血飛沫が顔を濡らす。けど、刃が自分の肉を切り裂く感触もそれにともなって生じるだろう激しい痛みも無い。この血は自分のものではない!

「あ……あ……」

 アンナの前に男の背中があった。

「貴様!!」

 グリーナは驚愕する。つい数瞬前まで棺に収められていた肉体が動き、彼女の斬撃を阻んだのだ。
 刃は彼の腕によって阻まれていた。その肉に深く食い込んでいるはずだが、男はそれをものともせず、痛烈な蹴りをグリーナぶつける。

「ぐあっ!!」

 その肉体は強硬で武装した兵士のものだったので、蹴りがグリーナの体内を破壊することはなかった。が、その衝撃は彼女の体を背後の壁面に叩きつける。

「ああ……あああ……」
 
 痩せ型だが筋肉質で、長身の後ろ姿。ずっと焦がれていたその背中が、今アンナの前に立っていた。

「あああああ……」

 まったくなんと情けないことやら。この背中を見てから、まともに言葉を発せていない。感情が昂り、とめどなく涙が溢れ、それどころではくなってしまっている。未だ刺客は目の間にいて、自分たちの命を狙っていると言うのに。

「すまない、遅くなった」

 棺から飛び出し、アンナの窮地を救った黒髪の青年はそう言った。
 その声音は、この数年アンナを支え続けてくれたホムンクルスの腹心のものとは微妙に異なっていた。その一言を聞いただけで、アンナは安らぎに包まれる心地がした。いついかなる時も、アンナを慈しみ寄り添ってくれた声。
 それは紛れもなく、かつてこの国の皇帝だった男のものだ。
 
「アルディス……!」

 ようやく口が動き、その名を呼ぶことができた。

「久しいなエリーナ……いや、今はやはりアンナと呼ぶべきなのだろうか?」

 そんなことを尋ねてくるアルディスに向かって、先ほどとは別方向から斬撃が襲いかかる。
 ビュリー男爵に偽装していた方の肉体に、グリーナのと魂が移動したのだ。

「まぁいい。お互いの呼び方については、後でゆっくり話そう。ふたりでな!!」