「こんな時でもお腹は空くもの。むしろこんな時だからこそ、しっかり食べないと元気が出ませんわ」

 エスリー夫人はそう言いながら、腕に引っ掛けたバスケットから茶色い塊を取り出しては、真珠の間の貴族たちに渡していった。
 その様子を見て、クラーラは辟易する。

 大地のケーキ。
 卑しい平民どもが春先に食べるとかいう、貧乏くさい菓子だ。

「ありがとうエスリー夫人」

 女帝が旧友に礼を言った。
 この皇妃の村里に出入りしていた、旧皇妃はの連中は、真珠の間グループよりも古い女帝の取り巻きたちだ。
 女帝が政務や儀式のため本殿にいることが多くなったことから、最近では疎遠気味になっていた。だが、ここぞとばかりに、クラーラたちに女帝との友情を見せつけにやってきたのだ。
 少なくとも、クラーラにはそうとしか見えなかった。
 
「さあ、どうぞ召し上がって」
「あ、ありがとございます……」
 
 真珠の間グループは、クラーラが選りすぐった若い貴族たちで構成されている。女帝に決してストレスを与えることのない、朗らかな人柄や機転のきく頭。それらは当然のこととして、育ちの良さも重要な選別の要素だった。
 女帝にはべるのは、エスリー夫人のごとき田舎貴族の野暮ったい趣味などとは最も遠い、世界一洗練されたヴィスタネージュの若者たちでなくてはならない。だから、あんな鳥の餌を丸めたような駄菓子、口に合うはずがない。

 それでも何人かは恐る恐るその塊に口をつけていた。
 エスリーの言う通り体力をつけねばと思ったのか、女帝の旧友である彼女の顔を潰すわけにはいかないと思ったのか。あるいはその両方か。
 いずれにしても、ボリボリと品のない音を立てて咀嚼する彼らの顔を見て、クラーラは自分の領域が侵されるのを感じた。

「さ、グリージュス公も……」

 エスリーは、クラーラにも大地のケーキを渡そうとする。

「結構です」

 大地のケーキは、クラーラがこの世で最も嫌う食物だ。
 思えば、自分の人生の転落はこのケーキから始まったのだ。このケーキのせいで、夫を失い、クロイス派は失墜し、夫の仇であるあの小娘にに頭を下げることとなった。
 娘のことを思えばこそ、どんな屈辱にも耐えてきたが、それでもこの下品な菓子だけは受け付けない。
 
「でも……何かお口に入れておかないと」
「あいにく、食欲がありませんので……ちょっと外の様子を見て参りますわ」

 そう言ってクラーラは退室した。

 外の様子が気になると言うのは嘘ではない。そろそろこの村里にあの男……ダ・フォーリスが訪れると考えたからだ。
 今は、征竜騎士団の一員として城外のどこかで任務にあたっているはずだが、あの男は必ず来る。不安に満たされた女帝の心を籠絡するために。

 旧主ルコットのとりなしで、ウィダス元大臣がグリージュスの屋敷を訪れたのは今年の春先だった。
 話を聞いてみれば、名前と身分を変えて宮廷でやり直したいとのことだった。女帝や顧問にかしずく日々にストレスを覚えていたクラーラは、意趣返しのために彼に協力してやることにした。

 しかし、程なく彼の真意が明らかになる。

 ウィダスの目的は簒奪であった。あの男はどういう理由からか、自分こそが"百合の帝国"皇帝の正統な後継者であると信じており、現体制を潰すつもりでいた。
 その計画を知った時にはすでにクラーラは身も心も絡め取られており、この男の秘密の情婦となっていた。

 そして彼の言うままに、女帝に紹介し、真珠の間のメンバーにも加えたのだ。

『マリアン=ルーヌを正妃に、そして君を寵姫に、と考えていたがその逆でもいい』

 不意に、あの男の言葉を思い出す。
 閨での戯言だということはわかっている。自分としては、顧問を排除し、女帝との関係を修復できればそれで良い。それで娘は……リリナは明るい未来を手にすることができる。

 でも……もしあの言葉の通り、自分がマリアン=ルーヌより上の立場になれるとしたら……。

 そんな夢想をしながら、庭先に出た時だった。
 人造池の向こうの茂みで何かが光るのが見えた。
 そしてパンパンとけたたましい音が連続して巻き起こり……。

 クラーラは、自分の脇腹で何かひどく熱いものが破裂するのを感じた。

 * * *