臓が、いつにないほど大きく鼓動しているのを感じていた。
興奮のせいか、あるいはホムンクルスの肉体が同じ錬金術の産物に共鳴しているのか。
「まさかこれは……」
「ええ。賢者の石に間違いありません」
部屋の中央には、液体に満たされた大きなフラスコがある。
その底に小指の先ほどの小さな結晶体が沈んでいる。部屋の光は、その結晶体から放たれているものだった。
「賢者の石、ホムンクルスやエリクサーに並ぶ、錬金術の到達点ですね」
「はい。強大なエネルギーを内側に秘める物質。これを触媒とすれば、あらゆる不可思議を引き起こすことができます。それこそ魔法時代の英雄たちのように……!」
あれだけ小さな結晶だけで、この部屋全体を照らすだけの光を発している。
それだけでも、この石に秘められた力が垣間見える。
「回収しますか」
「いいえ、このままにしておきましょう。あの石はまだ生成中だと思います」
アンナの魂をホムンクルスに馴染ませるまでに丸2年がかかったように、錬金術の成果が目に見えるまでには待つ時間も必要となるのだ。
フィルヴィーユ派の壊滅から数えても3年。それだけの時間をかけてもまだ、石はあの程度の大きさにしかなっていない。
「再び通路を塞ぎ、そのままにしておくのです。私が錬金工房を復活させるその日まで」
大貴族たちを滅ぼし、皇帝に復讐する。そのための最強のカードを見つけた。
あとはこのカードをどうやって自分の持ち札にするかだ。そして相手には絶対に、このカードを引かせてはならない。
「さあ、エイダー男爵がここを見つける前に、上に戻りましょう」
言うとアンナは踵を返し、秘密の部屋を後にした。
月光と建物から漏れ出るランプの灯りのみを頼りに進んでいた捜査隊も、流石にこのエリアに入ると足が止まる。
「なるほど、こっから先は完全な闇。ランプを使えば、あの小屋からすぐにわかると……考えてるな」
エイダー男爵は目を凝らしながらつぶやいた。
広大な更地の中央部に、丸太や石灰などの建築資材と小さな作業小屋がある。星のかすかな光でようやく視認できるほどのおぼろな影だ。
「あそこに積まれた丸太の影に地下道への入り口があります」
マルムゼが言う。入り口の所在までは確認済みなのだ。
「どうやって進みますか、男爵?」
「……」
エイダーは考え込み、返事をしない。資材置き場までは何も障害物がない更地。這って直進すれば、灯りなしでも到達可能に見える。
が、更地というのがかえって怖い。落とし穴や撒き菱のような罠が仕掛けられている可能性は極めて高い。
「強行突入はどうでしょう?あえて松明を焚いて、全軍で小屋に突っ込むのです」
マルムゼが提案する。
「それは……相手に気づかれても良いと?」
「どれだけ気配を殺しても、300人が動けばどこかで必ず気づかれます。接近に時間を掛ければ、証拠品を燃やされる可能性もあるでしょう」
「なるほど……」
エイダー男爵はしばらく考えいた。
「大雑多に見えるが、案外有効な策だ。向こうはまだこちらの動きに気づいていないはず……」
300人の兵士が声をあげて突撃すれば、必ず混乱が生じる。それに乗じて、相手が証拠品の小麦を焼き払う前に、地下に到達すればいいのだ。
「なるほど、恐らくあなたが正しい。流石はもと近衛兵ですな」
マルムゼは黒と銀の近衛隊軍服を着ている。いつもは、アンナの好みの色とデザインで仕立てた服を着せているが、今日だけは例外だ。
軍人や兵士相手には、この格好の方が意見を通しやすいと考えたためだが、どうやらうまくいったらしい。軍人特有の仲間意識が良い方に働いたようだ。
「よし各小隊は小屋を囲むように展開。合図と同時に松明を灯し突撃せよ」
命令は速やかに、300名の兵士たち全員に伝えられた。そして更地を包囲するように展開する。
「全軍突撃!」
男爵の雄叫びと共に、銃剣を構えた全兵士が走り始める。
案の定、落とし穴に足を取られる者、撒き菱を踏み抜くものが続出するが、構わず突き進む。
小屋から銃声。見張りたちも応戦を始めたようだが、すでに足の速い者は資材置き場に到達していた。
「小屋にいる者は殺すな! 全員逮捕するのだ!」
生かしておけばクロイス派の悪事の証人となる。
「隊長! 地下道の入り口を発見しました」
積まれた木材はに囲われるよにして穴は存在した。台車が何台も出入できるような大きな穴だ。
木の板で塞がっているように偽装されているが、兵士が蹴破ると松明の光が届かないような黒々とした空間が現れた。
兵士たちは暗闇にひるむこともなく中へと入っていく。
「アンナ様、我々も」
「ええ!」
二人は地下へと足を踏み出した。
「奴らが隠した小麦は一掴みも残さず、全て押収せよ!」
背後で声。エイダー男爵はアンナとマルムゼのすぐ後ろにいた。兵士たちの指揮をしつつも、父グレアン侯の命令はしっかりと守っている。
厄介なお目付役だ。アンナは舌打ちしたい気分にかられた。
地上との通路を抜けた先に広大な空間が広がっていた。そこに小麦の袋が堆く積み上げられている。
袋だけではない、樽や木箱なども大量にある。どうやらグリージュス公爵が溜め込んでいた闇物資は小麦だけではなかったらしい。
「あれは!」
松明に照らされた木箱のひとつがアンナの目に飛び込んだ。
それには焼印で『陸軍第18連隊』と記されている。エリーナが生前に追おうとしていた、軍需物資の横流し問題。どうやらその実行犯もグリージュス公爵だったらしい。
「袋を焼き払わせるな! 抵抗する者には容赦無用!」
エイダー男爵自身もサーベルを抜き払って臨戦体制をとる。今が頃合いか。
「マルムゼ!」
アンナは視線で、奥に続く通路を示した。マルムゼはうなずき、二人はそちらへ向かって走ろうとする。
「お二方、どちらへ行かれる?」
エイダーが2人の行動に気がつき、制止する。目ざとい男だ。
「男爵、御免!」
すかさずマルムゼの手が伸び、エイダー男爵の体に触れた。"認識迷彩"を発動。
男爵の認識を書き換え、マルムゼとアンナが通路に入るのを見逃させようとする。
「奥へ向かうのは、この空間にある物資を外に出してからにしていただこう。それまではここで待機願いたい!」
「!!」
マルムゼの異能が効かない!?
アンナは思わず舌打ちしそうになった。その場に絶対に人がいてはいけない状況ならば、"認識迷彩"は通用しない。これは以前マルムゼが説明していたことだ。
つまりこの男は、この戦場で自分の命令なしに勝手な行動を起こす者を、一切認めてない。
いかなる例外も許さない。軍人としては完璧すぎるほどに完璧な思考の持ち主だ。こうなると、更に深層の意識を書き換える必要があるが、そんな隙を彼は与えてくれないだろう。
「足手纏いにはなるな、そう私は申し上げたはず。隊の足を引っ張るような行動を謹んでいただきたい!」
さて、どうする。どうにかしてこの男から離れなければならない。
「アンナ様、私に"感覚共有"をお使いください」
「え?」
「そして内部構造を私に」
なるほど、すぐにマルムゼの意図を察知する。アンナはマルムゼの手を強く握りしめ、この工房を訪れた時の記憶を思い返した。
「ご無礼仕る!」
マルムゼは右腕をアンナの背中に、左腕を脚に回してアンナの身体を抱き抱えた。アンナも彼の首に腕を絡ませる。
「待たれよ!」
エイダーの叫びを背後に残し、マルムゼは全力で通路の中へ駆け込んでいった。疾い。アンナを抱いた状態にも関わらず、追いすがるエイダーを突き放していく。
「くそっ! 誰か灯りを! この奥にランプをかざせ!」
エイダーの声が急速に遠のいていく。ここから先に照明はない。正確な構造を知らなければ、全力疾走するマルムぜを追うことは難しいだろう。
「次の角を右に曲がって、その先の分かれ道は左よ」
「はい!」
一方マルムゼは一周たりとも止まらず暗闇を疾駆する。ホムンクルスは通常に人間より感覚が鋭敏だ。ほんの僅かな光でも周囲の状況を察知できる。
「そうしたら階段があるはずです。それを下りて……」
「承知しています!」
あ、そうか。口に出すまでもない事にアンナは気がつく。今彼は頭の中でアンナと同じものを見ているのだ。
どこをどう進めば、どこへ行き着くのか。アンナが目指している場所はどこなのか。マルムゼはすべて理解している。
階段をまるで飛び降りるように駆け抜け、すぐさま分岐を左へ進む。さらに分かれ道と階段。複雑に曲がりくねった通路を抜ける。
それまでと変わり、真っ直ぐに一本の通路が伸びる区画に出た。そこでマルムゼは壁の穴に手を突っ込むと、中にあるレバーを引く。通路の配置されたガスランプが自動的に点り、通路が照らされた。
天井にめぐらされている金属製の管。それに可燃性の気体が通り、それがランプに火をつけるのだ。帝都の繁華街を昼のように照らしているガス灯と同じ仕掛けだ。
「ここは錬金術師たちの個人研究室があった区画です」
通路沿いに扉が連なっている。だがその奥はいずれも空き部屋となっており、文献や研究資材はひとつも残っていない。工房が閉鎖される時にすべて押収されたのだろう。
「突き当たりまで進んでください」
マルムゼは通路の最奥まで走り、そこでアンナの身体をおろした。
「ここから先は?」
「隠し通路になっています」
アンナはしゃがみ込む。床のタイルに積もった埃を手で払いのける。
「壁際から四列目。赤いタイルの2つ右側……これね」
かつて錬金術師に教えられたタイルを見つけると。全体重をかけてそれを押し込んだ。
すると、壁のブロックがいくつか飛び出してくる。それを決められた手順通りに押し戻す。今度は反対側の壁のブロックが飛び出す。それを同じように手順通り押すと、ついに突き当たりの壁が動き始めた。
「この先に……何があるのですか?」
「私も、入り方は聞いていましたが中へ入るのは初めてです。ここを管理していた錬金術師は、自分が死んだ時以外は中に入るなと、そう言っていました」
アンナはごくりと唾を飲み込む。そして意を決して、壁に現れた空間へと足を踏み入れる。
「これは」
中の空間は意外にも光があった。だが、ランプの灯火ではない。月光に似た、青く淡い光だ。
「見つけた……」
アンナは自分の心臓が、いつにないほど大きく鼓動しているのを感じていた。
興奮のせいか、あるいはホムンクルスの肉体が同じ錬金術の産物に共鳴しているのか。
「まさかこれは……」
「ええ。賢者の石に間違いありません」
部屋の中央には、液体に満たされた大きなフラスコがある。
その底に小指の先ほどの小さな結晶体が沈んでいる。部屋の光は、その結晶体から放たれているものだった。
「賢者の石、ホムンクルスやエリクサーに並ぶ、錬金術の到達点ですね」
「はい。強大なエネルギーを内側に秘める物質。これを触媒とすれば、あらゆる不可思議を引き起こすことができます。それこそ魔法時代の英雄たちのように……!」
あれだけ小さな結晶だけで、この部屋全体を照らすだけの光を発している。
それだけでも、この石に秘められた力が垣間見える。
「回収しますか」
「いいえ、このままにしておきましょう。あの石はまだ生成中だと思います」
アンナの魂をホムンクルスに馴染ませるまでに丸2年がかかったように、錬金術の成果が目に見えるまでには待つ時間も必要となるのだ。
フィルヴィーユ派の壊滅から数えても3年。それだけの時間をかけてもまだ、石はあの程度の大きさにしかなっていない。
「再び通路を塞ぎ、そのままにしておくのです。私が錬金工房を復活させるその日まで」
大貴族たちを滅ぼし、皇帝に復讐する。そのための最強のカードを見つけた。
あとはこのカードをどうやって自分の持ち札にするかだ。そして相手には絶対に、このカードを引かせてはならない。
「さあ、エイダー男爵がここを見つける前に、上に戻りましょう」
言うとアンナは踵を返し、秘密の部屋を後にした。