「ここにくるのも久しぶりね」
女帝は、アンナに手を引かれながら温室の中へと足を踏み入れた。昨年の冷夏以来、ヴィスタネージュ近郊の気温は平年を下回る日が続いているが、ガラス張りのこの施設の中は、汗ばむほどの暖かさが維持されている。
その空気は、アンナと女帝の2人に、出会った時のことを思い出させた。
「あの時は確か、偶然ここに居合わせたように振る舞っていたけれど、本当は私に会うために画策していたのでしょう?」
「はい。その通りです」
「あら、あっさり認めるのね?」
「今さら隠し立てしたところで、意味のないことですので」
当時、まだグレアン家を乗っ取ったばかりで、クロイス派に対抗できるほどの力を有していなかったアンナは、宮廷で孤立している皇妃に目をつけた。
そしてマルムゼの異能を使って、この温室まで彼女を連れ出したのだ。
「感謝しています」
女帝は言う。
「あの頃の私は、なんの希望を抱くことも許されなかった。貴族たちの悪意から身を守るため、自室に篭りきりだった日々。自分が絶望していたことにすら気づかないほど、あの頃の私は追い詰められていました」
アンナの手を握る力がほのかに強まる。それが女帝の合図であることを、アンナは知っている。ここ最近は使う回数も減っていた"認識共有"の異能を、アンナは久しぶりに発動させた。
「そう。この景色。色鮮やかな異国の花々が咲き乱れる様子……」
女帝の声音にうっとりとした甘やかさが混じる。アンナの目を通した世界が今、女帝の光を失った目に投影されているのだ。
魔力を使い、世界の輪郭を視認できるようになった今も、彼女がこれほど克明に色と形を認識できるのは、アンナが異能を使った時のみである。
「あなたがこの景色を見せてくれて、ようやく私は、いかに窮屈な生き方を強いられているかを実感したの」
その後、幾たびかアンナは女帝の危機を救った。そして女帝もそれに報い、アンナに力を与えた。
「でも不思議ね……あなたが窮屈な世界から私を救い出してくれたはずなのに……その先に待っていた世界は、より窮屈なものになってしまったかもしれないわ」
「……君主とは、孤高の存在。国の頂に立つ唯一の王であるが故、その苦しみを真に誰かと分かち合うことはできません。であるからこそ、窮屈に感じることもあるでしょう」
「誰か、というのはあなたの事? それとも別の誰かかしら?」
「……陛下以外のすべての人間、と申しておきましょう」
2人はそんなやりとりを、お互いの顔を見ないままに続けていた。
同じ視覚情報を共有している故だ。アンナの視界を通した女帝は、当然アンナの顔を見ることができない。一方アンナも、女帝が違和感なく感覚を共有できるよう、意図的に女帝の顔を視界に入れないようにしていた。
決して重ならないお互いの視線。これまで彼女に異能を使っている時、そんなことを気にしたことはなかった。が、今はそれが、自分と女帝の心のすれ違いを象徴しているような気がしてくる。
「……それで、用件というのは?」
不意に女帝が話題を切り替えた。
彼女自らが5分という時間を設定した。長々と関係のない話を続けるわけにもいかないのだ。
「は。私は明日、ルアベーズに出立します」
「ルアベーズ? 確か反乱討伐軍を派遣するという報告は受けているけど……」
ルアベーズ伯爵は当初、自領で起きた反乱は自ら鎮圧すると言って来た。しかし彼の私兵隊はことごとく敗れ、ついにはアンナに泣きつき、正規軍の出動を要請してきたのだ。
「まさかあなたが軍の指揮を?」
「いえ、戦いのことは専門家である将軍たちにお任せします。が、現地の実態を私が知っておく必要があると考えたのです」
「確かに、真珠の間でも度重なる反乱に、あなたを責任を追及する声があるわ。その声をしずめるためにも、現地に行くのは良いかもね」
女帝の言葉はどこか他人事のような響きがあった。
「その事に関連して、陛下にお願いしたい事があるのです」
「あなたが私にお願い?」
「はい。どうか私の留守中、無用な遊興はお控え下さいますよう」
「なんですって?」
途端に女帝の顔が険しくなった。
昨年の大凶作と、立て続けに起きる反乱の影響が経済に現れ始めている。そんな中で女帝の浪費の噂が目立つようになっていた。
革命派系の新聞や、旧クロイス派がばら撒く政治パンフレットが噂の出所だが、事実として真珠の間グループによる派手な遊びが増えている。
真珠の間には連日宝石商や仕立て屋が出入りしており、夜は賭けカードが興じられているという。そしてほとんど1日おきのペースで舞踏会や晩餐会が行われ、週末には南苑の競馬場や劇場で華美な興行が行われている。
「あれは日頃私を補佐してくれる皆へのねぎらいです。真珠の間の皆がいなければ、宮廷の行事も、諸国要人のもてなしもできない。それはあなたもご存知でしょう?」
「もちろんです。それらは本来、私の職務であり、彼女たちに助けられていることは、私自身が最もよく存じております」
顧問という職務は、本来女帝の名代として、宮廷で行われるあらゆる行事の差配するためのものだ。しかしアンナは今、政務に専念するためにポルトレイエ女官長らにその役を代行してもらっている立場である。
「わかっていてなお、彼女たちの遊びを禁じろと言うのね?」
「恐れながら……陛下は今回の反乱の原因をご存知ですか?」
「反乱の原因?」
急に話が飛んで、女帝は戸惑いを見せる。
「ルアベーズ伯爵が自領の状況を理解しないままに税の引き上げを行おうとしたことが全ての発端です」
「それは知っています。反乱が落ち着いたら、伯爵には相応の処分を下す必要があるでしょう」
「ではなぜ、伯爵が無理な増税をしようとしたとお思いですか?」
「え?」
「彼は家格や自領の収入に見合わぬ派手な催しを幾度も繰り返していました。全ては陛下と真珠の間グループに気に入られ、自らも真珠の間に入ることを目指して、です」
「それは……」
「お分かりですか? クロイス派が倒れて半年。早くも新たな権威が現れ、国を蝕み始めているのです」
「……」
あれほど苦心してクロイス派の専横をやめさせたのだ。にも関わらず、真珠の間の面々が台頭し、彼らの気分で政治が動くようになってはならない。
「今ここで流れを断ち切らなければ、私どもがやって来たことは全て無駄に……」
「やめて!」
女帝は叫んだ。
「……あなたに時間を与えたのは、政務の報告を聞くためよ。お説教は求めていない!」
「……」
その言葉に、アンナは何も返せなかった。
確かに女帝にとっては耳の痛い諫言だろう。先ほどアンナが言った通り、君主とは孤独な存在だ。真珠の間は、そんな孤独を慰めてくれる貴重な存在でもある。
しかしだからといって、駄々っ子のようにアンナの言葉を拒絶するのは、君主のありようとは言えない。
そんなマリアン=ルーヌの姿は見たくなかった。
「……ねえ、アンナ。あなたも真珠の間に入ることはできないの?」
しばらくの沈黙の後、女帝は尋ねてきた。
「あなたがグリーナたちとうまくいっていないことは知ってる。でも私は、大切な友人同士が敵対するのを見たくないわ。あなたたちが手を取り合えば、全ては解決するのではなくて?」
なるほど、あるいはそうかもしれない。
アンナが真珠の間に受け入れられて、彼女たちの遊興を監督する立場になれば、真珠の間が第二のクロイス公となる事は避けられるだろう。
「残念ながら……それは出来ません」
しかしそれは、この宮廷の裏に破滅を望むものがいなければの話だ。黄金帝の血族に対する復讐者。ここ数年の帝国に起きたあらゆる凶事の元凶であるその者は、恐らく真珠の間にいる。
その存在を排除せぬ限り、アンナは女帝の友人たちと距離を取らざるを得なかった。
「私にはそのつもりはありませんし、恐らく女官長たちも同じ思いでしょう。陛下のお心を乱している事、大変不甲斐なく感じておりますが、何卒ご容赦を」
「……そう」
女帝は残念そうに頷くと、繋がれていたアンナの手を振りほどいた。
「陛下……」
「もうとっくに5分は過ぎているわ。帰りはグリーナに手を引いてもらいます。あなたは明日の出立に備え、下がりなさい」
そして女帝はあんなに背中を向けた。もはやこれまでと思ったアンナも、黙って彼女に一礼する。しかし温室を出る直前、女帝は再び口を開いた。
「……遊興のことは考えておくわ。私の友人たちがよくない方向へ進まないよう、私なりに手を尽くします」
「陛下……! ありがとうございます」
「戦地ではくれぐれも気をつけて」
「かしこまりました。陛下、行って参ります」
女帝も、そして先々を見通し続けていたアンナも、この時にはまだ予想だにしていなかった。しこの迷路温室でのひと時が、2人が主従として交わした最後の言葉になる事を……。
女帝は、アンナに手を引かれながら温室の中へと足を踏み入れた。昨年の冷夏以来、ヴィスタネージュ近郊の気温は平年を下回る日が続いているが、ガラス張りのこの施設の中は、汗ばむほどの暖かさが維持されている。
その空気は、アンナと女帝の2人に、出会った時のことを思い出させた。
「あの時は確か、偶然ここに居合わせたように振る舞っていたけれど、本当は私に会うために画策していたのでしょう?」
「はい。その通りです」
「あら、あっさり認めるのね?」
「今さら隠し立てしたところで、意味のないことですので」
当時、まだグレアン家を乗っ取ったばかりで、クロイス派に対抗できるほどの力を有していなかったアンナは、宮廷で孤立している皇妃に目をつけた。
そしてマルムゼの異能を使って、この温室まで彼女を連れ出したのだ。
「感謝しています」
女帝は言う。
「あの頃の私は、なんの希望を抱くことも許されなかった。貴族たちの悪意から身を守るため、自室に篭りきりだった日々。自分が絶望していたことにすら気づかないほど、あの頃の私は追い詰められていました」
アンナの手を握る力がほのかに強まる。それが女帝の合図であることを、アンナは知っている。ここ最近は使う回数も減っていた"認識共有"の異能を、アンナは久しぶりに発動させた。
「そう。この景色。色鮮やかな異国の花々が咲き乱れる様子……」
女帝の声音にうっとりとした甘やかさが混じる。アンナの目を通した世界が今、女帝の光を失った目に投影されているのだ。
魔力を使い、世界の輪郭を視認できるようになった今も、彼女がこれほど克明に色と形を認識できるのは、アンナが異能を使った時のみである。
「あなたがこの景色を見せてくれて、ようやく私は、いかに窮屈な生き方を強いられているかを実感したの」
その後、幾たびかアンナは女帝の危機を救った。そして女帝もそれに報い、アンナに力を与えた。
「でも不思議ね……あなたが窮屈な世界から私を救い出してくれたはずなのに……その先に待っていた世界は、より窮屈なものになってしまったかもしれないわ」
「……君主とは、孤高の存在。国の頂に立つ唯一の王であるが故、その苦しみを真に誰かと分かち合うことはできません。であるからこそ、窮屈に感じることもあるでしょう」
「誰か、というのはあなたの事? それとも別の誰かかしら?」
「……陛下以外のすべての人間、と申しておきましょう」
2人はそんなやりとりを、お互いの顔を見ないままに続けていた。
同じ視覚情報を共有している故だ。アンナの視界を通した女帝は、当然アンナの顔を見ることができない。一方アンナも、女帝が違和感なく感覚を共有できるよう、意図的に女帝の顔を視界に入れないようにしていた。
決して重ならないお互いの視線。これまで彼女に異能を使っている時、そんなことを気にしたことはなかった。が、今はそれが、自分と女帝の心のすれ違いを象徴しているような気がしてくる。
「……それで、用件というのは?」
不意に女帝が話題を切り替えた。
彼女自らが5分という時間を設定した。長々と関係のない話を続けるわけにもいかないのだ。
「は。私は明日、ルアベーズに出立します」
「ルアベーズ? 確か反乱討伐軍を派遣するという報告は受けているけど……」
ルアベーズ伯爵は当初、自領で起きた反乱は自ら鎮圧すると言って来た。しかし彼の私兵隊はことごとく敗れ、ついにはアンナに泣きつき、正規軍の出動を要請してきたのだ。
「まさかあなたが軍の指揮を?」
「いえ、戦いのことは専門家である将軍たちにお任せします。が、現地の実態を私が知っておく必要があると考えたのです」
「確かに、真珠の間でも度重なる反乱に、あなたを責任を追及する声があるわ。その声をしずめるためにも、現地に行くのは良いかもね」
女帝の言葉はどこか他人事のような響きがあった。
「その事に関連して、陛下にお願いしたい事があるのです」
「あなたが私にお願い?」
「はい。どうか私の留守中、無用な遊興はお控え下さいますよう」
「なんですって?」
途端に女帝の顔が険しくなった。
昨年の大凶作と、立て続けに起きる反乱の影響が経済に現れ始めている。そんな中で女帝の浪費の噂が目立つようになっていた。
革命派系の新聞や、旧クロイス派がばら撒く政治パンフレットが噂の出所だが、事実として真珠の間グループによる派手な遊びが増えている。
真珠の間には連日宝石商や仕立て屋が出入りしており、夜は賭けカードが興じられているという。そしてほとんど1日おきのペースで舞踏会や晩餐会が行われ、週末には南苑の競馬場や劇場で華美な興行が行われている。
「あれは日頃私を補佐してくれる皆へのねぎらいです。真珠の間の皆がいなければ、宮廷の行事も、諸国要人のもてなしもできない。それはあなたもご存知でしょう?」
「もちろんです。それらは本来、私の職務であり、彼女たちに助けられていることは、私自身が最もよく存じております」
顧問という職務は、本来女帝の名代として、宮廷で行われるあらゆる行事の差配するためのものだ。しかしアンナは今、政務に専念するためにポルトレイエ女官長らにその役を代行してもらっている立場である。
「わかっていてなお、彼女たちの遊びを禁じろと言うのね?」
「恐れながら……陛下は今回の反乱の原因をご存知ですか?」
「反乱の原因?」
急に話が飛んで、女帝は戸惑いを見せる。
「ルアベーズ伯爵が自領の状況を理解しないままに税の引き上げを行おうとしたことが全ての発端です」
「それは知っています。反乱が落ち着いたら、伯爵には相応の処分を下す必要があるでしょう」
「ではなぜ、伯爵が無理な増税をしようとしたとお思いですか?」
「え?」
「彼は家格や自領の収入に見合わぬ派手な催しを幾度も繰り返していました。全ては陛下と真珠の間グループに気に入られ、自らも真珠の間に入ることを目指して、です」
「それは……」
「お分かりですか? クロイス派が倒れて半年。早くも新たな権威が現れ、国を蝕み始めているのです」
「……」
あれほど苦心してクロイス派の専横をやめさせたのだ。にも関わらず、真珠の間の面々が台頭し、彼らの気分で政治が動くようになってはならない。
「今ここで流れを断ち切らなければ、私どもがやって来たことは全て無駄に……」
「やめて!」
女帝は叫んだ。
「……あなたに時間を与えたのは、政務の報告を聞くためよ。お説教は求めていない!」
「……」
その言葉に、アンナは何も返せなかった。
確かに女帝にとっては耳の痛い諫言だろう。先ほどアンナが言った通り、君主とは孤独な存在だ。真珠の間は、そんな孤独を慰めてくれる貴重な存在でもある。
しかしだからといって、駄々っ子のようにアンナの言葉を拒絶するのは、君主のありようとは言えない。
そんなマリアン=ルーヌの姿は見たくなかった。
「……ねえ、アンナ。あなたも真珠の間に入ることはできないの?」
しばらくの沈黙の後、女帝は尋ねてきた。
「あなたがグリーナたちとうまくいっていないことは知ってる。でも私は、大切な友人同士が敵対するのを見たくないわ。あなたたちが手を取り合えば、全ては解決するのではなくて?」
なるほど、あるいはそうかもしれない。
アンナが真珠の間に受け入れられて、彼女たちの遊興を監督する立場になれば、真珠の間が第二のクロイス公となる事は避けられるだろう。
「残念ながら……それは出来ません」
しかしそれは、この宮廷の裏に破滅を望むものがいなければの話だ。黄金帝の血族に対する復讐者。ここ数年の帝国に起きたあらゆる凶事の元凶であるその者は、恐らく真珠の間にいる。
その存在を排除せぬ限り、アンナは女帝の友人たちと距離を取らざるを得なかった。
「私にはそのつもりはありませんし、恐らく女官長たちも同じ思いでしょう。陛下のお心を乱している事、大変不甲斐なく感じておりますが、何卒ご容赦を」
「……そう」
女帝は残念そうに頷くと、繋がれていたアンナの手を振りほどいた。
「陛下……」
「もうとっくに5分は過ぎているわ。帰りはグリーナに手を引いてもらいます。あなたは明日の出立に備え、下がりなさい」
そして女帝はあんなに背中を向けた。もはやこれまでと思ったアンナも、黙って彼女に一礼する。しかし温室を出る直前、女帝は再び口を開いた。
「……遊興のことは考えておくわ。私の友人たちがよくない方向へ進まないよう、私なりに手を尽くします」
「陛下……! ありがとうございます」
「戦地ではくれぐれも気をつけて」
「かしこまりました。陛下、行って参ります」
女帝も、そして先々を見通し続けていたアンナも、この時にはまだ予想だにしていなかった。しこの迷路温室でのひと時が、2人が主従として交わした最後の言葉になる事を……。