べルーサ宮は、帝都の中心部にある宮殿だ。
 かつては皇帝が住む皇宮だったが、先先代の皇帝、"百合の帝国"の最盛期を築き上げた黄金帝ことリュディス5世は帝都郊外にヴィスタネージュ大宮殿を建設し、そちらに移り住んだ。
 以来、帝国の中枢部はヴィスタネージュとなり、べルーサ宮は有力な皇族の住まいとなる。
 現在は、皇帝アルディス3世の弟でマルフィア大公の称号を持つ皇弟リアンがその宮殿の主だった。

「まさか、皇弟殿下に短剣を渡すというのですか? それはあまりに危険です! お考え直しを」

 古着屋で、リアン大公好みの服を物色している最中、マルムゼはやや焦った面持ちだった。

 マルフィア大公リアンは、皇帝の潜在的な政敵とされている。
 宮廷のどの派閥にも所属せず、ヴィスタネージュ大宮殿への参内もせず、べルーサ宮で独立勢力となっているためだ。
 マルムゼの話では、最近では反帝国を掲げる危険分子を保護し、べルーサ宮はさながら革命派のアジトと化しているらしい。

「あなたも選ぶの手伝ってくださる? このオレンジのワンピースも悪くないけど、リアン大公の趣味ではないの。彼はもっと胸元が開いた……」
「フィルヴィーユ夫人!」
「もう! その名前は辞めてくださる? アンナ。これからは私のことをアンナとお呼びなさい」
「はっ! し、失礼しました」

 マルムゼはまたも子犬のように頭を下げた。
 不名誉な汚名が残された以上、今後エリーナ・ディ・フィルヴィーユの名前を使うのは危険だ。そうでなくとも、故人とされてる者の名を使うのは、色々なところで不都合が出てくる。だから、名を改めた。

 アンナ。

 かつてアルディスとの間に娘ができた時に名付けようと思っていた名だ。この名を、彼女は復讐のための武器にしようと決めた。

「大丈夫。リアンに短剣は渡しません。これは彼を釣り上げるための餌と思ってください」
「餌ですか、フィルヴィ……ア、アンナ……さま」

 注意されたそばから前の名を呼びそうになり、マルムゼはぎこちなくそれを訂正した。おかしな、そして不器用な青年だと思った。

「あの……アンナ、さま」
「どうしたの?」
「その、名字はどうしましょう? 目上の方をファーストネームで呼ぶのはどうにも……」

 マルムゼは本気で困っている様子だ。

「とりあえず今は名字はいらない。というより、これからねだりに行くのよ」
「ねだりに行く?」
「そう、リアン大公にね」