隣の部屋には螺旋階段があり、それを昇った先には豪華な調度品に囲まれた部屋があった。ここが皇弟リアン大公の私室だ。
「あの近衛兵には見覚えがある。」
ソファに腰掛けると、リアンは言う。マルムゼのことだろう。
「式典の際に兄上のそばにいた。近衛隊の中でも重要なポストに就いている男ではないのかな?」
「そうですか」
アンナも知らない情報だ。確かに、皇帝の側近中の側近であり、私を殺したウィダスが供回りとして連れていたのだ。平隊員ではないとは思っていたけど……。
それほどの地位にいるマルムゼがなぜ私の復讐に加担するのか? 彼の主人という錬金術師は何者なのか? 謎は深まる。
「衛兵から話を聞いたときにおかしいとは思ったのだ。骨董商の使いと近衛兵の組み合わせなど聞いたことがない。その上、何と言ったか? 君が名乗った骨董商を私は知らない」
それはそうだ。衛兵に告げたティスタンという名前は、あの職人街で古道具屋を営んでいた老人のものだ。宮廷や貴族の屋敷に出入りしている骨董商などではない。
「それにその服、いささか背伸びし過ぎではないかな?」
アンナの肉体の外見年齢は17歳くらい。確かに、胸元が大きく空いたり、腰のくびれを強調したりするような服を着こなすにはまだ幼い顔立ちだ。
「殿方はこういう格好がお好きかと思いまして」
こともなげにアンナは応える。
「ははっ確かに俺は好きだ。しかしサロンに集まる友人たちは、そういうのをあまり好まないだろうな」
「そうでしたか……それは軽率でした」
「だが、君には彼らを魅了するだけの教養と話術があった。そもそも"藤色"の合言葉を知っているのも奇妙だ。それで話してみる気になった」
得体の知れない少女一人がベルーサ宮に現れ、大公殿下に会いたいなどと言っても。普通は取り合ってもらえない。
物乞いと思われて、金貨一枚であしらわれるのがオチだ。
だから、何とかしてこの皇弟を注目させる必要があった。マルムゼの存在、古着屋で買った服、文人たちとの会話。それらは全てこの貴公子を振り向かせるための小道具だったのだ。
「そして次に気になったのは、君の真意だ。俺に会いたがる者など大勢いる。特に女性は、なかなか俺を放ってくれない」
やや自慢ぽくリアンは語る。
「しかし君は、俺と恋仲になりたいわけではないな? でなければ近衛兵を連れて短剣を売り込みになと来ない。皇帝に近しい者、短剣。これらサインだろう?」
「お見事です。それで殿下も、白百合の例えを出されたのですね?」
「では、あるのだな? リュディスの短剣が?」
「ええ、ここに」
アンナはマルムゼから預かっていたそれを取り出し、テーブルに置いた。
「どこから手に入れたかはお聞きにならないでください。今、殿下の目の前にあることこそが重要かと」
「確かにな」
皇帝の弟は短剣を手に取り、まじまじとその装飾を眺めている。
皇帝兄弟は以前から仲が悪く、弟は密かに玉座を狙っているというのがもっぱらの噂だ。一時は、アルディスも弟を帝室から追放しようと考え、エリーナが二人を仲裁したこともある。
そんな皇弟が、もし帝国軍を掌握すればどうなるか?
リアン大公とリュディスの短剣。かつての自分の立場で考えれば、それは最悪の組み合わせだった。
「伝承によれば、この紋章に王族である俺の血を垂らせば、その力が解放されるらしいが……」
「お試しになりますか?」
「いや、やめておこう。万が一何も起きなかった場合、俺は破滅だ」
リアンは短剣をテーブルへ戻した。
この兄弟は母親が異なる。先帝アルディス2世の皇妃が亡くなり、後妻として宮廷に入ったのがリアンの母親だ。リアンが産声をあげたのは、間違いなくヴィスタネージュ大宮殿の一室なのだが、それでも後妻の連れ子だとか、私生児だとかいう噂が彼に付きまとった。
リアンがそんな噂を気に病んでいることは、エリーナも知っている。
「見返りは何が望みだ? わかってると思うが、本来これは金などでは取引できぬものだぞ?」
「お金は要りません。欲しいのは私の名前です」
「名前?」
「私を養女にしてくれる有力貴族を探しています。その斡旋をお願いしたく」
「ほう?」
リアンの顔色が変わった。といっても、驚きや不快感の色ではない。悪戯心に満ちた、好奇心の色だ。
「家名もまた、本来なら容易に取引していい代物ではない」
「建前ではね。けど実際にはどうです? 食うにこまった貴族が家名を商人に売ったり、平民の愛人を養女という名目で屋敷に入れたり、そんな例は帝国の長い歴史の中にいくらでもありますわ」
「フッ、その通りだ」
宮廷に入り込み、貴族共や皇帝に引導を渡す。そのためには、地位のある家名を手に入れるのが手っ取り早い。
リュディスの短剣はそのためには恰好の取引材料となる。アンナはそう確信していた。
「しかし、大胆なお嬢さんだ。俺にこんな話を持ちかけた時点で首が飛んでもおかしくはないのだぞ?」
「もちろん生半可な覚悟で、皇弟殿下にこのような相談を持ちかけることなど出来ません」
「ははっ! 言うではないか!」
リアンは愉快そうに笑った。
「……君と話していると、ある女性を思い出す。俺の義姉だった人だ」
義姉、か。
エリーナは皇帝アルディス3世の妻ではなかったため、正確には皇弟リアンと義姉弟の間柄ではない。けど、この青年にはエリーナを「義姉上」と呼び慕っていた時期があった。
「君と同じく。知性と胆力に優れ、何者にも媚びず、恐れず、自分の信じた道を付き進む人だった」
リアン視線はアンナに向いていたが、彼女をみていなかった。記憶の底の女性を眺めているようだ。その女性が他ならぬアンナ自信であることを、もちろんリアンは知らない。
「かつて俺は、帝室から絶縁されそうになったことがあった」
自分の血筋への疑問のせいだろうか、かつてのリアン大公は不祥事製造機と揶揄されるほど乱行が目立つ男だった。
女性と酒とギャンブル。帝室の権威を貶めるようなスキャンダルを連発し、宮廷はその尻ぬぐいに辟易していた。もともと良くなかった兄帝との関係もどんどん冷えてゆき、それはやがて帝室からの追放騒ぎに発展していった。
「宮廷に身の置きどころがなかった私を、あの人は救ってくれた。私を歌劇に誘ってくれたのだ」
見かねたエリーナは、彼に芸術の世界を紹介したのは、アルディスが本気で絶縁を考え、高等法院で手続きを始めた頃だ。
芸術こそが、彼が持てあます感情の受け皿になる。エリーナはそう信じた。
「歌劇の翌日には音楽会、その次は画廊に、読書会に。とにかく私を芸術の素晴らしさに触れさせようとしていた。階下のサロンも、彼女の発案で開いたのだ」
"藤色"の合言葉はエリーナの発案だった。
むやみに人を呼べば、またよからぬ噂を好み、この青年の心を気付付ける者が現れると思ったからだ。
その時はまさかこの合言葉を利用して彼に近づくことなど考えもしなかったが……。
「あの人のおかげで今の私がある。義姉上は俺の恩人だ。……恩人だった」
「……」
彼が語る自分自身の昔話に、アンナは無言で耳を傾けていた。
「だが、あの人は私の手の届かないところに逝ってしまった。貴族どもと兄のせいで。兄上もつくづく度し難い。あれだけ素晴らしい人を寵姫として独占したばかりか、命まで奪ってしまったのだから」
兄への不満をこぼしたところで、ふと皇弟は我に返ったようだった。
「失礼。余計なことを話し過ぎた。聞かなかったことにしてくれ」
「……承知しました」
「養子の話は、心あたりがある、しばらく時間をもらいたい。それと……」
リアンはテーブルの上の短剣を、アンナの方へと押しやった。
「これは、君が持っていたまえ」
「よろしいのですか?」
「最終的に必要とあらば、俺がもらう。が、当面は君が持っている方が面白いものが見られそうだ。しばらく君に貸しておくというのはどうだろう?」
「承知しました。では、これは私が活用させていただきます」
言いながら、アンナはリュディスの短剣を再び懐へとしまい込んだ。
すべて、思い描いたとおりだ。
自分の出自に確証が持てないリアンは、短剣を持て余す。蕎麦に探検がアレば、彼はそれが本物か周りに示す必要が出てくるだろう。
同時にそれは、リアン自身の血が本物かが試されることも意味する。だから、彼はリュディスの短剣を自らのそばに置きたがらない。
そんな予想は見事に的中した。短剣はそのままに、養子の約束だけ取り付ける。最高の結果となった。
また、一歩……また一歩、復讐へと近づいた。
皇弟と別れの挨拶を交わしながら、心の奥底ではそんな実感を楽しんでいた。
「あの近衛兵には見覚えがある。」
ソファに腰掛けると、リアンは言う。マルムゼのことだろう。
「式典の際に兄上のそばにいた。近衛隊の中でも重要なポストに就いている男ではないのかな?」
「そうですか」
アンナも知らない情報だ。確かに、皇帝の側近中の側近であり、私を殺したウィダスが供回りとして連れていたのだ。平隊員ではないとは思っていたけど……。
それほどの地位にいるマルムゼがなぜ私の復讐に加担するのか? 彼の主人という錬金術師は何者なのか? 謎は深まる。
「衛兵から話を聞いたときにおかしいとは思ったのだ。骨董商の使いと近衛兵の組み合わせなど聞いたことがない。その上、何と言ったか? 君が名乗った骨董商を私は知らない」
それはそうだ。衛兵に告げたティスタンという名前は、あの職人街で古道具屋を営んでいた老人のものだ。宮廷や貴族の屋敷に出入りしている骨董商などではない。
「それにその服、いささか背伸びし過ぎではないかな?」
アンナの肉体の外見年齢は17歳くらい。確かに、胸元が大きく空いたり、腰のくびれを強調したりするような服を着こなすにはまだ幼い顔立ちだ。
「殿方はこういう格好がお好きかと思いまして」
こともなげにアンナは応える。
「ははっ確かに俺は好きだ。しかしサロンに集まる友人たちは、そういうのをあまり好まないだろうな」
「そうでしたか……それは軽率でした」
「だが、君には彼らを魅了するだけの教養と話術があった。そもそも"藤色"の合言葉を知っているのも奇妙だ。それで話してみる気になった」
得体の知れない少女一人がベルーサ宮に現れ、大公殿下に会いたいなどと言っても。普通は取り合ってもらえない。
物乞いと思われて、金貨一枚であしらわれるのがオチだ。
だから、何とかしてこの皇弟を注目させる必要があった。マルムゼの存在、古着屋で買った服、文人たちとの会話。それらは全てこの貴公子を振り向かせるための小道具だったのだ。
「そして次に気になったのは、君の真意だ。俺に会いたがる者など大勢いる。特に女性は、なかなか俺を放ってくれない」
やや自慢ぽくリアンは語る。
「しかし君は、俺と恋仲になりたいわけではないな? でなければ近衛兵を連れて短剣を売り込みになと来ない。皇帝に近しい者、短剣。これらサインだろう?」
「お見事です。それで殿下も、白百合の例えを出されたのですね?」
「では、あるのだな? リュディスの短剣が?」
「ええ、ここに」
アンナはマルムゼから預かっていたそれを取り出し、テーブルに置いた。
「どこから手に入れたかはお聞きにならないでください。今、殿下の目の前にあることこそが重要かと」
「確かにな」
皇帝の弟は短剣を手に取り、まじまじとその装飾を眺めている。
皇帝兄弟は以前から仲が悪く、弟は密かに玉座を狙っているというのがもっぱらの噂だ。一時は、アルディスも弟を帝室から追放しようと考え、エリーナが二人を仲裁したこともある。
そんな皇弟が、もし帝国軍を掌握すればどうなるか?
リアン大公とリュディスの短剣。かつての自分の立場で考えれば、それは最悪の組み合わせだった。
「伝承によれば、この紋章に王族である俺の血を垂らせば、その力が解放されるらしいが……」
「お試しになりますか?」
「いや、やめておこう。万が一何も起きなかった場合、俺は破滅だ」
リアンは短剣をテーブルへ戻した。
この兄弟は母親が異なる。先帝アルディス2世の皇妃が亡くなり、後妻として宮廷に入ったのがリアンの母親だ。リアンが産声をあげたのは、間違いなくヴィスタネージュ大宮殿の一室なのだが、それでも後妻の連れ子だとか、私生児だとかいう噂が彼に付きまとった。
リアンがそんな噂を気に病んでいることは、エリーナも知っている。
「見返りは何が望みだ? わかってると思うが、本来これは金などでは取引できぬものだぞ?」
「お金は要りません。欲しいのは私の名前です」
「名前?」
「私を養女にしてくれる有力貴族を探しています。その斡旋をお願いしたく」
「ほう?」
リアンの顔色が変わった。といっても、驚きや不快感の色ではない。悪戯心に満ちた、好奇心の色だ。
「家名もまた、本来なら容易に取引していい代物ではない」
「建前ではね。けど実際にはどうです? 食うにこまった貴族が家名を商人に売ったり、平民の愛人を養女という名目で屋敷に入れたり、そんな例は帝国の長い歴史の中にいくらでもありますわ」
「フッ、その通りだ」
宮廷に入り込み、貴族共や皇帝に引導を渡す。そのためには、地位のある家名を手に入れるのが手っ取り早い。
リュディスの短剣はそのためには恰好の取引材料となる。アンナはそう確信していた。
「しかし、大胆なお嬢さんだ。俺にこんな話を持ちかけた時点で首が飛んでもおかしくはないのだぞ?」
「もちろん生半可な覚悟で、皇弟殿下にこのような相談を持ちかけることなど出来ません」
「ははっ! 言うではないか!」
リアンは愉快そうに笑った。
「……君と話していると、ある女性を思い出す。俺の義姉だった人だ」
義姉、か。
エリーナは皇帝アルディス3世の妻ではなかったため、正確には皇弟リアンと義姉弟の間柄ではない。けど、この青年にはエリーナを「義姉上」と呼び慕っていた時期があった。
「君と同じく。知性と胆力に優れ、何者にも媚びず、恐れず、自分の信じた道を付き進む人だった」
リアン視線はアンナに向いていたが、彼女をみていなかった。記憶の底の女性を眺めているようだ。その女性が他ならぬアンナ自信であることを、もちろんリアンは知らない。
「かつて俺は、帝室から絶縁されそうになったことがあった」
自分の血筋への疑問のせいだろうか、かつてのリアン大公は不祥事製造機と揶揄されるほど乱行が目立つ男だった。
女性と酒とギャンブル。帝室の権威を貶めるようなスキャンダルを連発し、宮廷はその尻ぬぐいに辟易していた。もともと良くなかった兄帝との関係もどんどん冷えてゆき、それはやがて帝室からの追放騒ぎに発展していった。
「宮廷に身の置きどころがなかった私を、あの人は救ってくれた。私を歌劇に誘ってくれたのだ」
見かねたエリーナは、彼に芸術の世界を紹介したのは、アルディスが本気で絶縁を考え、高等法院で手続きを始めた頃だ。
芸術こそが、彼が持てあます感情の受け皿になる。エリーナはそう信じた。
「歌劇の翌日には音楽会、その次は画廊に、読書会に。とにかく私を芸術の素晴らしさに触れさせようとしていた。階下のサロンも、彼女の発案で開いたのだ」
"藤色"の合言葉はエリーナの発案だった。
むやみに人を呼べば、またよからぬ噂を好み、この青年の心を気付付ける者が現れると思ったからだ。
その時はまさかこの合言葉を利用して彼に近づくことなど考えもしなかったが……。
「あの人のおかげで今の私がある。義姉上は俺の恩人だ。……恩人だった」
「……」
彼が語る自分自身の昔話に、アンナは無言で耳を傾けていた。
「だが、あの人は私の手の届かないところに逝ってしまった。貴族どもと兄のせいで。兄上もつくづく度し難い。あれだけ素晴らしい人を寵姫として独占したばかりか、命まで奪ってしまったのだから」
兄への不満をこぼしたところで、ふと皇弟は我に返ったようだった。
「失礼。余計なことを話し過ぎた。聞かなかったことにしてくれ」
「……承知しました」
「養子の話は、心あたりがある、しばらく時間をもらいたい。それと……」
リアンはテーブルの上の短剣を、アンナの方へと押しやった。
「これは、君が持っていたまえ」
「よろしいのですか?」
「最終的に必要とあらば、俺がもらう。が、当面は君が持っている方が面白いものが見られそうだ。しばらく君に貸しておくというのはどうだろう?」
「承知しました。では、これは私が活用させていただきます」
言いながら、アンナはリュディスの短剣を再び懐へとしまい込んだ。
すべて、思い描いたとおりだ。
自分の出自に確証が持てないリアンは、短剣を持て余す。蕎麦に探検がアレば、彼はそれが本物か周りに示す必要が出てくるだろう。
同時にそれは、リアン自身の血が本物かが試されることも意味する。だから、彼はリュディスの短剣を自らのそばに置きたがらない。
そんな予想は見事に的中した。短剣はそのままに、養子の約束だけ取り付ける。最高の結果となった。
また、一歩……また一歩、復讐へと近づいた。
皇弟と別れの挨拶を交わしながら、心の奥底ではそんな実感を楽しんでいた。