「マルムゼ!」

 アンナは叫ぶ。カーペットや絵画から出る炎と煙で、2人の男の姿は見えなくなっていた。
 このままでは危ない。石造りのこの建物が全焼することはないだろうが、逆に煙も内側に閉じ込めてしまう。
 常人よりも身体能力の高いホムンクルスとはいえ、煙の中に長時間いれば窒息はまぬがれないだろう。

(近衛隊はどうしたの……?)

 アンナは背後を振り返る。南苑から連れてきた部隊は、王妃の村里の近くに待機させている。
 血痕の先に何者がいるかわからないため、マルムゼと2人だけでたどって来たのだ。
 それは失敗だった。これだけの火事だ。煙の一筋でも木の間から立ち昇るのが見えれば、彼らは必ず駆けつける。それがないということは、恐らく北苑の森と同じように、錬金術による罠が張り巡らされているのだろう。

(ならば今、彼を救えるのは……)

 自分しかいない。そうアンナは思った。
 そして迷わずスカートの裾を掴むと、力を込めて膝の少し上で引きちぎり始めた。
 もともと、装飾の軽く動きやすいドレスを好んでいたのが幸いした。丈を短くして鯨ひげ製の骨組みを外せば、走ることもできるし、裾やリボンに火が燃え移るのも防げるだろう。
 おおよそ淑女とは思えぬ格好。煙の向こうで骸となっているクラーラなどは嘲笑するかもしれない。
 けども……。

「知ったことか」

 もとより職人の娘だ。あるべき貴族の姿なんてものに全く興味がない。それよりも二度までも愛する人を失う方がよほど恐ろしい。

 もしそれが、同一人物なのだとしたら尚更だ。

(確か1階の奥に武器庫があったはず……)

 アンナは、以前この別邸を訪れた時のことを思い出す。
 親愛帝のコレクションの中には宝剣の類も多数あり、それを保管してある部屋があるのだ。もしそこまで火が及んでなければ、武器を調達してからマルムゼのもとに駆けつける事ができる。

 アンナは別邸の裏に回り込んだ。武器庫には裏口からの方が近い。それに、運河へと続く川が流れている。

(この程度でどれだけ防げるかわからないけれど……)

 川の水で先ほど引きちぎったスカートの切れ端を濡らすと口と鼻を覆うように顔に巻きつけた。
 そうこうしている間にも火と煙はさらに激しさを増している。裏口から見える空間は暗灰色に濁って何も見えない。かろうじて奥の方が赤く光っているのがわかるくらいだ。

 今からこの中に飛び込む。

「待ってて、マルムゼ……!」

 アンナが覚悟を決めたまさにその瞬間だった。

「顧問殿、遅くなりました!」

 横から彼女を呼ぶ声がした。

 * * *