「……それは、何なのですか?」

 アンナはシュルイーズに尋ねる。異能の反転。シュルイーズの口ぶりからすると異能を応用した何かのようだが……。

「閣下、説明するよりも実際に体感するのが早いかと思います。ゼーゲン殿、そろそろ射程に入るのではないか?」
「確かにこんな所だろうな。姿は見えない方がいい、あそこに入ろう」

 3人は左手にあった茂みへと移動する。数本の樹木の下に草や低木が生い茂り、身を隠すにはちょうど良い場所だった。

「さて、顧問殿。これからあなた様の心身に強い負担がかかることになります」
「へ?」
「恐らく立つ事もままならない状態になると思います。けど、それは一時的な事。すぐに元に戻りますゆえ、どうか何が起きようとお気をしっかりとお保ちください」
「そ、それはどういう……」

 突然の、そして意味不明なゼーゲンの警告に、アンナは戸惑う。

「おやおや、私の事は気遣ってくれないのですか、ゼーゲン殿」
「発案者はあなただ博士。知ったことか」

 ゼーゲンは抑揚のない声でそう言うと、シュルイーズに背中を向けた。そして2、3歩ほど動いて2人から距離を置くと、深呼吸を始める。

「では、いきます」

 息を整え終わったゼーゲンは、落ち着いた声で言う。そして。

「ハッ!」

 短く激しいかけ声。
 その瞬間、アンナの全身の肌が粟立った。

「え……?」

 ゼーゲンの予言通り足がガクガクと震え、力が抜ける。アンナは膝を折ってその場にへたり込んだ。
 それとほぼ同時に、頭上でけたたましい音がした。木々に止まっていた鳥が一斉に飛び立ったのだ。
 そして背後では馬のいななき。アンナたちが乗ってきた3頭が竿立ちになって暴れる。

「続けてあと3度ほどいきます!」

 ゼーゲンが言う。
 そして、得体の知れない感情の津波がアンナの心の中に巻き起こる。
 馬たちの騒ぎも一層大きくなる。

「ぐ……かはっ……!?」

 それはアンナが今まで味わったことのない感覚だった。背筋が凍りつき、全身をキリキリと締め付けられる。手足を動かすどころか、まばたきも、呼吸でさえも出来ない。

 (な、何これ……?)
 
 得体の知れない感覚だが、その奥に不可思議な確信があった。

(殺される……!)

 一体誰に? ゼーゲンにだ。
 そんな事はあり得ないと、頭ではわかっている。が、そんな理解を吹き飛ばしてしまうほどの強烈な殺意が、このホムンクルスの女性から放たれていた。

 合計で4回の恐怖心の波。それが終わると、周囲を異様な静寂が包んでいた。

「失礼しました。もう大丈夫です」

 ゼーゲンがうずくまるアンナに手を差し伸べてきた。
 恐る恐る顔を上げる。ゼーゲンは驚くほど穏やかな表情をしており、笑みすらたたえていた。

「あ、ありがとう」

 アンナはゼーゲンの手を掴んで、縮こまった全身を引き伸ばすようにして立ち上がった。
 先ほどまで感じていた殺意や恐怖心は、綺麗に消え去っている。なんなのだ今のは?

「さて、博士……何だその体たらくは」

 呆れたようなゼーゲンの声。見るとシュルイーズはぺたりと座り込み全身をわなわなと震わせていた。

「あなたには何が起きるかわかっていたはずだが?」
「は、はは……わかっていてなお、どうする事もできない事もあるのですよ」
「全くだらしのない。顧問殿はもう立ち上がってるぞ?」
「……それで、気球はどうなりました」

 話をそらすようにシュルイーズは尋ねる。

「移動を始めた。それもかなりの速さだ」

 ゼーゲンは答える。樹木の枝に阻まれて空は見えない。おそらく"領域明察"の異能を用いて気球の状態を察知したのだろう。
 そう。それこそが彼女の異能のはずだ。先ほどのような得体の知れない殺意をぶつける力などではない。

「ゼーゲン殿の剥き出しの敵意をぶつけられ、警戒しているのでしょう。恐らくは基地へ戻るはず。これで敵は砲撃できません」
「では!?」
「はい。第6軍団は助かります」
「よかった……」

 アンナは胸を撫で下ろす。友軍の死を前提とした策を選んだのはアンナ本人だ。けど、だからといって自分の選択に後ろめたさが無かったわけではない。
 見殺しにする将兵の数がこれ以上増えないのであれば、ありがたい限りだ。

「あとは気球を追うだけだ。ぐずぐずしていては、また距離を離されてしまう。急ぎましょう!」

 ゼーゲンは繋がれている馬の方へと向かった。先ほどまで恐怖心にかられ暴れていた3頭の馬は、何事もなかったかのように落ち着き払っている。

「ちょ、ちょっと待ってゼーゲン殿」

 シュルイーズが懇願するようなか弱い声でゼーゲンを止める。

「なんだ、博士?」
「す、少しだけお時間を。こ、腰が抜けまして……」
「……置いていきましょう、顧問殿」

 ゼーゲンはにべもなく言い放った。

 * * *