真珠の間。

 花の名前が冠されることの多い、ヴィスタネージュ宮殿本殿の中で、この部屋の名前は例外である。
 もともとリュディス黄金帝が寵妃の私室のひとつとして作った部屋だという。この寵姫が好んだ真珠細工を、室内の全ての調度品にあしらったのが、その名の由来だ。

 今は誰の私室でもなく、宮殿を訪れる貴族に開放されているのだが、身分の高い女性に優先的に使われるというのが、不文律となっている。
 最も高位の女性であるマリアン=ルーヌが引きこもりだった頃は、寵姫ルコットとその取り巻きたちが半ば占拠している状態だった。
 それが今では一変した。女性だけではなく、男性を含めても帝国の最高位に立つ人物、つまり女帝マリアン=ルーヌがこの部屋を占有したのである。
 といっても、彼女自身がこの部屋を使っているわけではない。
 彼女と懇意にしている「友人たち」の、私的なサロンとして機能しているのが今の状況だった。

「そう、またアンナは来られないのね……」

 その友人たちを訪ねてきたマリアン=ルーヌ女帝は、次の舞踏会にも顧問アンナが参加しないと聞き、落胆した。

「気落ちなさらないでください。今回も、私が顧問の代理を仰せつかっています」

 そう応じるのは、宮廷女官長グリージュス公爵だ。今や、彼女がこの真珠の間の実質的な主人と言っていい。

「そうです。あの方にはあの方の責務がございます。陛下のおそばには我々がついておりますので」
「次回の舞踏会では、"鷲の帝国"より楽隊を招いています。ご政務の疲れは、故国の音色でどうぞ吹き飛ばしてください」

 周囲の者たちがこぞって女帝を慰めにかかる。
 目の見えぬ女帝は知る由もないが、この部屋にいる半数近くのものは、かつて彼女を笑いものにしていた寵姫ルコットの取り巻きだ。彼女とルコットの力関係が変わったことで、グリージュス公をツテとして乗り換えた者たちである。

「皆様ごきげんよう」
「失礼いたします」
 
 扉が開かれ、男性が1人、女性が1人、新たに真珠の間に入ってくる。その声を聞き、憂鬱そうな女帝の顔がぱあっと明るくなった。

「グリーナ! それにダ・フォーリス大尉!」

 自然と、女帝を取り巻いていた者たちが後ろへと下がり、彼女と2人の間に一本の道が作られる。
 女帝は立ち上がると、杖も次女の手も借りずに二人の元へ歩み出す。

「陛下! 危のうございます!」

 慌てて、仮面の男ダ・フォーリスが女帝に歩み寄った。

「平気です。不思議と、お二人と接するときは、安心して歩くことができるの」

 まぁ……と、周囲の貴婦人たちから感嘆の声が漏れる。事情を知らない彼女たちは、この女帝の言葉を寵臣に対する信頼の証ととったかもしれない。
 しかし実情は違う。女帝マリアン=ルーヌは実際に2人の気配を「光」として感じることができるのだ。

「そのようなお言葉をいただけるとは、グリーナは大変幸せです。しかし陛下の御身は何よりも貴重。どうかお無理はされぬように」

 深々とお辞儀をしながらそう話すのは、グリーナ・ディ・ポルトレイエ伯爵夫人。ここ最近、女帝がことさら気にかけている女性である。

 ポルトレイエ家は没落して久しい弱小貴族であり、グリーナも似たような境遇の家から嫁いできた身であった。
 そのため豪華絢爛たるヴィスタネージュの社交界にも居場所はなく、宮殿で毎夜のように開かれる催しにもほとんど顔を出したことがない。それがどう言うわけか、3ヶ月ほど前のパーティーにたまたま出席していた。
 その時の彼女は、流行からふた回りほども遅れた野暮ったいドレスを着て、嘲笑に耐えながら壁際で肩身を狭そうにしていたという。そんな彼女を女帝は気にかけ、自分たちの間に招き入れた。

「あなたには特別な何かを感じるの。もしよかったら、これからも遊びに来てくださる?」

 女帝のこの言葉によって、ポルトレイエ夫人は宮廷社会の中心に躍り出た。以来、女帝は彼女のために最高級のドレスをプレゼントし、自身が主催する催しには必ず呼ぶようになり、今では真珠の間の顔役の一人となっている。

「陛下、先日はどうもごちそうさまでした」

 ポルトレイエ夫人の横に立つダ・フォーリス大尉が頭を下げる。この仮面の軍人は、3日前に女帝の私的な憩いの場である「皇妃の村里」で夕食を共にしていたのだ。

「こちらこそ、あれほど大きな鹿を獲ってきていただきありがとうございます。料理人たちも存分に腕を振るえると喜んでおりました」

 女帝は無邪気に微笑む。その朗らかな顔を見た、ポルトレイエ夫人が尋ねた。

「あの……陛下と大尉は、その……どこまでいっているのでしょうか?」

 今、真珠の間にいる者たちの多くが抱いている疑問。それをポルトレイエ夫人が率直に尋ねた頃で、皆の視線が人組の男女に注がれた。

「ど、どこまでって、グリーナ! それは……」

 女帝はみるみるうちに顔を紅潮させる。
 一方で、仮面の男は苦笑した。

「皆様が期待しているようなことは一つもありませんよ。良き友人としてお付き合いさせていただいてます」
「まぁ、でも大尉は陛下のことを愛しているとお聞きしていますが?」
「ちょ、ちょっとグリーナ!」

 女帝の顔色は加速度的に赤みを増す。

「はは、確かにそうですが……」

 仮面から覗く形の良い口が、上品な笑みを浮かべた。
 
「私はこの片思いこそが幸せと考えています。そもそもが女帝陛下と外国人軍人の身分違いの恋。その上、この仮面の下は、とても皆様にお見せできないほど醜い。これ以上陛下とどうなりなどという野心は持ち合わせてません」

 やや憂いを込めた声音でダ・フォーリスは言う。

「そのように自分を卑下してはいけません大尉!」

 すると、当の女帝が毅然とした口調で、彼の自嘲を嗜めた。

「顔の傷がなんだと言うのです。私はそのようなもの見ることができませんし、そもそも問題ににしていません! あなたが誠実で優しい方だとうことは、この数ヶ月のお付き合いでよく存じております!」

 まぁ……と、貴婦人たちが感嘆の声をもらす。そして沈黙。再び女帝の声はよたよたと慌てふためいたものへと戻る。

「そ、その……ですから……これは私の心持ちの問題でして……大尉には申し訳ないのですが、今しばしお時間をいただきたく……」

 すると、ダ・フォーリスの仮面の下から、つ……と雫が滴り、顎のラインを伝った。

「え……?」

 それを見ることのできた女帝以外の一同は息を呑む。
 人前で涙を見せた仮面の軍人は、弾かれたように跪き、女帝に誓った。

「陛下! 私は大陸一の幸せものにございます! 約束しましょう。私は終生、あなたをお慕い続けると……!」

 * * *