風のうわさで聞いたことがあった。不登校の私にも、そのうわさは耳に入ってきた。
中学校に入学してから、誰もがその環境に慣れてきた頃に、学級委員の女の子が‘死にたい’とふざけて連呼したガタイのいい男の子の胸倉を掴んで言い放った、と。
『死にたいって言葉は‘死にたい’と思っている人しか、使っちゃいけない。死にたくもない人が使えば、希死念慮や自殺願望の言葉が届かなくなる。だから、口癖にしちゃいけない。冗談で言っちゃいけない。その言葉に囚われて、涙をこらえている人が、沢山いるから。君が本当にそう思っているのなら止めないけど、その言葉は、笑って言うものじゃない。だからもう、軽々しく言わないで』
他クラスとまるで関わりのない私にも届いた言葉と共に彼女の名前も風に乗って届けられた。
――永川笑愛
それが、言い放った娘の名前だった。
彼女みたいな人なら、私を助けてくれるかもしれない、と思った。でも、そんな希望は捨てた。だって、誰も助けてくれないのは知っているから。痛いほど知っているから。
『いじめられっ子には、いじめられる原因があるからいじめられる』
その言葉が正しいのなら、いじめっ子が、正しいということ。いじめっ子に非がないということ。いじめっ子にいじめる理由がないのに、人をいじめていい、と言っているのと同じこと。
月に一度、必ずいじめや、いやがらせの有無や、ストレスの有無を問う用紙が配られる。けれど、その用紙に正直に書ける人はどれくらいいるのか。
ストレスの有無はともかく、いじめの有無に正直に答えるのには勇気がいる。でないと、自分がいじめられるから。でないと、自分に対するいじめや、いやがらせが酷くなるから。なら、いじめや、いやがらせの有無の欄には、無、と書いたほうがよっぽどいい。だって、有、と書いたら、学年朝礼とか、総合の時間とかで、クラスメイト達と話し合うことになるから。
話し合いで、真剣に話す子は、いじめられていない子。いじめっ子は、見た目だけ真剣に話すだけ。そして、先生がいなくなったときに、いじめをチクったやつは誰だと、詮索する。そして次のいじめはより陰湿に、そしてもっと悪化する。
いやがらせが始まった最初の頃は、自分の馬鹿さを存分に発揮していた。
筆箱のシャーペンの本数が少なくなっているのは、小鳥さんが餌と間違えて持って行ってしまったと本気で思っていたし、廊 下でいやがらせをする張本人とその取り巻きたちとすれ違うたび自分の名前らしきことが囁かれているのは、てっきり、その子のペットと自分の名前がたまたま一緒で、ペットの可愛さを自慢しているのかと思っていた。定期考査の前に教科書類が隠された時は、誰かが間違えて持って行っちゃったんだな、と思っていたし、体操着が隠された時は、体操着を家から持って来たのは‘気’だけで、本体は持ってきていないのかな、等と能天気なことを思っていた。
でも、そう思えたのは、やっぱり最初だけで、日々エスカレートしていく、いやがらせを受けて、身体の節々が痛くなった。 日々エスカレートしていく、いやがらせを受けて、人を信じられなくなった。
誰かとすれ違うたび、自分の名前が囁かれている気がして、コソコソと嗤われている気がして、朝起きるのが辛くなった。誰もが私を、嗤う、嗤う、嗤う。
いつからか、何かものを持とうとするたび、手が震えて、何も持てなくなった。
いやがらせ、はどれも証拠の残らないようなもの。それだけ、と言われるような、そんな陰湿な、いやがらせ。
このぐちゃぐちゃで、とても痛い気持ちはとても‘信じたくない’や‘信じられない’なんて言葉じゃ表せられない。
いつからか、教室に入る時、胃の中がぐちゃぐちゃになって、手足が震えて、呼吸が速くなった。
早く、誰かに、見つけてほしいのに。どこまでも遠くに逃げてしまいたいのに。どこまでも大きく泣き叫びたいのに、その一言が、怖くて言えない。
その、ひらがな四文字が、心から出て、喉で儚く消えた。
学校に行く前に支度をしようにも、手が思うように動かない。朦朧としながら、休んでしまおうか、と何度思ったことか。
それでも、学校に行こうと、身体を奮い起こして、学校に行こうとした。背中にのし掛かっている鉛のようなものを無視して、学校に行く。
いつものように、電車に乗って、学校の最寄り駅で降りて。けれど、学校の最寄り駅が近づくたび、呼吸が浅くなっていった。
足が重くなっていった。
駅について、電車のドアが開いても、前に進むことができなかった。
周りの人は、煩わしそうに私を見て舌打ちをして、歩いていく。
そりゃそうだ。降りもしないくせに、ドアの前で突っ立って。迷惑もいいところだ。
そう思って身体を前に出そうとしても、前に進めなかった。
まるで、自分の時間が止まっているかのように。
どれくらい、その時間が続いたのかは分からない。
ただ、突然、私の止まった時間に終止符を打つように、誰かが背中を力強く押した。そして、誰が押したのか確認する前に、誰かが私の手を引いて歩きだした。
私を引いているのは、同じ制服を着た、長い黒髪を高い所で一つに束ねて、姿勢がよく伸びた、綺麗な女の子。
どれくらい歩いたのか。いつの間にか、私は駅のホームのベンチに座らされていた。
「ねえ、空、見てみて。すごく綺麗な色だよ」
久しぶりに見上げた空は、綺麗な碧色だった。
その女の子は、自己紹介も何もしないで喋りだした。
「ね、曄の海、って漫画、知ってる?」
彼女の言葉にコクリ、と頷く。その途端彼女は、蕾だった花が咲いたかのように笑った。
「あれ、アニメ化するんだって」
有名な漫画だった。きっと、アニメ化ということは、さぞ世間では湧いただろう。なにせ老若男女、どの世代にも愛されている作品だから。
いつもの私なら、これくらいのことは知っていたのかもしれない。でも、全くの初耳だった。
「私、曄の海、大好きなの。漫画も小説も全部家にあるんだよー。読んだことある?」
彼女の言葉に頷いて、あの、と声を出す。その声は自分でもびっくりしそうなほど小さな声で、掠れていた。
「ん?どうしたの?」
「学校……遅れちゃう」
「んー、遅れちゃうというよりかは、もう走っても絶対に遅刻だよ」
「行かないと……ただでさえ馬鹿なのに、成績下がっちゃう」
「君は学校行きたいの?」
唐突に放たれた質問に、言葉を詰まらせる。そんなの行きたくないに決まっていた。
「行きたくないなら、さぼろうよ」
「行かないと……」
「行かなくても、君は頑張っているよ。行こうとしているんだから、それだけで、偉い。私なんてよく無断でさぼるからさ」
彼女は、欲しかった言葉をくれた。だから、ポロリ、と本音が零れた。
「……がっこう、いきたくない」
自分でも聞こえるか聞こえないかぐらいの声音が。少し、嗚咽の混じった、震えるような声が。
彼女の耳に届いたかどうかは分からない。
「よし。じゃ、さぼろう!一人でさぼるのは怖いけれど、二人でさぼれば怖くない!」
明るく笑った彼女は、どうして、だとか、大丈夫か、だとか、何も聞かなかった。
ただ、笑って、私の手を引いて、話をしてくれた。
その言葉に脱力してしまったのか、次の日から、学校に、行けなくなった。
身体が、全く動かなくなった。布団から、一歩も出られなくなった。起きられなくなった。学校のことを考えるだけで、立てなくなった。身体が言うことを聞かなくなった。
学校のことを考えるたび、震えて、声が出なくなった。
中学校に入学してから、誰もがその環境に慣れてきた頃に、学級委員の女の子が‘死にたい’とふざけて連呼したガタイのいい男の子の胸倉を掴んで言い放った、と。
『死にたいって言葉は‘死にたい’と思っている人しか、使っちゃいけない。死にたくもない人が使えば、希死念慮や自殺願望の言葉が届かなくなる。だから、口癖にしちゃいけない。冗談で言っちゃいけない。その言葉に囚われて、涙をこらえている人が、沢山いるから。君が本当にそう思っているのなら止めないけど、その言葉は、笑って言うものじゃない。だからもう、軽々しく言わないで』
他クラスとまるで関わりのない私にも届いた言葉と共に彼女の名前も風に乗って届けられた。
――永川笑愛
それが、言い放った娘の名前だった。
彼女みたいな人なら、私を助けてくれるかもしれない、と思った。でも、そんな希望は捨てた。だって、誰も助けてくれないのは知っているから。痛いほど知っているから。
『いじめられっ子には、いじめられる原因があるからいじめられる』
その言葉が正しいのなら、いじめっ子が、正しいということ。いじめっ子に非がないということ。いじめっ子にいじめる理由がないのに、人をいじめていい、と言っているのと同じこと。
月に一度、必ずいじめや、いやがらせの有無や、ストレスの有無を問う用紙が配られる。けれど、その用紙に正直に書ける人はどれくらいいるのか。
ストレスの有無はともかく、いじめの有無に正直に答えるのには勇気がいる。でないと、自分がいじめられるから。でないと、自分に対するいじめや、いやがらせが酷くなるから。なら、いじめや、いやがらせの有無の欄には、無、と書いたほうがよっぽどいい。だって、有、と書いたら、学年朝礼とか、総合の時間とかで、クラスメイト達と話し合うことになるから。
話し合いで、真剣に話す子は、いじめられていない子。いじめっ子は、見た目だけ真剣に話すだけ。そして、先生がいなくなったときに、いじめをチクったやつは誰だと、詮索する。そして次のいじめはより陰湿に、そしてもっと悪化する。
いやがらせが始まった最初の頃は、自分の馬鹿さを存分に発揮していた。
筆箱のシャーペンの本数が少なくなっているのは、小鳥さんが餌と間違えて持って行ってしまったと本気で思っていたし、廊 下でいやがらせをする張本人とその取り巻きたちとすれ違うたび自分の名前らしきことが囁かれているのは、てっきり、その子のペットと自分の名前がたまたま一緒で、ペットの可愛さを自慢しているのかと思っていた。定期考査の前に教科書類が隠された時は、誰かが間違えて持って行っちゃったんだな、と思っていたし、体操着が隠された時は、体操着を家から持って来たのは‘気’だけで、本体は持ってきていないのかな、等と能天気なことを思っていた。
でも、そう思えたのは、やっぱり最初だけで、日々エスカレートしていく、いやがらせを受けて、身体の節々が痛くなった。 日々エスカレートしていく、いやがらせを受けて、人を信じられなくなった。
誰かとすれ違うたび、自分の名前が囁かれている気がして、コソコソと嗤われている気がして、朝起きるのが辛くなった。誰もが私を、嗤う、嗤う、嗤う。
いつからか、何かものを持とうとするたび、手が震えて、何も持てなくなった。
いやがらせ、はどれも証拠の残らないようなもの。それだけ、と言われるような、そんな陰湿な、いやがらせ。
このぐちゃぐちゃで、とても痛い気持ちはとても‘信じたくない’や‘信じられない’なんて言葉じゃ表せられない。
いつからか、教室に入る時、胃の中がぐちゃぐちゃになって、手足が震えて、呼吸が速くなった。
早く、誰かに、見つけてほしいのに。どこまでも遠くに逃げてしまいたいのに。どこまでも大きく泣き叫びたいのに、その一言が、怖くて言えない。
その、ひらがな四文字が、心から出て、喉で儚く消えた。
学校に行く前に支度をしようにも、手が思うように動かない。朦朧としながら、休んでしまおうか、と何度思ったことか。
それでも、学校に行こうと、身体を奮い起こして、学校に行こうとした。背中にのし掛かっている鉛のようなものを無視して、学校に行く。
いつものように、電車に乗って、学校の最寄り駅で降りて。けれど、学校の最寄り駅が近づくたび、呼吸が浅くなっていった。
足が重くなっていった。
駅について、電車のドアが開いても、前に進むことができなかった。
周りの人は、煩わしそうに私を見て舌打ちをして、歩いていく。
そりゃそうだ。降りもしないくせに、ドアの前で突っ立って。迷惑もいいところだ。
そう思って身体を前に出そうとしても、前に進めなかった。
まるで、自分の時間が止まっているかのように。
どれくらい、その時間が続いたのかは分からない。
ただ、突然、私の止まった時間に終止符を打つように、誰かが背中を力強く押した。そして、誰が押したのか確認する前に、誰かが私の手を引いて歩きだした。
私を引いているのは、同じ制服を着た、長い黒髪を高い所で一つに束ねて、姿勢がよく伸びた、綺麗な女の子。
どれくらい歩いたのか。いつの間にか、私は駅のホームのベンチに座らされていた。
「ねえ、空、見てみて。すごく綺麗な色だよ」
久しぶりに見上げた空は、綺麗な碧色だった。
その女の子は、自己紹介も何もしないで喋りだした。
「ね、曄の海、って漫画、知ってる?」
彼女の言葉にコクリ、と頷く。その途端彼女は、蕾だった花が咲いたかのように笑った。
「あれ、アニメ化するんだって」
有名な漫画だった。きっと、アニメ化ということは、さぞ世間では湧いただろう。なにせ老若男女、どの世代にも愛されている作品だから。
いつもの私なら、これくらいのことは知っていたのかもしれない。でも、全くの初耳だった。
「私、曄の海、大好きなの。漫画も小説も全部家にあるんだよー。読んだことある?」
彼女の言葉に頷いて、あの、と声を出す。その声は自分でもびっくりしそうなほど小さな声で、掠れていた。
「ん?どうしたの?」
「学校……遅れちゃう」
「んー、遅れちゃうというよりかは、もう走っても絶対に遅刻だよ」
「行かないと……ただでさえ馬鹿なのに、成績下がっちゃう」
「君は学校行きたいの?」
唐突に放たれた質問に、言葉を詰まらせる。そんなの行きたくないに決まっていた。
「行きたくないなら、さぼろうよ」
「行かないと……」
「行かなくても、君は頑張っているよ。行こうとしているんだから、それだけで、偉い。私なんてよく無断でさぼるからさ」
彼女は、欲しかった言葉をくれた。だから、ポロリ、と本音が零れた。
「……がっこう、いきたくない」
自分でも聞こえるか聞こえないかぐらいの声音が。少し、嗚咽の混じった、震えるような声が。
彼女の耳に届いたかどうかは分からない。
「よし。じゃ、さぼろう!一人でさぼるのは怖いけれど、二人でさぼれば怖くない!」
明るく笑った彼女は、どうして、だとか、大丈夫か、だとか、何も聞かなかった。
ただ、笑って、私の手を引いて、話をしてくれた。
その言葉に脱力してしまったのか、次の日から、学校に、行けなくなった。
身体が、全く動かなくなった。布団から、一歩も出られなくなった。起きられなくなった。学校のことを考えるだけで、立てなくなった。身体が言うことを聞かなくなった。
学校のことを考えるたび、震えて、声が出なくなった。