アンナが家督を継ぎ、正式にグレアン伯爵家の当主となったのが10月。そこから年が明けるまでの2ヶ月は、激務続きだった。
 帝国政府へ提出する山のような相続関係の手続き、グレアン家の財政状況の把握、わずかに残されていた領地の視察。

「明け方まで書類と睨めっこなんて、いつ以来かしら」

 息をつく間もないほどの多忙。たが、アンナにとってはそれが心地よい。
 アンナはフィルヴィーユ派の盟主だった頃は珍しくもないことだった。当時恋仲だった皇帝アルディス3世の寝室で、眠る彼の腕の中から抜け出し、半裸のまま羽ペンを取ることすらあった。

 そんな元恋人である皇帝アルディスと、その腹心ウィダスへの対応も重要な仕事だった。前当主がしでかしたことの謝罪は、新当主アンナがやらなければならない。
 本来なら直に会って謝罪すべきだったが、二人が前線視察にため帝都を留守にしたため、書簡と使者を通してのやりとりのみとなった。アンナは正式な謝罪は新年祝賀会で行うことを申し入れ、皇帝と大臣もそれを承諾した。

 そして年が明け、今日がその祝賀会の日だ。

「マルムゼ、いかがでしょう?」

 アンナは、執務の合間を縫って仕立て屋に作らせたドレスに袖を通した。
 皇帝と戦争大臣への謝罪が一番の理由とはいえ、これがアンナの宮廷デビューの日となる。装いに気を抜くことはできなかった。
 新年の華やかな雰囲気に合わせ、深紅のタフタ織を取り寄せた。それに銀糸で、グレアン家の紋章にもつかわれているオリーブの紋様をあしらい、それをドレスにした。
 さらにグレアン家が財政難の折にも手放さなかったという、百合をかたどったダイヤモンドのブローチを胸につける。帝国のシンボルをモチーフとしたそれは、遠い昔に皇帝より下賜された逸品だそうだ。これを身につけることで、帝室への敬意と謝意の表れとなるだろう。

「とてもよく似合っておいでです。伯爵閣下」
「ありがとうマルムゼ」

 マルムゼは、正式にグレアン伯爵アンナの家臣となっていた。
 近衛兵として皇帝の身辺を探らせてもよかったのだが、マルムゼの異能は手元にあった方がなにかと役立つ気がする。
 それにマルムゼ自身が、なかなかアンナのそばを離れようとしなかった。アンナの護衛こそが自分の最も重要な使命と言い張り、アンナが特別に命令しない限り近衛隊の詰所に戻ろうともしないのだ。

「閣下のお側こそが、私の身の置き所です!」

 そう言って憚らないため、除隊させグレアン家に迎え入れたのだ。

「ところでマルムゼ、その伯爵閣下という呼び方はやっぱり堅苦しいわ。非公式の場では、これまで通り名前で読んでも構いませんよ」
「え? いやしかし、それは……?」
「どうしたの?」
「お忘れですか? 貴方様を名前で呼ぶのは気が引ける、以前そう申し上げたはずですが?」
「……」

 そういえばそうだ。
 リアン大公に面会するため、ベルーサ宮へ行くときにそんな話をした。戸惑っている青年の顔を見て、おかしさがこみ上げてきた。

「マルムゼ、命令です。今後、二人きりのときは閣下呼びを禁じます。私のことは名前で呼びなさい」
「は? いや、しかし閣下!」
「アンナ!」
「はっ! アンナ……様」
「ぷっ……くくく……」

 こらえきれず吹き出す。いつの間にかアンナはこの得体の知れない青年をすっかり気に入っていた。
 その正体や、彼の背後にいる「主人」なる者のことなど不審な点は確かにある。だが、腹心としては極めて有能だ。
 どんな命令でも遂行してくれるし、アンナの考えや目標をしっかり理解もしている。
 何より、こうやっていじめたときの反応が面白い。普段は怜悧な印象すらある黒髪の美青年なのだが、アンナが意地の悪い命令をだすと子犬のような顔で困り果てる。その落差が、妙にアンナの心を楽しませた。

「本当、私はいい腹心を持ったわ」
「は、はぁ、それは恐縮です……」

 釈然としない様子でマルムゼは応えた。

「あとはその服だけね」
 
 黒と銀の軍服だけはそのままだった。近衛兵は除隊しても生涯この服を着ることを、一種の名誉として認められている。
 とはいえこの姿は、彼がいつまでも私ではなく皇帝に仕えているようで面白くない。

「今後は私に付き添って公式の場にも出てもらうことになるわ。あなたにも、ふさわしい装いを仕立ててあげましょう」
「は、はい。光栄です」

 このようにマルムゼと他愛のない話に興じていると、使用人がドアをノックしてきた。

「当主様、マルフィア大公殿下がお見えになられました」
「皇弟殿下が? ありがとう、すぐに参ります」

 当主とはいえアンナは女性だ。パーティーの場には男性のエスコートが必要となる。その相手はリアン大公に依頼していた。

「……」
「相変わらず、リアン大公の名前が出てくると顔が曇りますね」

 アンナはマルムゼの不服そうな表情に気がつき、いたずらっぽく告げる。

「……なんの事でしょうか?」
「私のエスコートを彼がするのは不満?」
「不満などあろうはずもありません、あの方しかいないと私も思っています」

 そう言いつつも、マルムゼの眉は不愉快そうにねじれている。彼は大公のことを、未だ警戒しているようなのだ。

「もちろん手放しで信頼できる相手とは思っていませんよ。何度も申している通り、私は利用しているだけです。彼の宮廷社会への反感や、混乱を喜ぶ気質をね」
「それも承知しています! ですが私は、あの方ほどにあなたを知らない」
「どういうこと?」
「あなたと皇弟殿下は、古くからの親友だったのでしょう? 私が危惧しているのはそこです」
「ああ、エリーナとはね。けど大公殿下は今の私の正体を知らない。大丈夫、私たちの計画を気取られることはありませんよ」
「……もういいです」

 何故かマルムゼは落胆し、そのまま会話を打ち切ってしまった。

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