「あ、いたいた。やっぱりここで、ふてくされていたのね?」
岩の上に寝そべっていたタフトは、その声を聞いて飛び跳ねるように起き上がった。洗濯かごを抱えた女性が、こちらを見上げている。
「ヴェル……」
タフト心臓を高鳴らせながら、岩から飛び降りた。
「聞いたわよ~、伯爵と喧嘩したんですってね?」
いたずらっぽく言うヴェルの軽やかな表情。やっぱりきれいだ。
ヴェルは3年前、この村にやってきた頃からさらに美しくなっていた。村の独身男たちは全員、ヴェルに恋しているほどだ。タフトもその一人である。というか、自分こそが一番最初にヴェルのことを好きになったんだという自負すらあった。
あの日、"伯爵"の旧友であるエウランという男は、3人の兄妹を連れてきた。ヴェルはその中の2番目の子だ。エウランは"伯爵"の家の隣に同じくらいの大きさの小屋を建てて、4人でそこに住み着いた。
当然村人たちは、最初このよそ者たちを警戒した。
だがヴェルはとても社交的な少女で、村の女達の集まりに積極的に顔を出し、洗濯や針仕事を手伝うことでおばさん連中に気に入られていった。
それがきっかけとなり、兄のルディや妹のリーラも村人たちに受け入れられ、今では3人ともすっかり村に馴染んでいる。
「珍しいじゃない、あなたが"伯爵"に口ごたえするなんて」
「別に……あのオッサンが話を聞いてくれないのが悪いんだ」
都で本格的に錬金術の勉強をしたい。そう"伯爵"に告げた。
以前から考えていたことだ。"伯爵"の元で勉強しているうちに、錬金術という学問そのものに魅せられていった。だから、帝都でちゃんとした修行を積み、一人前の学者として"伯爵"の手伝いをしたいと考えたのだ。
この村に住み着いて以来、"伯爵"は一人で研究を続けてきた。それを手伝っていたタフトは、しばしば彼がこの村での研究に限界を覚えていることを、感じ取っていた。手持ちの蔵書には書かれていないこと。高名な錬金術師たちの最新研究。"伯爵"は、そういったものを欲しがる時がある。
ならば自分が帝都に行き、それらを手に入れよう。そう考えたのだ。
「都に行きたいなんて言ったんでしょ? それは、あの人怒るわよ」
"伯爵"の都嫌いはヴェルもよく知っている。
もちろんタフトだって、そのことには十分配慮していた。だから、できるだけ自然に話を切り出せるよう、前々からタイミングを伺っていたのだ。そして今日、その話をした。
『ふざけるんじゃあない! お前はこの村で暮らせ、それがお前のためだ!』
帰ってきたのはそんな言葉だった。それまで"伯爵"はタフトの人生を縛り付けるような言葉を投げたことは一度もなかった。畑仕事が性に合わないタフトを見て、狩猟道具づくりを手伝ってくれた。実験の助手だって一度も強制したことはなく、あくまでタフトがしたいようにさせてくれた。
なのに、今回に限っては「それがお前のため」ときた。
むしろタフトは"伯爵"のためを思えばこそ相談したのに、そんな言葉で拒絶されるのは心外だった。
「アンタ、帝都で錬金術の勉強をしたいって言ったらしいわね。それって本気?」
ヴェルの後ろからもう一人の少女が近づいてきた。この生意気な口調は、ヴェルの妹リーラだ。タフトと同い年の勝ち気な少女で、こちらも姉に負けず劣らず美しい。が、その気の強さゆえに、ヴェルに対するような憧れの感情を彼女には抱かなかった。むしろ、悪友やケンカ友達のようなノリが近い。
「なんだよリーラ、文句あるのかよ」
「別に。ただアンタってどこか抜けてるからね。都行っても落ちぶれるのがオチよ。"伯爵"もそれがわかってるから反対したんじゃないの?」
「ああ? なんだと?」
「何よ、やる気?」
「ふたりともやめないか」
タフトとリーラが視線に火花を散らし合っていると、さらにもう一人の声が近づいてくる。ヴェルとリーラの兄、ルディだ。
「兄さん、どうしてここへ?」
「ちょっとエウランに話があってね」
物腰の柔らかな三兄妹の長男は、ある意味では今や一番村に馴染んでいるかもしれない。というのも、この春に所帯を持ったのだ。しかもその相手が、彼より7歳年上で未亡人のティーラだったから、村中が大騒ぎとなった。
兄妹の保護者でもあったエウランは猛反対していたのだが、"伯爵"がそれを取りなし、二人とも真剣なことを確認し、盛大な式をあげた。
終始仏頂面だったエウランも、新郎新婦が皆の前で愛の宣誓をしたときには、大粒の涙をこぼしたものだった。
「それと今夜、ティーラが皆を食事に誘いたいらしんだけど、どうかな?」
「ティーラさんが? 行く行く!」
タフトとの視線のぶつけ合いなど打ち切って、リーラがはしゃぎだした。
「ティーラさんのシチュー大好きなのよね。アタシもあの味を真似したいけど、上手く行かなくって……」
「なら、コツをしっかりと聞いてみるんだな」
ルディはリーラの頭を撫でた。
「私も言っていいのかしら、兄さん?」
ヴェルが兄に尋ねる。
「もちろんさ。ヴェルとリーラ、それにエウランを招きたいってのがティーラの願いなんだ」
「嬉しい。ならお呼ばれするわね」
兄妹の仲睦まじい様子に、ふとタフトは寂しさのようなものを覚える。ときどき、この三兄妹の間には割って入ることの出来ない不思議な空気が流れることがある。それは3人の仲の良さからくるものではあるが、同時にこの3人が本当にいるべきはこんな田舎の小さな村なんかじゃないのでは、という思いも抱かせるのだ。
「ところでタフト、話は聞いたよ」
複雑な思いで3人を見守っていると、ふとルディがタフトに声をかけた。多分、ふたりの妹と同じ用件だろう。
「この村は穏やかでとてもいいところだ。僕もむやみに外に出る必要はないと思う」
「なんだよ、ルディも"伯爵"の味方ってわけか?」
「いや、あくまで僕個人の思いだ。タフトに何かを強制すべきじゃないと思っているよ」
「え?」
「だから、一度拒絶されたくらいで腐らず、粘り強く"伯爵"を説得すればいいと思うよ。それが本当にタフトのやりたいことなら、僕も協力する」
「ルディ……」
都への憧れる一番の理由はもちろん錬金術だ。そこに偽りはない。
が、実は"伯爵"にも話さなかった別の理由がある。それはこの三兄妹だ。
ヴェルたちは何も言わないが、彼女たちが帝都からやってきたのは一目瞭然だ。今では日に焼けて、この村の住人らしさが出てきたとはいえ、根本的に異なる存在だ。
つい今しがた、タフトが感じた寂しさのようなものも、そんな彼女たちとの違いからくるものかもしれない。
どんな理由で帝都を離れ、この村にやってきたかは分からないが、本当の居場所はここではないのではないかと、そんなことをタフトは思っている。
そして、いつか彼女たちは忽然とこの村から姿を消し、帝都へ戻ってしまうのではないか。そんな恐怖も感じていた。
そうならないためにも、いつまでもヴェルたちと一緒にいるためにも、都を知る必要がある。それがタフトが出した結論だ。
都を知れば、自分もヴェルにふさわしい男になれるのではないか……そんな子供じみた愚かしいことを、この頃のタフトは考えていたのだった。
岩の上に寝そべっていたタフトは、その声を聞いて飛び跳ねるように起き上がった。洗濯かごを抱えた女性が、こちらを見上げている。
「ヴェル……」
タフト心臓を高鳴らせながら、岩から飛び降りた。
「聞いたわよ~、伯爵と喧嘩したんですってね?」
いたずらっぽく言うヴェルの軽やかな表情。やっぱりきれいだ。
ヴェルは3年前、この村にやってきた頃からさらに美しくなっていた。村の独身男たちは全員、ヴェルに恋しているほどだ。タフトもその一人である。というか、自分こそが一番最初にヴェルのことを好きになったんだという自負すらあった。
あの日、"伯爵"の旧友であるエウランという男は、3人の兄妹を連れてきた。ヴェルはその中の2番目の子だ。エウランは"伯爵"の家の隣に同じくらいの大きさの小屋を建てて、4人でそこに住み着いた。
当然村人たちは、最初このよそ者たちを警戒した。
だがヴェルはとても社交的な少女で、村の女達の集まりに積極的に顔を出し、洗濯や針仕事を手伝うことでおばさん連中に気に入られていった。
それがきっかけとなり、兄のルディや妹のリーラも村人たちに受け入れられ、今では3人ともすっかり村に馴染んでいる。
「珍しいじゃない、あなたが"伯爵"に口ごたえするなんて」
「別に……あのオッサンが話を聞いてくれないのが悪いんだ」
都で本格的に錬金術の勉強をしたい。そう"伯爵"に告げた。
以前から考えていたことだ。"伯爵"の元で勉強しているうちに、錬金術という学問そのものに魅せられていった。だから、帝都でちゃんとした修行を積み、一人前の学者として"伯爵"の手伝いをしたいと考えたのだ。
この村に住み着いて以来、"伯爵"は一人で研究を続けてきた。それを手伝っていたタフトは、しばしば彼がこの村での研究に限界を覚えていることを、感じ取っていた。手持ちの蔵書には書かれていないこと。高名な錬金術師たちの最新研究。"伯爵"は、そういったものを欲しがる時がある。
ならば自分が帝都に行き、それらを手に入れよう。そう考えたのだ。
「都に行きたいなんて言ったんでしょ? それは、あの人怒るわよ」
"伯爵"の都嫌いはヴェルもよく知っている。
もちろんタフトだって、そのことには十分配慮していた。だから、できるだけ自然に話を切り出せるよう、前々からタイミングを伺っていたのだ。そして今日、その話をした。
『ふざけるんじゃあない! お前はこの村で暮らせ、それがお前のためだ!』
帰ってきたのはそんな言葉だった。それまで"伯爵"はタフトの人生を縛り付けるような言葉を投げたことは一度もなかった。畑仕事が性に合わないタフトを見て、狩猟道具づくりを手伝ってくれた。実験の助手だって一度も強制したことはなく、あくまでタフトがしたいようにさせてくれた。
なのに、今回に限っては「それがお前のため」ときた。
むしろタフトは"伯爵"のためを思えばこそ相談したのに、そんな言葉で拒絶されるのは心外だった。
「アンタ、帝都で錬金術の勉強をしたいって言ったらしいわね。それって本気?」
ヴェルの後ろからもう一人の少女が近づいてきた。この生意気な口調は、ヴェルの妹リーラだ。タフトと同い年の勝ち気な少女で、こちらも姉に負けず劣らず美しい。が、その気の強さゆえに、ヴェルに対するような憧れの感情を彼女には抱かなかった。むしろ、悪友やケンカ友達のようなノリが近い。
「なんだよリーラ、文句あるのかよ」
「別に。ただアンタってどこか抜けてるからね。都行っても落ちぶれるのがオチよ。"伯爵"もそれがわかってるから反対したんじゃないの?」
「ああ? なんだと?」
「何よ、やる気?」
「ふたりともやめないか」
タフトとリーラが視線に火花を散らし合っていると、さらにもう一人の声が近づいてくる。ヴェルとリーラの兄、ルディだ。
「兄さん、どうしてここへ?」
「ちょっとエウランに話があってね」
物腰の柔らかな三兄妹の長男は、ある意味では今や一番村に馴染んでいるかもしれない。というのも、この春に所帯を持ったのだ。しかもその相手が、彼より7歳年上で未亡人のティーラだったから、村中が大騒ぎとなった。
兄妹の保護者でもあったエウランは猛反対していたのだが、"伯爵"がそれを取りなし、二人とも真剣なことを確認し、盛大な式をあげた。
終始仏頂面だったエウランも、新郎新婦が皆の前で愛の宣誓をしたときには、大粒の涙をこぼしたものだった。
「それと今夜、ティーラが皆を食事に誘いたいらしんだけど、どうかな?」
「ティーラさんが? 行く行く!」
タフトとの視線のぶつけ合いなど打ち切って、リーラがはしゃぎだした。
「ティーラさんのシチュー大好きなのよね。アタシもあの味を真似したいけど、上手く行かなくって……」
「なら、コツをしっかりと聞いてみるんだな」
ルディはリーラの頭を撫でた。
「私も言っていいのかしら、兄さん?」
ヴェルが兄に尋ねる。
「もちろんさ。ヴェルとリーラ、それにエウランを招きたいってのがティーラの願いなんだ」
「嬉しい。ならお呼ばれするわね」
兄妹の仲睦まじい様子に、ふとタフトは寂しさのようなものを覚える。ときどき、この三兄妹の間には割って入ることの出来ない不思議な空気が流れることがある。それは3人の仲の良さからくるものではあるが、同時にこの3人が本当にいるべきはこんな田舎の小さな村なんかじゃないのでは、という思いも抱かせるのだ。
「ところでタフト、話は聞いたよ」
複雑な思いで3人を見守っていると、ふとルディがタフトに声をかけた。多分、ふたりの妹と同じ用件だろう。
「この村は穏やかでとてもいいところだ。僕もむやみに外に出る必要はないと思う」
「なんだよ、ルディも"伯爵"の味方ってわけか?」
「いや、あくまで僕個人の思いだ。タフトに何かを強制すべきじゃないと思っているよ」
「え?」
「だから、一度拒絶されたくらいで腐らず、粘り強く"伯爵"を説得すればいいと思うよ。それが本当にタフトのやりたいことなら、僕も協力する」
「ルディ……」
都への憧れる一番の理由はもちろん錬金術だ。そこに偽りはない。
が、実は"伯爵"にも話さなかった別の理由がある。それはこの三兄妹だ。
ヴェルたちは何も言わないが、彼女たちが帝都からやってきたのは一目瞭然だ。今では日に焼けて、この村の住人らしさが出てきたとはいえ、根本的に異なる存在だ。
つい今しがた、タフトが感じた寂しさのようなものも、そんな彼女たちとの違いからくるものかもしれない。
どんな理由で帝都を離れ、この村にやってきたかは分からないが、本当の居場所はここではないのではないかと、そんなことをタフトは思っている。
そして、いつか彼女たちは忽然とこの村から姿を消し、帝都へ戻ってしまうのではないか。そんな恐怖も感じていた。
そうならないためにも、いつまでもヴェルたちと一緒にいるためにも、都を知る必要がある。それがタフトが出した結論だ。
都を知れば、自分もヴェルにふさわしい男になれるのではないか……そんな子供じみた愚かしいことを、この頃のタフトは考えていたのだった。