深夜のグレアン邸。アンナはその右手をマルムゼの左手にしっかり握られ、彼に先導される形で無人の廊下を歩いていた。

「こちらです」

 曲がり角まで来ると、マルムゼは手を引きながらささやく。アンナが無言でうなずくと、彼についていくようにして角を曲がった。

「アンナ様、止まって下さい」
「どうしたの?」
「見回りです。兵士が一人」

 伯爵の部屋のちょうど手前。月明かりに照らされ、ぼんやり人影が浮かび上がっていた。後ろを向いているようだ。二人の存在にはまだ気づいていない。
 最近になって自覚するようになったことだが、ホムンクルスは通常の人間よりも五感が鋭敏のようだ。だからこういう場面ではアンナやマルムゼは相手に先手を取ることができる。

(どうするの? ここでやり過ごすこともできるけど……?)

 視線でそう問いかける。初日から騒ぎを起こす訳にはいかない。
 ここはマルムゼの異能頼みだ。彼は、返事をするように左手にわずかに力を込めた。柔らかくアンナを包む圧力。そして黒曜石のような瞳が応える。

(任せて下さい。ただし、手は絶対に離さないで)

(ええ)
 
 アンナはうなずく。事前の手筈通り、マルムゼは兵士に異能の上書きを施すつもりだ。
 二人は目を合わせ、合図すると、足早に接近する。気配に気づき、兵士が振り向く。声を上げるよりも先に、マルムゼの右手が兵士の額に伸びた。

「失礼」

 アンナは、マルムゼの目が一瞬だけ光ったのを見た。蛍のようにほのかな、だがどこか力強さのある光だった。

「う……?」

 兵士は小さくうめき声を漏らす。マルムゼの言葉によれば、肉体が接触している相手が術の対象となる。
 すなわち、額に触れている兵士に暗示をかける。そして認識が変わる相手には、マルムゼが手を繋いでいるアンナも含まれる。
 異能は、彼の意識の深層を書き換える。本来誰もいてはならぬはずの深夜の廊下。たが、この黒髪の青年と今日この家に入った養女だけはその例外となるように。

「……アンナ様、マルムゼ様、どうぞお通りを」

 兵士はうやうやしく一礼し、道を譲るようにして数歩下がる。そしてなんでもないように巡回を続けた。

「参りましょう」

 マルムゼとアンナは伯爵の私室の前に立つ。そしてゆっくりと扉を開いた。

「どなたですか?」

 室内から声。不寝番をしているお付きの従者だろう。その従者もマルムゼに額を捕まれ、そのまま暗示をかけられる。

「こんばんは」

 彼はそう言ってにっこりと微笑むと、それきり二人になんの興味も示さなくなった。これでもう、この部屋にアンナとマルムゼがいることに違和感を抱く者は誰もいない。

「ここからはあなた様の出番です」

 マルムゼはささやいた。
 部屋の中央には天蓋付きのベッドがある、そのカーテンを開けるとグレアン伯爵が眠っている。養女を迎えて、クロイス家との婚姻問題に糸口が見えたからか、満足げな寝顔だ。
 それを見た瞬間、アンナの胸の奥底にある復讐の炎が勢いを増した。それは、伯爵の寝首をかけとアンナを誘惑する。
 私から何もかもを奪った。それでありながら、なぜこの男はのうのうと生きていられる? なぜこんな呑気な寝顔でぐっすり寝られている?

 殺したい。殺してやる!

「アンナ様?」

 マルムゼの声が、アンナを現実へと引き戻した。そうだ。私にはすべきことがある。

「ごめんなさい、何でもないわ」

 この男をここで殺しても何にもならない。本当に復讐すべき相手は宮廷にいる。
 アンナは手を伸ばし、指先をグレアン伯の頬に触れさせた。

「グレアン伯。あなたにも味わわあせてあげる。あの日私が味わった絶望を」

 マルムゼから説明された、アンナの異能は"感覚共有"。アンナが考えている事、記憶、感情、体験などを接触した相手に共有させるというものだ。
 目をつぶり、あの日のことを思い返す。

 審問、毒のワイン、裏切り、そして絶望――。

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