「く……シュルイーズ博士、無事か……」

 ゼーゲンは、すぐ近くにいるであろう青年博士の名を呼びながら、自らの肉体の状態を確認する。
 大きな外傷や出血は無し。両足と右肩に強い打撲。そして腕の動きに連動するように右胸部に鋭い痛みが走る。肋骨をやったか?
 いずれも軽傷の部類に入るダメージで、武器を扱えないほどではない。が、戦闘力は大きく削がれただろう。

「博士!?」

 いつまで待っても返事がないので改めて呼ぶ。するとかすかな唸り声が茂みの中から漏れてきた。

「は……はい……ここに……」
「大丈夫か!?」

 ゼーゲンは枝をかき分けてシュルイーズの身体を抱き起こす。普段からぼさぼさの髪には枝葉や土埃がからみつき、愛用の丸眼鏡は左右のレンズともに大きなヒビが入っている。とてつもなく情けない風体となっているが、この茂みがクッションがわりになったおかげか、案外無事なようだ。

「だいぶ、転がり落ちましたね……」
「ああ。不覚をとった」

 二人は斜面を見上げる。ほとんど崖と言っていいほどの急勾配。その上に、ゼーゲンたちが見張り台としていた大岩が鎮座している。二人はそこから落下したのだ。

 最初に異変に気づいたのはシュルイーズだった。
 彼は洞窟内で、タフトの口述をまとめたメモを整理している最中だった。ふと嫌な予感がして背後を見るとアンナが連れてきた官僚たちが倒れている。1人を除いて。
 そしてその1人が、抜き身の剣を手にこちらへ近づいてくる途中であった。それを目撃してしまったシュルイーズはほとんど反射的に洞窟の外へと駆け出したのだ。

「助手や、顧問閣下たちを置き去りにしてしまった……我ながら情けない」
「いや、博士の行動は正しかった。あそこで顧問殿やタフト殿の方へ走っていたら、誰も助からなかっただろう」

 アンナとタフトは洞窟の一番奥に安置した棺の近くにいたはずだ。とっさに異変を察知したシュルイーズまでそちらへ行けば袋の鼠となる。それよりも戦うことのできるゼーゲンたちに状況を知らせる方が効率的だったのだ。

「もっとも、出口にいる私も何も出来なかったがな……」
 
 今度はゼーゲンガ自重気味に言った。
 洞窟の中から血相を変えて出てきたシュルイーズを見て、ゼーゲンはすぐに動いたのだ。槍を手に、シュルイーズと入れ替わるように洞窟へと飛び込もうとしたその時、予想外の方向から刃が伸びてきて、ゼーゲンの足は一瞬だけ止まってしまった。その一瞬をついて、刃の主人はシュルイーズに切り掛かった。それを守るために、ゼーゲンは彼の体にぶつかりもろとも崖下に転落したのである。

「いつの間にか我々の中に敵が紛れ込んでいたんです。しかも2人。これに対応する方が難しいですよ」

 シュルイーズはため息をつく。何が起きているか、彼は性格に洞察できているらしい。

「2人、とは?」
「顧問殿の連れてきた官僚の中にひとり、着ているものから察するに、恐らくはビュリー男爵でしょう。そしてもうひとりは、あなたの部下だ」

 馬鹿な、と言いかけてやめる。恐らくは全員、認識を書き換えられていたのだ。刺客を、信頼する部下と信じ込まされていた。
 考えてみれば奇妙なことばかりだった。今回の旅の中で、ゼーゲンはビュリー男爵と会話を交わした覚えがない。そして部下の中にもひとり、全く話していないものがいる。そればかりか、彼をルアベーズの戦線に連れて行った記憶すらない。あの時、ゼーゲンは何人の部下を連れて行った? 彼だけはサン・オージュに残っていたのではないか?

「状況から推測するに、妹君でしょう」

 妹……リュディス=オルスの実妹グリーナのことか。彼女はその名前のままポルトレイエ伯爵夫人として宮廷女官長の座に収まっているはずだ。

「タフト殿の話によれば彼女の異能は"憑依"です。複数の肉体を瞬時に切り替えながら行動することで、我ら以外の随行員を瞬く間に殺してしまった。恐るべき刺客ですよ……」
「我ら以外、か……」

 どこまでが「我ら」に入るか、とゼーゲンは考える。ビュリーと同じところにいた官僚は絶望的だろう。シュルイーズとともにいた錬金術師たちも生き残っておるまい。ゼーゲンの部下は? あの瞬間、他の兵士たちが生きていたか? それともゼーゲンが気づくより先に死出の旅路を強いられてしまったか? とっさの状況だったため確証は持てない。
 そして何よりアンナとタフト、そしてマルムゼ。刺客の標的は間違いなくこの3人だ。彼らは無事か?
 洞窟から誰も出てきていないということは、中ではまだ戦闘が行われているのだろう。急がねばなるまい。

「博士はここにいろ。顧問殿たちをお助けしてくる」

 言うと、ゼーゲンは渾身の力を込めて崖上へと跳躍した。

 * * *