「本当に、当たり前のように溶け込んでいるわね」

 思わずアンナは呆れ声になった。
 歓迎の昼食会が終わり、新しい自室へと案内されると、室内で既にマルムゼが待ち構えていたのだ。

「使用人の人数は大して多くありませんでしたので、ご昼食の間に全員に暗示をかけることが出来ました」

 "認識迷彩"。その異能がマルムゼの説明通りなら、近衛兵の軍服を着た青年が屋敷にいたとしても、誰も疑問に思わないのだろう。

「ただ、この術にも限界があります。そもそも人がいること自体がおかしいような状況ならば、使用人たちも私の存在に疑問を抱きます」
「例えば真夜中の屋敷、とか?」
「はい。その時はさらに深い意識を書き換える必要があります。やや手間取るため、屋敷の者全員にかけるというわけにはいきません」
「じゃあその時はまた、術のかけ直しということね。で、伯爵の部屋は?」
「既に調べ終えています。今夜から実行可能です」
「わかったわ、ありがとう」

 エリーナは窓際のソファに腰を下ろした。
 屋敷は帝都郊外の小高い丘に建てられていて、窓からは広大な景色が一望できた。川の対岸に帝都の城壁が横たわる。そこから視線を北の方角へとずらしていくと、ヴィスタネージュ大宮殿の広大な庭園が見えた。
 良い眺めだ。気に入った。今日からこの屋敷が、復讐の拠点となる。この景色は、束の間でも私の心を癒してくれるだろう。

「マルムゼはホールの肖像画を見ましたか?」
「ヨヴァナ2世の、ですか?」
「そう。屋敷に不釣り合いなほど大きくて笑いそうになっちゃった」
「偉大な宰相だったと聞きます」
「そうね」

 たしかに、宰相ヨヴァナは偉大な政治家だったらしい。アンナもかつてエリーナだった頃、政治の勉強として彼の回顧録を読んでいた。

「けど、その栄華も百年近く昔の話よ。今のこの家は、そんな大政治家を輩出したとは思えぬほど落ちぶれている」
「現当主の何代か前の世代が、家を傾かせた。そう聞いたことがあります」
 
 正しくは3代前と4代前。偉大なる宰相ヨヴァナ2世公の甥と孫だ。
 当時のグレアン家は公爵の位にあった。しかし放蕩三昧で破産しかけたり、投資詐欺に引っかかたりと経済的な不祥事を何度も起こしたという。

「多くの土地や美術品、果ては魔法時代の遺物までを売り払ったそうね。それが当時の皇帝の怒り、伯爵に格下げされてしまった」
 
 今ではグレアン家は「誇りを切り売りする家」として、貴族社会でも浮いた存在となっている。
 だからこそあの白髪の増えた中年も、家名を上げるためにフィルヴィーユ派に合流したり、それを裏切ってクロイス公爵に身売りしたりと、慌ただしく動いていたのだろう。

「誇るものが百年前の当主しかいない。そんな家に生まれてしまい、人生を挽回したい気持ちは、わからないでもないわ」
「確かに、気の毒ですな」
「けど、のしあがるのにはそれなりの才能が必要よ。陰謀と悪意渦巻くあの世界では、尚更ね」
 
 日和見を重ねた挙句、伯爵は娘を失ってしまった。おそらくは毒殺で。クロイス家との縁談がまとまろうとしていた矢先にだ。
 足の引っ張り合いは貴族のたしなみ。少しでも抜け駆けしよう言うものがいれば、すぐに流血が起こる。
 つくづく貴族の陰謀というやつは度し難い。まったくそれで、よく私のことを「血塗られた寵姫」呼ばわりできたものだ。

「グレアン伯の苦悩は察する。許しはしないけれど」

 エリーナたちの破滅のきっかけを作った男だ。同情はしても、許すことなど出来ようか。

「今夜から始めましょう。マルムゼ、準備を整えておきなさい」
「かしこまりました」