「ぶあっ!!」

 暗闇の中で男は目を覚ました。

「おはようございます、兄上」

 女の声がした。頭上では風に揺られた枝がガサガサと音を立てている。冷感を伴う夜の空気。おはようという言葉が似つかわしくない時刻のようだ。

「俺はどれくらい寝ていた?」
「10時間ほどでしょうか。すでに日付は変わっております」
「その時間で済んだということは、これは俺の身体だな」
「はい。万一のためにエリクサーを用意してましたが、魂をホムンクルスに移す必要はなかったです」
「そのホムンクルスの身体は?」
「兄上と同じ服を着せて黄金帝の別邸に。彼らはあれをウィダス子爵の遺体として回収したようです」
「そうか、よくやった」

 万一の際に自身の体のスペアとするよう、この宮殿の数カ所に、魂を入れていないホムンクルスの肉体を隠している。それらは全て、魔法を用いてウィダス子爵の姿に偽装していた。今回はそれが役立った。

「この肉体は持ち堪えてくれたか。ありがたい」

 女の手から淡い光が発せられ、それが男の胸部を照らし出している。
 あの高さから瓦礫の上に落下した、その時の打撲や骨折と、炎にさらされ続けたことによる火傷は、彼女の治癒の異能でほぼ完治していた。

「複数の魔法を使えるという兄上の優位性は保たれたままです。ホムンクルスが使える異能はひとつだけ。魂を移し替えれば、計画を変更せざるを得なかったでしょう」

 "認識変換"、"認識迷彩"、"感覚共有"、"領域明察"……。これらホムンクルスたちが持つ異能はこの男、リュディス7世が使う魔法をベースとしている。
 男は"認識変換"を使い、自らを顔に傷を持つ男ダ・フォーリス大尉に、妹を零落した名家の女ポルトレイエ夫人に仕立てあげた。
 そして"感覚共有"を気づかれない程度に用いながら、少しずつ女帝やグリージュス公爵の心に入り込み、彼女たちを籠絡する事に成功した。
 今日の政変では、"認識迷彩"を利用して軍を離脱。前もって仕込んでおいたクロイス私兵による狂言襲撃を鎮圧し、さらには"領域明察"で撃ち漏らしたグリージュス公の口封じに成功した。

 そこまでは完璧に事が進んでいたが、調子に乗りすぎた。目の上のこぶである顧問アンナとマルムゼも始末しようとしたが、一瞬の隙をつかれて奴らを討ち漏らしてしまったのだ。

「まさかあの2人が、あいつらだったなんてな……くくくっ……」

 この国の正統な後継者を名乗る男は笑う。
 簒奪者の子孫とその寵姫。4年前に確かに始末したはずだった。なのに奴らは生きていた。なぜか?

「やはり、サン・ジェルマンは俺たちを欺いている」

 我が正統な帝室に尽くしてくれた錬金術師。だが、30年ほど前から我々の意に反する行動が目立ち始めた。特にあの2人を生かしたことは大罪だ。
 もっとも、それも無理からぬことなのかもしれない。なにしろエリーナ・ディ・フィルヴィーユはあの男の……。

「兄上。確かに計画に支障は生じましたが、それ故に楽しみもできました」
「ほう?」
「あの女。顧問アンナは私と同じなのでしょう? プロトホムンクルス同士の殺し合い。これほど血が騒ぐ事がありましょうか」

 顧問アンナと同じ顔をした妹。認識変換を用いて、その素顔は隠しているが、被術者以外のものが見れば、双子のように見えるだろう。

「意外だな。お前が、そんな好戦的なことを言うとは」
「これまでの戦いは、兄上に多くを任せすぎたと反省しているのです。一筋縄ではいかなかぬ相手。ともに立ち向かう必要があるのではありませんか?」
「ああ、かもしれないな」
「今の私たちならばやれます。本気であの女と殺し合い、そして必ず勝利しましょう」

 暗闇に目が慣れてきた。揺れる枝と、星空の境界が明確になる。木の葉の影からのぞくわずかな隙間は、蓋を半開きにした宝石箱を思わせた。その宝の山の中に、ひときわ明るい星が輝く。

 それは、"百合の帝国"の帝室では、戦いに勝利する者の天上に輝くとされる、瑞兆の星だった。
 歴代皇帝の中には、この星が輝く夜に出陣し、勝利を収めた者が何人かいる。

 不測の事態はあれど、我々の未来は変わらない。真の帝の血を引く我々は必ず勝利するだろう。

 男はそう確信していた。

第III部 復讐完遂編 -完-