ついに気球は尖塔に取り付いた。
 最上階の窓は、操縦座のすぐ目の前にある。手を伸ばせば、その人物と触れ合うことができるほどの近さだった。

「……」

 アンナは口を開こうとしたが、不意に言葉が出てこなくなってしまった。
 どう話しかけようか、前々から決めていたはずなのに、それらがすっかり消え失せてしまっている。

「ええと……」
「"百合の帝国"皇帝付き顧問アンナ・ディ・グレアン閣下ですな」

 口ごもるアンナよりも先にサン・ジェルマンが言った。公人としてのアンナの呼び名だった。

「……はい。サン・ジェルマン伯爵、でございますね?」
「ええ」

 対するアンナも、あくまで帝国の顧問としての姿勢で臨んだ。が、錬金術師の名を呼んだきり、二の句が継げずにいる。
 アンナは焦燥に駆られた。時間がない。この人の身柄を確保し、すぐに離脱しないと。すでに眼下では多くの人間が騒いでいる。そのうちの何人かは、すぐこの塔を登ってくるだろう。早く動かなくては……。
 が、どうしても心の中は抑える事ができない。この人には尋ねたい事も言いたい事も沢山ある。
 なのに、それらは一切出てこず、ただただ吹き荒れる感情の竜巻が胸の中で暴れていた。

「……駄目だな。冷静でいようと思ったが、どうしてもそれは出来ない」
「え?」

 窓に立つ男はそう言った。

「自らの手で人生を終えようとした矢先だったのに……お前の顔を見たら……決意が、揺らいでしまうじゃないか……」

 彼の言葉の後半は、声はうわずり、語尾がかすかに震えていた。
 見ると、彼は両目大量の涙をたたえている。西は傾いた陽光が、その瞳のゆらめきを照らしていた。

「会いたかった……エリーナ。我が娘よ」
「!?」

 アンナは、いやエリーナは息を飲み込んだ。
 その名を彼の口から聞いた習慣、ぼたぼたと頬を大量の液体が流れていくのを感じる。

「父さん……私も……あ、あ……会いたかったです」
「エリーナ!エリーナ!」

 タフトは窓のへりを蹴り、気球は飛び移った。そして、娘の体を抱きしめて強く、強く力を込めた。

「許してほしい。私のわがままでお前に必要以上の苦悩を与えてしまった」
「父さん……そんな事は……そんな事はございません!!」

 そこには、帝国の実質的な最高権力者も稀代の第錬金術師の姿もない。ただの職人の父娘がいるだけだった。

「エリーナ……? どういう事です?その名前はフィルヴィーユ侯爵夫人の……」

 事情を全く知らぬシュルイーズが首をかしげる。すると、横にいるゼーゲンが言った。

「余計な事に気を回すな、博士。サン・ジェルマン伯の身柄は確保した。ただちに離脱する!」

 ゼーゲンとて、シュルイーズと同程度の情報しか持ち合わせていない。が、彼女はその疑問を解消することよりも先にやるべき事があるのを知っていた。

「動くな!!」

 塔の中。タフトがいた部屋の扉が勢いよく開いた。
 この城にいる数少ない衛兵たちがなだれ込む。いずれも銃で武装しており、それを気球に向けて突きつけていた。

「上昇しろ博士!」

 言うと同時にゼーゲンは操縦座から飛び降りた。

「ゼーゲン殿?」
「気球に穴を開けられたらまずい。すぐに戻る!」
「……はい!」

 シュルイーズは、ゼーゲンの言葉を信じ、気球の火力調整弁をひねった。ゆっくりと巨大な麻布の球体が上昇を開始する。

「うおおおお!!」

 ゼーゲンはその身体能力を最大限に発揮し、瞬く間に兵士たちを一掃した。そしてすぐに窓から身体を出すと、足腰のバネを最大限に使って三角形の屋根に跳躍する。

「ゼーゲン殿!」

 そのままおそるべき脚力をもって、屋根の上を疾走するゼーゲン。そして、浮上していく気球に向かって飛翔した。