「今宵は楽しい時間をありがとうございました、陛下」
「こちらこそ、リードありがとうございます。まさかまた踊ることができるなんて」
女帝とその男は、ちょうど別れの挨拶をしている最中だった。アンナは、大広間の後ろに設けた隠し部屋からそれを覗いている。四方の壁面に張り巡らせた鏡の一部が特別製で、この部屋から大広間を見る覗き窓となっているのだ。
国際政治の舞台でもある"百合の帝国"皇宮ならではの仕掛けだ。重要な行事の際には、暗殺やテロ対策の近衛兵が詰めるのだが、まさかこんな事に使うとはアンナも思っていなかった。
「あれがその御仁か……」
まず目に入ったのはその顔の覆う仮面だ。鼻から上をが、鈍い光沢を放つ金属の仮面で隠されている。目の見えぬ女帝は気づいていないかもしれないが、不審な風体である。
「そういえば、昨年の暮れ頃に話題になっていました。征竜騎士団に仮面の男が入隊したと。何でも炸裂弾の爆発に巻き込まれて顔に大きな傷を負っているとか……」
アンナは初耳だった。昨年末といえば、戴冠式の準備に忙殺されていた頃だ。軍隊内の噂など聞き留める暇もなかった。
「あの男、身辺調査はしっかりしているのよね?」
「征竜騎士団の外国人部隊は、入隊に対してかなり厳しい審査をしています。その点は問題ないかと……」
「戦傷を隠すための仮面、か……」
その時、鏡越しに見える場が沸きたった。仮面の男が女帝の頬に口付けをしたのだ。
仮面から露出している唇が頬に触れた途端、偉大なる帝国の君主はみるみる間に顔を紅潮させていった。
「な……」
「失礼。今夜の素敵な思い出の記念にと、気が逸ってしまいました。ご無礼、ご容赦ください」
初対面の高貴な女性に対して、かなり攻めたアプローチだ。しかし、所作も前後の態度も申し分ない。いかにも恋に慣れた帝国貴族のような振る舞いであり、外国の軍人によるものだとは思えないほどだ。
「まぁ……」
「これは……」
これで、向こう1週間の貴族たちの茶会や宴会での話題は決まったな、とアンナは思った。
"百合の帝国"の貴族社会は恋愛に寛容だ。普段であれば、不敬、不躾とされる行為も、恋愛によるものならば大目に見られる傾向がある。とはいえ、相手は女帝だ。衆人環視の中での接吻など、その場で死を賜ってもおかしくはない。だが、それに物おじもせずこの男は、女帝への恋慕を貫き、想いを形として示してみせた。
貴族たちはきっとこれを、あっぱれと褒め称えるであろう。
「……どう思う、マルムゼ?」
いつものように腹心に考えを尋ねるアンナ。しかし、マルムゼはいつもと違う反応を見せた。
「申し訳ありません、アンナ様。今回ばかりは、私もどう考えれば良いか……」
「そうよね……」
まさか、女帝に対して好意を寄せる男が現れるなどとは思ってもいなかった。
いや、よくよく考えればまったく不思議なことはないのだが、どういうわけかその発想が全くなかったのだ。
現状、マリアン=ルーヌは誰かの配偶者というわけではない。正しくは、故アルディス3世の未亡人なのだが、即位と同時にその肩書きは無効となった感がある。本来なら生涯喪服に身を包んで過ごさなければならないところを、女帝となることで通常のドレスをきることになったのがその理由であろう。
君主の重要な仕事のひとつが、世継ぎを産むことだ。実際、歴代皇帝の多くが皇妃に先立たれた後、別の女性と結婚しているし、寵姫を持つことを許されているのも、次代の皇帝候補を1人でも多く残すためだ。結果として、それが陰惨な陰謀の原因となったことも多々あるのだが……。
そして、マリアン=ルーヌは女帝である。帝国の初の女性君主となるため、法的な整備は一切されていない。貴族の恋愛観や道徳感に基づけば、あの男の行動は好意的に見られるだろうが、そこに政治が絡むと事情は別だ
「実際に子供が産まれでもしたら、また厄介な事になるでしょうけどね……」
「少なくとも、名目上アルディス3世の息子であるドリーヴ大公を擁立しているクロイス派は黙ってないでしょう」
「それだけじゃない。女帝陛下と別の男性の子となるとリュディス1世と全く縁のない者同士の子となる……」
仮に、あの仮面の男と女帝の子となれば、"白夜の国"の軍人と"鷲の帝国"の皇女の子だ。少なくとも、皇族の面々とクロイス派が結託でもししようものならば、女帝の立場もアンナの立場もまずい事になる。
「いずれにしても、です……」
マルムゼが言う。
「もし許されるのであれば、陛下には幸せな恋愛をして頂きたいとは思います……」
珍しい言葉だった。マルムゼが、女帝個人に対してなんらかの感情を抱き、それをアンナに話すのは初めてではないか?
これまではただの君主として、あるいはアンナの復讐の鍵を握る人物としてしか、マリアン=ルーヌという女性を見ていないと思っていた。
別に思いやりがないと言うわけではない。皇帝、あるいは皇妃という立場は、そういうものなのだ。
「それは、確かにそうね……」
では自分はどうだろうか。と、アンナは自問する。マリアン=ルーヌは自分のことを臣下としてだけでなく、無二の友人としても扱ってくれている。その事に恩義を感じているのは確かだ。
だからもし恋をするなら、幸せな恋になってほしい、とは思う。
「明日、陛下にお気持ちを伺う事にしましょう」
皇妃の村里で朝食を共にする約束をしている。つい先ほどまでは、今夜の欠席を詫びる言葉を考えていたが、どうやら別の言葉を探す必要がありそうだ、とアンナは思った。
「こちらこそ、リードありがとうございます。まさかまた踊ることができるなんて」
女帝とその男は、ちょうど別れの挨拶をしている最中だった。アンナは、大広間の後ろに設けた隠し部屋からそれを覗いている。四方の壁面に張り巡らせた鏡の一部が特別製で、この部屋から大広間を見る覗き窓となっているのだ。
国際政治の舞台でもある"百合の帝国"皇宮ならではの仕掛けだ。重要な行事の際には、暗殺やテロ対策の近衛兵が詰めるのだが、まさかこんな事に使うとはアンナも思っていなかった。
「あれがその御仁か……」
まず目に入ったのはその顔の覆う仮面だ。鼻から上をが、鈍い光沢を放つ金属の仮面で隠されている。目の見えぬ女帝は気づいていないかもしれないが、不審な風体である。
「そういえば、昨年の暮れ頃に話題になっていました。征竜騎士団に仮面の男が入隊したと。何でも炸裂弾の爆発に巻き込まれて顔に大きな傷を負っているとか……」
アンナは初耳だった。昨年末といえば、戴冠式の準備に忙殺されていた頃だ。軍隊内の噂など聞き留める暇もなかった。
「あの男、身辺調査はしっかりしているのよね?」
「征竜騎士団の外国人部隊は、入隊に対してかなり厳しい審査をしています。その点は問題ないかと……」
「戦傷を隠すための仮面、か……」
その時、鏡越しに見える場が沸きたった。仮面の男が女帝の頬に口付けをしたのだ。
仮面から露出している唇が頬に触れた途端、偉大なる帝国の君主はみるみる間に顔を紅潮させていった。
「な……」
「失礼。今夜の素敵な思い出の記念にと、気が逸ってしまいました。ご無礼、ご容赦ください」
初対面の高貴な女性に対して、かなり攻めたアプローチだ。しかし、所作も前後の態度も申し分ない。いかにも恋に慣れた帝国貴族のような振る舞いであり、外国の軍人によるものだとは思えないほどだ。
「まぁ……」
「これは……」
これで、向こう1週間の貴族たちの茶会や宴会での話題は決まったな、とアンナは思った。
"百合の帝国"の貴族社会は恋愛に寛容だ。普段であれば、不敬、不躾とされる行為も、恋愛によるものならば大目に見られる傾向がある。とはいえ、相手は女帝だ。衆人環視の中での接吻など、その場で死を賜ってもおかしくはない。だが、それに物おじもせずこの男は、女帝への恋慕を貫き、想いを形として示してみせた。
貴族たちはきっとこれを、あっぱれと褒め称えるであろう。
「……どう思う、マルムゼ?」
いつものように腹心に考えを尋ねるアンナ。しかし、マルムゼはいつもと違う反応を見せた。
「申し訳ありません、アンナ様。今回ばかりは、私もどう考えれば良いか……」
「そうよね……」
まさか、女帝に対して好意を寄せる男が現れるなどとは思ってもいなかった。
いや、よくよく考えればまったく不思議なことはないのだが、どういうわけかその発想が全くなかったのだ。
現状、マリアン=ルーヌは誰かの配偶者というわけではない。正しくは、故アルディス3世の未亡人なのだが、即位と同時にその肩書きは無効となった感がある。本来なら生涯喪服に身を包んで過ごさなければならないところを、女帝となることで通常のドレスをきることになったのがその理由であろう。
君主の重要な仕事のひとつが、世継ぎを産むことだ。実際、歴代皇帝の多くが皇妃に先立たれた後、別の女性と結婚しているし、寵姫を持つことを許されているのも、次代の皇帝候補を1人でも多く残すためだ。結果として、それが陰惨な陰謀の原因となったことも多々あるのだが……。
そして、マリアン=ルーヌは女帝である。帝国の初の女性君主となるため、法的な整備は一切されていない。貴族の恋愛観や道徳感に基づけば、あの男の行動は好意的に見られるだろうが、そこに政治が絡むと事情は別だ
「実際に子供が産まれでもしたら、また厄介な事になるでしょうけどね……」
「少なくとも、名目上アルディス3世の息子であるドリーヴ大公を擁立しているクロイス派は黙ってないでしょう」
「それだけじゃない。女帝陛下と別の男性の子となるとリュディス1世と全く縁のない者同士の子となる……」
仮に、あの仮面の男と女帝の子となれば、"白夜の国"の軍人と"鷲の帝国"の皇女の子だ。少なくとも、皇族の面々とクロイス派が結託でもししようものならば、女帝の立場もアンナの立場もまずい事になる。
「いずれにしても、です……」
マルムゼが言う。
「もし許されるのであれば、陛下には幸せな恋愛をして頂きたいとは思います……」
珍しい言葉だった。マルムゼが、女帝個人に対してなんらかの感情を抱き、それをアンナに話すのは初めてではないか?
これまではただの君主として、あるいはアンナの復讐の鍵を握る人物としてしか、マリアン=ルーヌという女性を見ていないと思っていた。
別に思いやりがないと言うわけではない。皇帝、あるいは皇妃という立場は、そういうものなのだ。
「それは、確かにそうね……」
では自分はどうだろうか。と、アンナは自問する。マリアン=ルーヌは自分のことを臣下としてだけでなく、無二の友人としても扱ってくれている。その事に恩義を感じているのは確かだ。
だからもし恋をするなら、幸せな恋になってほしい、とは思う。
「明日、陛下にお気持ちを伺う事にしましょう」
皇妃の村里で朝食を共にする約束をしている。つい先ほどまでは、今夜の欠席を詫びる言葉を考えていたが、どうやら別の言葉を探す必要がありそうだ、とアンナは思った。