午後2:50
「はぁ……はぁ……はぁ……」
グリージュス公クラーラは血が流れ出る脇腹を押さえながら歩いていた。襲撃者の銃撃は、淑女の証であるコルセットが弾丸の威力を大きく削いでいたようだ。皮膚と一部の筋肉を抉っただけで、内蔵には届いていない。
これがエスリー夫人のようなだらしのない格好だったら死んでいただろう。やはり自分の……帝国貴族としての矜持は間違っていなかった。
とはいえ、激痛と流れ出る血液は着実にクラーラの体力を奪っている。
あの場にいたら殺される。そんな直感が身体を動かし、彼女は皇妃の村落から遠ざかっていた。
「あれは……」
霞がかったような視界の先に、白い大きな影がぼんやりと浮かび上がった。親愛帝アルディス1世の別邸だ。
大理石の太い柱が何本も並び、三角形の屋根を支えている。悪しき竜のさらにその前の時代、大陸全土を支配していた大帝国の神殿建築を真似た、壮麗な建物である。
ちょうどいい、あの中で全てをやり過ごそう。そう思ったクラーラは、消失しかかっている体力を振り絞り、白亜の神殿へと向かった。
「あ……ああ……」
神殿の中は、無数の芸術品で満たされていた。中央には、この建物のモデルと同じ、古代帝国時代の彫像が並び、壁には古今東西の絵画が飾られている。親愛帝は芸術をこよなく愛し、あらゆる美術品を蒐集したことで知られる皇帝だ。
そんな偉大な皇帝のコレクションのうち、選りすぐりのものがこの別邸に保管されているのだ。
「なんて美しいの……」
クラーラは幼い頃、先々帝アルディス2世の寵姫に可愛がられていた。そして一度だけ、彼女の取りなしでこの別邸に入ったことがある。その時の記憶がありありと浮かんできた。
それはまさに、"百合の帝国"の華麗なる貴族文化そのものだった。華やかな芸術品の数々と、それを愛でる貴族たち。恐らくもう二度と戻ってこないであろう、美しき日々……。2人の女によって汚されてしまった、帝国の正しき姿……。
クラーラが彫像に見惚れていると、大理石の床を叩くコツコツという足音が聞こえてきた。
音のする方へ目をやると、サーベルを抜き放った男が近づいてくる。
「ほら、やっぱり……」
征竜騎士団部隊長の証である片マントを翻し、近づいてくるのはウィダスだった。ダ・フォーリスを名乗る時のあの仮面は付けておらず、怪しげな術による顔の偽装もしていない。
元戦争大臣ウィダス子爵として、男はそこにいる。何のために? それは抜き放たれたサーベルの切先が雄弁に語っていた。
「私を寵姫や正妃になんて、嘘ばっかり。最初から殺すつもりだったのね?」
「クロイスの兵どもには、君だけは確実に仕留めろと命じていたのにな。無能の家には無能な兵しか集まらなかったらしい」
言うとウィダスは、クラーラにサーベルを突きつけた。
「君は、俺の両方の顔を知っている。それはいささかまずいのだよ」
「知っているですって? あなたが無理やり押し付けてきたんじゃない。正統なる血筋だの、百年の憎悪だのを……!」
「それで怖気付くのであれば、もっと早く始末してたさ。それでも俺の正体を誰にも告げず、あくまで自分の野望を叶えようとするたくましさが、君にはあった。だからこそ、今日まで生き延びた」
クラーラは必死で目を動かし、生き延びる方法を模索した。この別邸にはもうひとつ入り口がある。その先の小川に飛び込めば、大庭園を縦横に走る運河へと逃がれられるだろうか。
……いや、無理だ。生粋の軍人であるこの男の前に、手負いの女はあまりにも無力。そこに到達する前にクラーラは死ぬ。
あるいはこの男に媚びへつらえば、どうだ。この男の寝室で生涯飼い殺しになることを誓えば、今この場では生き延びることができるかもしれない。
しかし、だ……。
「はぁ……いいわ。早くやりなさい」
「おや、君にしては諦めが早いな?」
「ここで生き延びても、待ってるのはあなたが支配する帝国か、あの成り上がり女が牛耳る帝国。もう、どっちもまっぴらよ」
「そうか……」
それよりも、在りし日の帝国を思わせるこの神殿を棺とする。
ついさっきまで生き延びることだけを考えていたクラーラだが、なぜか今はその考えがとても甘美で愛おしいものに思えた。
帝国の未来? そんなものは初めから興味がない。あの日々が二度と戻らないのなら、こんな国に意味はない。
ただひとつ、心残りがあるとすれば……。
「ごめんなさい、リリナ……」
虚栄と嫉妬に満ちた宮廷社会に生まれ育ち、その2つの感情を生涯の友とした女の、最期の言葉がそれだった。
次の瞬間、ウィダスのサーベルが閃き、クラーラの喉元に真っ赤な花が咲いた。
「はぁ……はぁ……はぁ……」
グリージュス公クラーラは血が流れ出る脇腹を押さえながら歩いていた。襲撃者の銃撃は、淑女の証であるコルセットが弾丸の威力を大きく削いでいたようだ。皮膚と一部の筋肉を抉っただけで、内蔵には届いていない。
これがエスリー夫人のようなだらしのない格好だったら死んでいただろう。やはり自分の……帝国貴族としての矜持は間違っていなかった。
とはいえ、激痛と流れ出る血液は着実にクラーラの体力を奪っている。
あの場にいたら殺される。そんな直感が身体を動かし、彼女は皇妃の村落から遠ざかっていた。
「あれは……」
霞がかったような視界の先に、白い大きな影がぼんやりと浮かび上がった。親愛帝アルディス1世の別邸だ。
大理石の太い柱が何本も並び、三角形の屋根を支えている。悪しき竜のさらにその前の時代、大陸全土を支配していた大帝国の神殿建築を真似た、壮麗な建物である。
ちょうどいい、あの中で全てをやり過ごそう。そう思ったクラーラは、消失しかかっている体力を振り絞り、白亜の神殿へと向かった。
「あ……ああ……」
神殿の中は、無数の芸術品で満たされていた。中央には、この建物のモデルと同じ、古代帝国時代の彫像が並び、壁には古今東西の絵画が飾られている。親愛帝は芸術をこよなく愛し、あらゆる美術品を蒐集したことで知られる皇帝だ。
そんな偉大な皇帝のコレクションのうち、選りすぐりのものがこの別邸に保管されているのだ。
「なんて美しいの……」
クラーラは幼い頃、先々帝アルディス2世の寵姫に可愛がられていた。そして一度だけ、彼女の取りなしでこの別邸に入ったことがある。その時の記憶がありありと浮かんできた。
それはまさに、"百合の帝国"の華麗なる貴族文化そのものだった。華やかな芸術品の数々と、それを愛でる貴族たち。恐らくもう二度と戻ってこないであろう、美しき日々……。2人の女によって汚されてしまった、帝国の正しき姿……。
クラーラが彫像に見惚れていると、大理石の床を叩くコツコツという足音が聞こえてきた。
音のする方へ目をやると、サーベルを抜き放った男が近づいてくる。
「ほら、やっぱり……」
征竜騎士団部隊長の証である片マントを翻し、近づいてくるのはウィダスだった。ダ・フォーリスを名乗る時のあの仮面は付けておらず、怪しげな術による顔の偽装もしていない。
元戦争大臣ウィダス子爵として、男はそこにいる。何のために? それは抜き放たれたサーベルの切先が雄弁に語っていた。
「私を寵姫や正妃になんて、嘘ばっかり。最初から殺すつもりだったのね?」
「クロイスの兵どもには、君だけは確実に仕留めろと命じていたのにな。無能の家には無能な兵しか集まらなかったらしい」
言うとウィダスは、クラーラにサーベルを突きつけた。
「君は、俺の両方の顔を知っている。それはいささかまずいのだよ」
「知っているですって? あなたが無理やり押し付けてきたんじゃない。正統なる血筋だの、百年の憎悪だのを……!」
「それで怖気付くのであれば、もっと早く始末してたさ。それでも俺の正体を誰にも告げず、あくまで自分の野望を叶えようとするたくましさが、君にはあった。だからこそ、今日まで生き延びた」
クラーラは必死で目を動かし、生き延びる方法を模索した。この別邸にはもうひとつ入り口がある。その先の小川に飛び込めば、大庭園を縦横に走る運河へと逃がれられるだろうか。
……いや、無理だ。生粋の軍人であるこの男の前に、手負いの女はあまりにも無力。そこに到達する前にクラーラは死ぬ。
あるいはこの男に媚びへつらえば、どうだ。この男の寝室で生涯飼い殺しになることを誓えば、今この場では生き延びることができるかもしれない。
しかし、だ……。
「はぁ……いいわ。早くやりなさい」
「おや、君にしては諦めが早いな?」
「ここで生き延びても、待ってるのはあなたが支配する帝国か、あの成り上がり女が牛耳る帝国。もう、どっちもまっぴらよ」
「そうか……」
それよりも、在りし日の帝国を思わせるこの神殿を棺とする。
ついさっきまで生き延びることだけを考えていたクラーラだが、なぜか今はその考えがとても甘美で愛おしいものに思えた。
帝国の未来? そんなものは初めから興味がない。あの日々が二度と戻らないのなら、こんな国に意味はない。
ただひとつ、心残りがあるとすれば……。
「ごめんなさい、リリナ……」
虚栄と嫉妬に満ちた宮廷社会に生まれ育ち、その2つの感情を生涯の友とした女の、最期の言葉がそれだった。
次の瞬間、ウィダスのサーベルが閃き、クラーラの喉元に真っ赤な花が咲いた。