「うおああああああ……!!」
「おさらば」

 ウィダスことリュディス=オルスが蹴り飛ばし、皇帝アルディス3世の身体が崖底へと転落する。その様子を、タフトは物陰から息を殺して見ていた。

「……うまくやったのだろうな?」

 横にいる男に尋ねる。

「問題ありません。急所は全て外しています。すぐに死ぬことはありせんよ」

 軽薄な笑みを浮かべながらそう答える男。多くの者もには、彼が今しがた崖から転落した皇帝と同じ顔に見えている。が、彼を生み出したタフトには、本来の彼の姿……つまり標準的なホムンクルスの肉体である黒髪の青年の姿をしっかりと知覚していた。

「しかし、ゆっくりしている暇はありませんよ。じきに死にます」

 まあ、私にとってはその方が都合がいいですが、と付け加えてそのホムンクルス……マルムゼ=アルディスは笑う。

「貴様の言うとおりだ。私は行く」

 そう言うとタフトはマルムゼ=アルディスの頭に手をかざす。記憶のロック。"認識変換"の異能を応用して編み出したタフト独自の力で、今この場で起きたことの記憶を封印する。それも固く、このホムンクルスが死ぬまで絶対に思い出さないほどに。

「マルムゼ!……いや、アルディス3世!ようやく貴様の出番だ」

 リュディス=オルスがこのホムンクルスを呼んでいる。タフトは彼らに背を向け、崖下への道を急いだ。

 今回の遠征でリュディス=オルスはアルディス3世を殺す。それをタフトは全身全霊をもって彼を欺こうとしていた。

 まず"認識迷彩"を駆使し、アルディス3世の遠征軍に紛れ込んだ。そして、リュディス=オルスが事を起こす時を見計らっていた。
 この男はいつ皇帝を殺すか? 数年間、行動を共にしていたため彼の思考は知悉している。最小限の労力で最大の成果が得られるタイミングを、彼は決して逃さない。
 折しも、前線は天候が悪く幾度か豪雨に見舞われていた。本陣近くの川が増水すれば、そこに遺体を投げ込み証拠を隠滅できるはずだ。
 となれば、本物のアルディス3世がその軍才をいかんなく発揮し、"獅子の王国"に大勝した直後の大雨。その時こそリュディス=オルスが動く時だ。タフトはそう確信した。

 そこまで分かれば、あとは自ずと彼の行動も見えてくる。彼は100年に及ぶ憎悪の意趣返しとして、必ず犯行の場にマルムゼ=アルディスを呼ぶだろう。かの簒奪者の魂を受け継ぐホムンクルスに、その子孫たるアルディスを殺させるのだ。
 彼の身体を濁流に投じてしまえば土砂と流木によって死体は砕かれ「アルディス3世の死」と言う事実は隠匿される。その後、あのホムンクルスがアルディス3世を名乗り、偽りの統治で帝国を疲弊させるという算段だ。

 タフトはこの犯行を阻む2つの罠を仕掛けた。
 ひとつはマルムゼ=アルディスだ。ホムンクルスには、設定されたマスターへの命令に服従するという特性があるが、実はマスター以上に強制権を発動できる者がいる。すなわち、造物主たるタフト自身だ。
 タフトは密かにマルムゼ=アルディスに接触し、ひとつの命令を与えた。マスターであるリュディス=オルスがアルディス3世の殺害を命じた場合、彼に致命傷を与えず生かすというものだ。
 そして第二の罠は川の流れの制御である。増水前、本陣崖下の川にタフトは細工を施していた。川底に岩を沈めることで増水時の水流を事前に調整したのだ。成人男性ほどの重さの物体が下流へと押し流されず、崖上から死角となる地点に流れ着くように……。
 土木技術も錬金術の一部門だ。そして"伯爵"はこの分野の技術に長けていた。
 かつてサン・ジェルマン村は彼がもたらした治水技術により、大水から村と麦畑を守っていた。その知識は弟子であるタフトにも受け継がれている。

「うまくいったな……」

 崖下に下りたタフトは、そこにアルディス3世の身体が横たわっているのを見つけた。
 すぐにタフトは彼に近づく。大丈夫、まだ息はある。が、瀕死だ。あのホムンクルスが急所を外したとはいえ、重傷であることには変わりない。そんな状態であの断崖から蹴落とされたのだ。もってあと数分といったところか。
 だが、その数分をタフトなら……サン・ジェルマン伯爵なら、いくらでも伸ばすことができる。彼は懐からエリクサーの入った瓶を取り出した。
 
 * * *