「だいぶ煙が出てきたな」

 ウィダスが言う。

「俺は魔法で肉体を強化できるが、あいにくホムンクルスではないのでね。そろそろ限界のようだ」

 マルムゼは満身創痍だった。利き腕を封じられてから、一方的に斬られ、殴られ、蹴られ……反撃どころか身体を動かすこともままならぬほど痛めつけられていたのだ。

「もう少しお前をいたぶり続けたかったが仕方ない。下にいるフィルヴィーユ夫人も始末しなければならないのでね」
「エ……リー……ナ」

 マルムゼは最愛の人のかつての名を口にする。

「最後だから言うが、俺はお前が大嫌いだったよ。お前が友情を口にするたびに反吐が出る思いだった」

 ウィダスの語調には、極めて純度の高い憎悪が含まれていた。

「呪わしい簒奪者の子孫のくせに、民を本気で案じるようなそぶりを見せやがって、何様だお前? 女が出来れば、多少は骨抜きになるかと思えば……2人で国政改革なんぞ始めやがった」

 ウィダスは、その高純度の憎しみをつま先に込めて、マルムゼの腹を蹴り上げた。

「ごはぁっ!」

 赤黒い血がマルムゼの口から溢れる。

「そんなもんは我が血族の知性が続いていればそもそも必要なかったのだ!貴様ら簒奪者と、それに加担した貴族どもがこの国を駄目にしたんだ!!」

 そして憎悪の男は、血まみれになったサーベルをマルムゼの首元に突きつけた。

「これは5年前のやり直し……だから同じセリフで締めくくってやるよ」

 切先を掲げ大きく振りかぶる。

「陛下、おさらば」

 ウィダスはマルムゼの首を目掛け勢いよくサーベルを振り下ろす。

「マルムゼ!!」

 サーベルがマルムゼの頭を断ち割ろうとするその寸前だった。
 声。
 そして不定形の何かがウィダスの身体を弾き飛ばした。

「ぐうっ!?」

 ウィダスは奥の壁に叩きつけられ、サーベルを取り落とす。

 なんだ今のは?
 直前まで死を覚悟していたマルムゼは顔を持ち上げた。
 ウィダスの身体が吹き飛ぶと同時に、マルムゼの顔にも何か冷たいものがかかっていた。炎と煙にさらされ続けた皮膚は、その何かを心地よく感じる。
 これは……水?

「シュルイーズ博士、あなたの作ったコレ相当の威力ではないか!」

 女性の声。マルムゼと同じ顔を持つ、"鷲の帝国"のホムンクルス、ゼーゲンだ。

「でしょう! 魔力を直接使用した試作放水銃! 水勢の調節ができず、家屋を吹き飛ばしてしまうため、消化用には使い物になりませんが…宮殿で爆発という報告を聞いて、持ってきた甲斐がありました!」

 ゼーゲンと一緒にいるのは錬金術師のシュルイーズ博士。どうしてこの2人がここに?

「マルムゼ! 大丈夫!?」

 その2人の陰から誰かが飛び出し、走り寄ってきた。

「なっ」
「お気をつけください、顧問殿!」

 いや、誰かなんて考えるまでもない。この声は……。

「エリーナ……」

 出てきたのは彼女の昔の名前だった。
 ちがう、今の彼女の名前はそうではない。
 わかっているはずなのに、過去の自分が、口を動かした。

「……はい。エリーナはここにおります、陛下!」

 そして彼女もまた、黒髪の腹心とは異なる呼称で彼を呼んだ。

「わた……しは……ゴフッ」

 喉を動かした拍子に、口からまた血が溢れだす。肺をやられているのかもしれない。

「喋らないで! どうか喋らないでください」

 アンナは言う。

「ちょうどいい。探す手間が省けたというもの」

 放水銃に弾き飛ばされたウィダスが、ゆっくりと起き上がった。
 墓穴から這い出す幽鬼のようだと、マルムゼは思った。

「はは……嘘だろ。この放水銃、試験では木造家屋を吹き飛ばしたんだぞ……。生身の人間がこの距離で食らえば、普通起き上がれないだろ……」

 シュルイーズが驚愕の視線を向ける。

「簡単だ博士、この男が普通ではないという事です」

 ゼーゲンは、担いでいたタンクと放水銃を下ろし、左手で持ち続けていた槍を構えた。

「ふ、その距離から俺に届くか?」
「……」

 ゼーゲンやシュルイーズは、ウィダスから10歩ほどの距離にいる。そして、アンナとマルムゼは……4歩といったところか。

「考えなしに飛び込んでくるなどと、らしくないミスをしたな顧問……いや、フィルヴィーユ夫人」

 ウィダスはサーベルを拾い上げる。

「いずれにせよ焼きが回った。男のために自ら命を捨てにくるなど、お前らしくない愚行だ」
「仕方ありません。この人は約束してくれたのですから」
「なに?」
「もう片時も、側を離れないと。窮地の私を救ってくれた時、私を抱きしめてそう言ったのです」

 マルムゼは、あの偽帝にアンナが襲われた時のことを思い返した。
 今ならはっきりわかる、あの時の想い。それは、マルムゼとしての第二の人生のみで培われたものではなかった。
 それよりもずっと前から、自分はこの女性を愛していた。そして、彼女より先に逝ってしまったことをずっと後悔してたのだ。

「だから、私も同じことをしたまで。私たちは絶対に離れることはない!」
「それがなんだ!? 一緒にいればそれだけで望みは叶うとでも? ならばその想いの力で、この刃を止めて見せよ!」
「言われずとも!」

 アンナは倒れたままのマルムゼの前で両腕を広げた。その意味をマルムゼは理解する。
 アンナが全身全霊で刃を受け止め、ウィダスの動きを封じるつもりだ。そして、その刹那にゼーゲンが槍を繰り出せば、形勢は変わる。
 マルムゼは生き残る可能性も出てくる。
 マルムゼは、だ……。

「させるか!」

 考えるよりも先に身体が動いた。
 全ての力を奪われ、腕どころか指すら満足に動かせなかったはずのマルムゼの肉体が、限界を超越する。
 愛する者を守る、それだけのために。

「何!?」

 虚を突かれたのはウィダスだった。彼は一太刀で、アンナの身体を両断し、そのままゼーゲンを迎撃するつもりだった。
 そのため、アンナの後ろで立ち上がるマルムゼへの対応が、一瞬だけ遅れた。

「道連れだ」

 マルムゼはその長身をウィダスにぶつける。そのまま血まみれの両腕を彼の肩に回し、抱きつくようにしてのしかかった。

「なっやめっ!?」

 マルムゼとウィダスはもつれるようにして、吹き抜け回廊の手すりにぶつかり、それをへし折った。

「うおおおおおおお!!」

 そして、2人の身体はそのまま、炎の燃え盛る1階へと落下していった。