「あーっ!もう、ムカつく!」

 第1回の審問が終わり、監房に戻ってきたエリーナは、素の口調で怒りを発散させた。

「よってたかって、くだらない難癖ばかり!」
「ははは、ご苦労様でした」

 エリーナの怒りを受け止めたのは、近衛隊長のウィダスだ。2人の部下を伴い、面会人として監房を訪れていた。

「陛下の遠征中に、高等法院からの出頭命令。その時点でロクな事にならないとは思ってたけど……ってごめんなさい。前線からはるばる駆けつけてくれたあなたに、こんな話聞かせて」
「私は陛下の代理です。夫人の愚痴聞きも役目に含まれていますので、お気になさらず」
「まあ!」

 ウィダスは、軍人の中でも特に皇帝の信頼あつい男だ。歳も近く、皇太子時代から遊び相手だったと聞く。
 今も直接軍を率いて戦うより、陛下の特命で独自に動き回ることが多い。

「陛下からの差し入れです」

 彼の部下がワイン瓶の入った木箱をテーブルに置いた。エリーナが好きな銘柄だ。

「嬉しい! でも一人で頂くのも味気ないわ。ウィダス殿、ご一緒にいかが?」

 平民出身とは言え、エリーナは公爵夫人の位を持つ。監房も絨毯敷きの特別室をあてがわれていた。ここには使用人を呼び入れることができるし、面会者を交えての食事や飲酒も認められている。
 
「そう仰ると思いまして、グラスも2つ用意しています」

 ウィダスが取り出すグラスには、帝国近衛兵の部隊章と、フィルヴィーユ公爵家の紋章が、それぞれ砂吹き細工で刻印されている。
 
「では、食事も用意させましょう」

 給仕に夕食の用意を指示すると、すぐにパンとシチューがテーブルに並べられる。
 簡素な晩餐の用意が整うと、二人はそれぞれ紋章が入ったグラスを空中に掲げた。

「夫人が解放される日を願って」
「帝国の繁栄を願って」
「乾杯!」

 ガラスの縁が小気味良い音を立てた。ルビー色の液体を喉へと流し込む。エリーナは喉からお腹にかけてぼうっと熱くなるのを感じた。

「1ヶ月、ご辛抱ください」

 一気に飲み干した後、ウィダスが言う。

「先の会戦で勝利した我らは、"獅子の国"との停戦交渉に入りました。ひと月もすれば我が軍は帝都に凱旋します」
「それ程度なら耐えましょう」

 今日の審問ではっきりした。貴族たちはエリーナを追い詰めるような武器を持っていない。あの体たらくなら、ひと月くらいどうとでも凌げる。
 
「陛下は、留守中の帝都で起きた騒動にお怒りです。早く帰還し事態の安定化を図りたいと仰せでした」

 二人は恋人同士であると同時に、政治改革を志す同志でもある。帝国貴族と平民の格差に、若き皇帝は頭を悩ませていた。
 愛する人の力になりたいと願い、エリーナは政治の世界に進出した。そして皇帝の懐刀として国内外で一目置かれる存在になった。

「あなたが陛下の補佐を始めてから、守旧派貴族とは何度も衝突してきましたが……今度の審問会はややお粗末ですな」
「確たる証拠もないまま私に出頭命令を出したと言うことは、向こうも焦っているのでしょう」
「あなたが登用したと若手官僚たち。いわゆるフィルヴィーユ派の改革を、これ以上進ませたくない……と言ったところですか」
「ええ」

 陰謀渦巻く宮廷で戦い続け、あと少しというところまで来た。ここで敗れるわけにはいかない。
 
「ところで、このシチューは絶品ですな」

 不意にウィダスは話題を変えてきた。

「寵姫付きの宮廷料理人に出向してもらっています。良質な食事は心身を安定させる秘訣ですので」
「わかります。前線の食糧事情について私も頭を悩ませていますから。ほほ肉のシチューをこっそり食べたなんて知られたら、同僚に恨まれますよ」
「まあ。では、この茶番が終わったら軍の食料制度改正を真っ先に行いましょう」

 酒の席の冗談だが、半分は本気だ。
 軍需物資の横領は根深い問題なのだ。物資が貴族たちの領地を通るごとにその一部が彼らの懐へと消える。それを彼らは当然の権利と考えている。
 田畑で汗を流す民の税でまかない、戦地で血を流す兵たちに送るものだ。麦ひと粒ですら、連中に渡すわけにはいかない。
 なのに現実には、横領の濡れ衣をエリーナ着せる怪文書が出回る始末だ。

「とにかく……今の政治の不公正をなんとか……せねば」

 あれ?
 
 エリーナは戸惑う。
 舌が思うように動かない。それに気づいた直後、胸の奥から不快感が込み上げる。

「ゴホッ!?」

 鉄の味。口元からあふれる液体が、クロスに真っ赤なシミを作った。ワインの色でも、シチューの色でもない。もっと鮮やかでおぞましい鮮血の赤。

「これ、は……?」

 続けて強烈なめまい。
 毒。とっさにそう確信した。けどいつの間に?誰が?

「あなたの役目は終わった」
 
 友好的だった隊長の声色が、突如冷たいものに変わる。
 ワインに毒が盛られていた? いや違う。グラスだ。きっとフィルヴィーユの紋章が入ったグラスにだけ塗られていたのだ。
 でも何故?

「今日の審問会を見て確信しました。貴族だけでは、あなたを追い詰めることはできない」

 なに? なにを言っているの?

「ですから、私が参上しました。潔く退場なされよ」

 まって! どういうこと? これは誰の命令……?
 言いたいこと、訪ねたいことがものすごい勢いで頭の中を駆け巡る。
 けど、それらが声になることはなかった。喉を通り抜けた毒が、声帯を焼き潰してしまったらしい。

「あ……あ……」

 誰の命令か? そんなの明白だ。
 この男は皇帝直属の軍人だ。大貴族の差金なんかじゃない。彼が忠誠を誓うのは一人だけ。

 アルディス……さま……?
 
 疑う余地もない。この殺害方法を選べるのは、あの方しかいない。

 どうして?

 最愛の人だった。私も彼に愛されていると思っていた。なのに……。

 エリーナの身体がぐらりとバランスを崩し、椅子から転げ落ちた。ウィダスと彼の二人の部下が見下ろしている。その姿もすぐにぼやけていく。

「あとは貴族どもに任せておけ。行くぞ」

 ぼやけた人影が牢から立ち去っていく。ウィダスたちは死にゆくエリーナを置き去りにしようとしている。

「……あなたは、これでいいのか?」

 が、影のひとつがその場に留まった。

 だれ?

 知らない声。影はかがみ込み、エリーナの耳元で何かを語りかけてくる。

「恐らくは病死と発表される。そして貴族によって、国家を私物化した悪女として記録される」

 でしょうね。権力争いに敗れるとは、そういう事よ。

「それでいいのか? 民のために尽くしてきたあなたが、こんな形で終わるなんて。その屈辱に耐えられるか?」

 できるはずがない。
 改革はまた途中だ。ここで死ぬ訳にはいかない。私を陥れた者たち許す訳にはいかない。
 何より、愛する者に拒絶された悲しさ。裏切られた悔しさ。怒り。恨み。あらゆる負の感情が、涙と共に瞳から流れる。

 悔しい。ただただ、悔しい。人生最後に味わう感情がこんなドス黒いものになるなんて……。

「あなたに機会を与えよう」

 え?

 半開きになった口に何かが注がれてきた。無味無臭の液体が、喉奥へと流れていく。なに、これ?

 視界は暗いままだ。声も出せず、身体ももう動かない。

 やがて話しかける声も途切れ、闇と静寂だけがエリーナの世界となった。

 * * *