「お父様、私はこのグレアン家の……なによりお父様のためを思って言っているのです」
「う……う……しかしだな、アンナ……」
アンナがグレアン家に入ってより半年。宮廷内でグレアン伯爵が倒れ、屋敷へ運び込まれていた。
この半年で伯爵は別人のように変わり果てた。頬は痩せこけ、目には常に怯えの光をたたえ、もともと白髪の多かった髪は完全な真っ白になっている。
すべてアンナとマルムゼによるものだった。初日以来不定期に彼の寝室を訪れ、エリーナの死の記憶を見せる。
それは伯爵の心の隅に残っていた罪悪感を刺激し、耐え難い苦痛と恐怖を与えることとなった。
今夜見るかもしれない毒殺の夢に怯え、寝ることすら怖がるようになり、伯爵はみるみるうちに衰弱していった。
「なぜウィダス大臣に襲いかかったりなどしたのですか?」
「……」
伯爵は答えない。ただ虚な視線を空中に泳がせているだけだ。
宮廷からの使いは、ただ「養父が急病で倒れた」としか伝えてこなかった。すぐにマルムゼを宮廷に忍び込ませ事態を探らせる。すると思いがけぬ事件が起きていたことがわかった。
ただの急病ではない、伯爵は乱心の末に戦争大臣ウィダス卿を襲撃したのだ。
「あ……わ……わた……」
伯爵はしきりに唇を動かしていたが、声が震え言葉にならない。
しかし何を言ってももう無駄だ。今日の事件で、この男は完全に終わった。
今夜、伯爵は皇帝アルディス3世が開く晩餐会に出席する予定だった。
貴族社会で孤立しているグレアン伯家が、宮廷の催しに呼ばれる機会は極めて少ない。
不定期に見る悪夢のせいで消耗していた伯爵だが、この日を逃せば次はいつ機会が巡ってくるかわからないため、不調を押して出席しようとした。
宮廷には毎夜夢に見る顔、つまりかつての近衛隊長ウィダスもいた。近衛兵ではなくなったとはいえ、皇帝の腹心の一人だ。
そして会場となる宮殿の大広間で二人は鉢合わせてしまった。
もしかしたらウィダスは老人のように真っ白な髪の男が誰かすぐにわからなかったかもしれない。しかし伯爵の方はよく知っている、夜になるたびに自分を、そしてフィルヴィーユ夫人を殺そうとする恐ろしい男が目の前に現れたのだ。
伯爵はテーブルに並べられたナイフを掴んみ、奇声を発しながらウィダスに襲いかかったという。
だが、痩せこけた中年男が、たかが食事用ナイフ一本で軍人に敵うはずがない。
伯爵はウィダス自身の手で取り押さえられ、そのまま衛兵に拘束されてしまったという。
「あのような事件を起こしてしまった以上、陛下からも何らかの処分が下されるはず。それよりも前に……」
「わ、わた……私は……」
「お父様落ち着いて下さい。ゆっくり、ゆっくりでいいですから」
見せかけだけの思いやりの言葉を、アンナは養父にかける。
いくらか平静を取り戻し、伯爵はゆっくりと自分の言い分を話し始めた。
「私は……本当に……ウィダス大臣に敵意など……抱いていなかった! 自分でもなぜ……なぜ……」
「わかってます。わかってますわ、優しいお父様!」
義父の手を取り、アンナは目を潤ませる。こういう演技は、宮廷では必須のスキルだったから寵姫時代に覚えた。
「行き場のない私を拾い、本当の娘のように育ててくれました。アンナはお父様がどれだけ善良な人かを知っています」
「アンナ……」
「ですが、それでも今回の汚名をすすぐ事は難しいでしょう」
「うう……」
「あとは私に任せ、引退なさって下さい。どこか静かなところでゆっくり余生をお過ごしになればいいのです」
「い、引退……? 私が、か?」
「お悔しい、ですか?」
それは悔しいだろう。祖父の代の一族が散財したり詐欺にあったりしたせいで、貴族としての恩恵をほとんど受けることができなかった。
帝国有数の名門に生まれたはずなのに、時代が時代なら宰相の道だってあったはずなのに。
それでもなんとか、家名を上げてやろうと足掻いたのに、こんな幕切れとなってしまうのか。そんな思いだろう。
「ええ。悔しいでしょうね。わかります。私を養子にしたのだってクロイス家と繋がりを持ちたいから、でしたものね?」
「アンナ……?」
「でもね、お父様。悔しかったのはあなただけではありません」
アンナは養父の手を握りながら、エリーナとしての人生が終わった瞬間の苦痛を思い出す。昼間にこの力を使うのは初めてだ。
「うぐあっ!」
グレアン伯は悲鳴と共に大きく目を見開いた。しかしその視界にこの部屋の様子もアンナの顔も映っていないだろう。
今この男が見ているのは、あの日の高等法院の貴人牢だ。
「な、なぜ今、この夢が……?」
「夢? 違いますわお父様、今あなたが見ているのは現実。実際に起きたことです」
「アンナ、お前何を……?」
「あなたに陥れられた者たちも皆、無念だったのです」
「そうだ……そういえば最初にこの夢を見たのは、お前がこの家に来た日……い、いったいどういう?」
「民のための政治を志していた者たち。彼らはお父様のせいで破滅しました」
「お、お前は一体何を言って……?」
ガチガチと歯を震わせながら養女を見ようとする。けどその姿は、別の人間のもののように感じられる。
「はあっはあっ……」
その間にも毒入りワインが体の内側を灼くあの感覚が、伯爵を襲っている。
「アンナ……? いや、お前はアンナなのか?」
「あなたの矮小な欲望のために、貴族派に蹂躙されたフィルヴィーユ派の官僚も」
「……お前は……誰だ?」
「そして、今あなたが見ている悪夢を味わったフィルヴィーユ公爵夫人も……いいえ」
アンナは、いやエリーナは訂正する。
「私も悔しかったのですよ、グレアン伯爵。こうして復讐のために生き返ってしまうくらいに」
2年前、この孤立した貴族に話しかけていた頃と同じ声音でエリーナは声をかけた。即座に絶叫が響く。
「うわあああああ! 」
もはや彼にアンナの姿は見えていなかった。今伯爵の手を握っているのは、民のために貴族はと対決し伯爵の裏切りで破滅した悲劇の寵姫その人だった。
「フィ……フィル……フィル……お許し下さい、おゆるしください……」
顔を伏せ、全身を震わせながら哀れな裏切り者は懇願する。
「あの時は仕方なかったのです! この家の……グレアン家のために……ああするしか……ああするしかあぁぁ……」
そして伯爵はそのまま気を失い、柔らかい布団の中にその体を沈めていった。
終わった。もはやこの男が再起することはないだろう。アンナは笑いを堪えながら立ち上がると、できるだけ悲劇的な声で叫んだ。
「誰か医者を! お父様が……! お父様が!!」
グレアン伯爵が引退を表明し、その財産と伯爵の称号を養女アンナに委譲する書類にサインをしたのは、その2日後のことだった。
「う……う……しかしだな、アンナ……」
アンナがグレアン家に入ってより半年。宮廷内でグレアン伯爵が倒れ、屋敷へ運び込まれていた。
この半年で伯爵は別人のように変わり果てた。頬は痩せこけ、目には常に怯えの光をたたえ、もともと白髪の多かった髪は完全な真っ白になっている。
すべてアンナとマルムゼによるものだった。初日以来不定期に彼の寝室を訪れ、エリーナの死の記憶を見せる。
それは伯爵の心の隅に残っていた罪悪感を刺激し、耐え難い苦痛と恐怖を与えることとなった。
今夜見るかもしれない毒殺の夢に怯え、寝ることすら怖がるようになり、伯爵はみるみるうちに衰弱していった。
「なぜウィダス大臣に襲いかかったりなどしたのですか?」
「……」
伯爵は答えない。ただ虚な視線を空中に泳がせているだけだ。
宮廷からの使いは、ただ「養父が急病で倒れた」としか伝えてこなかった。すぐにマルムゼを宮廷に忍び込ませ事態を探らせる。すると思いがけぬ事件が起きていたことがわかった。
ただの急病ではない、伯爵は乱心の末に戦争大臣ウィダス卿を襲撃したのだ。
「あ……わ……わた……」
伯爵はしきりに唇を動かしていたが、声が震え言葉にならない。
しかし何を言ってももう無駄だ。今日の事件で、この男は完全に終わった。
今夜、伯爵は皇帝アルディス3世が開く晩餐会に出席する予定だった。
貴族社会で孤立しているグレアン伯家が、宮廷の催しに呼ばれる機会は極めて少ない。
不定期に見る悪夢のせいで消耗していた伯爵だが、この日を逃せば次はいつ機会が巡ってくるかわからないため、不調を押して出席しようとした。
宮廷には毎夜夢に見る顔、つまりかつての近衛隊長ウィダスもいた。近衛兵ではなくなったとはいえ、皇帝の腹心の一人だ。
そして会場となる宮殿の大広間で二人は鉢合わせてしまった。
もしかしたらウィダスは老人のように真っ白な髪の男が誰かすぐにわからなかったかもしれない。しかし伯爵の方はよく知っている、夜になるたびに自分を、そしてフィルヴィーユ夫人を殺そうとする恐ろしい男が目の前に現れたのだ。
伯爵はテーブルに並べられたナイフを掴んみ、奇声を発しながらウィダスに襲いかかったという。
だが、痩せこけた中年男が、たかが食事用ナイフ一本で軍人に敵うはずがない。
伯爵はウィダス自身の手で取り押さえられ、そのまま衛兵に拘束されてしまったという。
「あのような事件を起こしてしまった以上、陛下からも何らかの処分が下されるはず。それよりも前に……」
「わ、わた……私は……」
「お父様落ち着いて下さい。ゆっくり、ゆっくりでいいですから」
見せかけだけの思いやりの言葉を、アンナは養父にかける。
いくらか平静を取り戻し、伯爵はゆっくりと自分の言い分を話し始めた。
「私は……本当に……ウィダス大臣に敵意など……抱いていなかった! 自分でもなぜ……なぜ……」
「わかってます。わかってますわ、優しいお父様!」
義父の手を取り、アンナは目を潤ませる。こういう演技は、宮廷では必須のスキルだったから寵姫時代に覚えた。
「行き場のない私を拾い、本当の娘のように育ててくれました。アンナはお父様がどれだけ善良な人かを知っています」
「アンナ……」
「ですが、それでも今回の汚名をすすぐ事は難しいでしょう」
「うう……」
「あとは私に任せ、引退なさって下さい。どこか静かなところでゆっくり余生をお過ごしになればいいのです」
「い、引退……? 私が、か?」
「お悔しい、ですか?」
それは悔しいだろう。祖父の代の一族が散財したり詐欺にあったりしたせいで、貴族としての恩恵をほとんど受けることができなかった。
帝国有数の名門に生まれたはずなのに、時代が時代なら宰相の道だってあったはずなのに。
それでもなんとか、家名を上げてやろうと足掻いたのに、こんな幕切れとなってしまうのか。そんな思いだろう。
「ええ。悔しいでしょうね。わかります。私を養子にしたのだってクロイス家と繋がりを持ちたいから、でしたものね?」
「アンナ……?」
「でもね、お父様。悔しかったのはあなただけではありません」
アンナは養父の手を握りながら、エリーナとしての人生が終わった瞬間の苦痛を思い出す。昼間にこの力を使うのは初めてだ。
「うぐあっ!」
グレアン伯は悲鳴と共に大きく目を見開いた。しかしその視界にこの部屋の様子もアンナの顔も映っていないだろう。
今この男が見ているのは、あの日の高等法院の貴人牢だ。
「な、なぜ今、この夢が……?」
「夢? 違いますわお父様、今あなたが見ているのは現実。実際に起きたことです」
「アンナ、お前何を……?」
「あなたに陥れられた者たちも皆、無念だったのです」
「そうだ……そういえば最初にこの夢を見たのは、お前がこの家に来た日……い、いったいどういう?」
「民のための政治を志していた者たち。彼らはお父様のせいで破滅しました」
「お、お前は一体何を言って……?」
ガチガチと歯を震わせながら養女を見ようとする。けどその姿は、別の人間のもののように感じられる。
「はあっはあっ……」
その間にも毒入りワインが体の内側を灼くあの感覚が、伯爵を襲っている。
「アンナ……? いや、お前はアンナなのか?」
「あなたの矮小な欲望のために、貴族派に蹂躙されたフィルヴィーユ派の官僚も」
「……お前は……誰だ?」
「そして、今あなたが見ている悪夢を味わったフィルヴィーユ公爵夫人も……いいえ」
アンナは、いやエリーナは訂正する。
「私も悔しかったのですよ、グレアン伯爵。こうして復讐のために生き返ってしまうくらいに」
2年前、この孤立した貴族に話しかけていた頃と同じ声音でエリーナは声をかけた。即座に絶叫が響く。
「うわあああああ! 」
もはや彼にアンナの姿は見えていなかった。今伯爵の手を握っているのは、民のために貴族はと対決し伯爵の裏切りで破滅した悲劇の寵姫その人だった。
「フィ……フィル……フィル……お許し下さい、おゆるしください……」
顔を伏せ、全身を震わせながら哀れな裏切り者は懇願する。
「あの時は仕方なかったのです! この家の……グレアン家のために……ああするしか……ああするしかあぁぁ……」
そして伯爵はそのまま気を失い、柔らかい布団の中にその体を沈めていった。
終わった。もはやこの男が再起することはないだろう。アンナは笑いを堪えながら立ち上がると、できるだけ悲劇的な声で叫んだ。
「誰か医者を! お父様が……! お父様が!!」
グレアン伯爵が引退を表明し、その財産と伯爵の称号を養女アンナに委譲する書類にサインをしたのは、その2日後のことだった。