分厚い無垢材の扉に阻まれ、クロイスの声は謁見の間には届かなかった。それでも彼から放たれる怒気は伝わってくるもので、室内に招き入れられたクロイス派の閣僚たちはばつの悪そうな表情を浮かべていた。

「皆様、盟主と袂を分かつ決意をしていただいたこと誠にありがとうございます」

 アンナは彼らに頭を下げた。
 4人のクロイス派閣僚とは事前に懐柔を進めていたのだ。昨年の政変以来、クロイス公の求心力は低下していたとはいえ、彼らもすぐには盟主を切り捨てる決断はできずにいた。
 そこでアンナはかなり思い切った譲歩をしたのだ。

 例えばブラーレ伯爵については、元の職務である法務大臣への復帰を認めるほかなかった。アンナとしては、法務省内に汚れた金の流れを持っている彼よりも、公明正大なラルガこそこの職務に相応しいと信じていた。
 が、4人の中でもっともクロイス公爵家との繋がりが深い彼を口説き落とすにはこれしかない。
 アンナは、最も重要であったバティス・スコターディ城の管轄を正式に帝室に移すことを条件に、彼の要求を全面的に飲んだのである。

 外務大臣エルゼン公、海外領土総督フォルメル伯についても、その利権を黙認することにした。彼らは"薔薇の王国"との戦争中に、その地位を利用して私服を肥やしていた形跡があり、マルムゼにその調査をさせていたのだが、これを打ち切ることを仄めかすと、すぐさま顧問派への鞍替えを誓ったのである。

 唯一、ほとんど駆け引きなしに裏切りを約束してくれたのがベーステン商務長官だ。彼は物価の高騰に関する陳情を、帝都や諸都市の商業協会(ギルド)から毎日のように受けていたため、帝国の現状に危機感を持つ唯一のクロイス派閣僚であった。
 彼に関しては今後も厚遇していくことになるだろう。旧フィルヴィーユ派の官僚と組ませれば、この難局を打開する力となるかもしれない。

「我々とて断腸の思いでした。約束通りの待遇は保証してもらいますぞ」

 白々しくもブラーレ伯爵は言った。その太々しさに、やはりクロイスや2人の無能大臣と一緒に切り捨てるべきではなかったか、と思いもした。
 しかしこの男の変節がなければ、他の3人も動かなかったであろうから仕方ない。
 ブラーレとエルゼン、フォルメルについてはいつか別の形で排除する。腹の底でそう決めつつ、アンナはにこやかに応じた。
 
「もちろんです。皆様の職務と財産、家紋については保証いたします。引き続き、陛下のためにご奮励ください」
「その陛下ですが……」

 ここまでずっと黙っていたラルガが口を開く。

「この部屋にはおられないようですが?」

 全員の視線が無人の玉座に向けられた。

「安全を期して、女帝陛下には本日、陛下はこの場にはおわしません。安全を期して、皇妃の村里に待機していただいております」
「皇妃の村里に?」
「はい、皆様にはクロイス公が退去されたあと、村里へ移動していただき、そこで正式に新体制を発足させます」
「つまりそれは……クロイス公が何かを起こす可能性があると?」
「念を入れてのことです、公がそこまで愚かとも私は思っていませんが……」

 そのとき、扉の向こうから悲鳴が聞こえた。それも1人や2人ではなくかなりの人数のもので、分厚い扉ごしにはっきりと聞こえた。

「顧問閣下!」

 隠し部屋から大廊下の様子を伺っていたマルムゼが、謁見の間に飛び込んできた。

「クロイス公ご乱心。下級貴族に嘲笑された、としてサーベルで切り付けたそうです」
「……そうですか」

 アンナは深くため息をついた。

「どうやら、私の期待よりも遥かに愚かな人間だったようですね。クロイス公爵という御仁は」