「葵は部活、サッカー続けるんだろ?」
「え、なんで?」
思わず飛び出した言葉をかき消すように慌てて明るい声で言う。
「まだ迷ってるんだよね。高校、めっちゃ部活あるから。新しいことやってみるのもアリかなって」
「でも葵うまいじゃん。もったいなくね?」
理解し難いという顔をするので、曖昧に謙遜しつつ尋ね返す。
「浩也はどうすんの?」
「サッカーに決まってんじゃん」
浩也は少しの影もない笑顔で言い切った。
「やる気満々だな。頑張れよ」
そう話を締めようとしたのに、浩也は続ける。
「他人事みたいな言い方すんなよ。迷ったところで、どうせ葵もサッカー部にしちゃうって。オレ、またおまえと一緒にサッカーしてえよ」
心に微かに冷たい風が吹く。
また? 一緒に? 俺はおまえとサッカーした記憶なんてない。
「あ、そうだ。今日の放課後、サッカー部の見学行かね?」
サッカーはもうやらない。部活も入らなくてもいいかも。そう思っていたのに。
「まあ、行くだけ行ってみるか」
その言葉は本心だった。
全てを切り離すことはできなかったんだ。期待のようなものがどこかにあるのだろう。
「見たらぜったいやりたくなると思うぞ」
「そうかもな」
答えながら思う。それでもきっと、入らない。
「一年生? サッカー部見にきてくれた感じ?」
浩也とともにグラウンドをさまよっていると、コートの線を引いていた先輩に声をかけられた。
「そうっす」
無邪気にうなずく浩也に続き、
「はい、俺も」
と付け足しておく。
「嬉しいよ。もし運動着持ってたらやっていってもいいけどどうする? 他の一年生も五人くらい来てるし、よかったら」
「持ってます! やりたいです!」
隣からすぐさま声がする。浩也のワクワク感に満ちた表情に、先輩も少し気を緩ませたのが伝わってくる。そんな空気感を壊すようで申し訳ないが、運動着など持ってきていない。
「俺はないんで、見学だけで」
やりたかったような、やれなくてよかったような。
連れられて部室に行くと鼓動が早まっているのを感じた。気づかれないようそっと深呼吸をする。
視線が集まるなか、浩也は堂々と声をあげた。
「体験しに来た一年です。失礼します」
「今日めっちゃくるやん。二人ともどうぞどうぞ」
なにも言っていない俺も含めて歓迎される。
浩也はすぐに他の一年生と話し始めた。そこで俺も話に参加してみたり、せめて聞いていることをアピールしたりできたらよいのだろう。でも俺はしなかった。さっそく声を出して笑う彼らを感じながら、適当な位置に鞄を置いて、無になる。
ああ、心底自分が嫌だ。
孤独。
俺の中学の部活生活に、そんな重い言葉を当てていいだろうか。きっとダメだ。でも、形をつけたいんだ。そうでもしなきゃ苦しみが正当化されない。
わかってる。俺が苦しむなんて甘え過ぎだと。いじめられたわけでも、無視されたわけでもない。話しかければ答えてくれたし、ペアも偶数の日はなんの問題もなく組めた。奇数の日だって、声をかければ三人組になってくれた。苦しむ要素なんてどこにもない。
ただ一人でいることが多かっただけ。細分化されたグループのどこにも入っていけなかっただけ。たまに無理やり輪に入ってみても、誰の目にも俺が映っていない気がして、勝手に邪魔なんだろうなと判断し、離れていく。それを繰り返すうちに声をかけるのが怖くなっただけ。声をかけないから、一人になっただけ。
誰も悪くない。仕方ない。どちらかといえば、俺のせい。怖くなって諦めて逃げて、自ら無になったから。
さっさとやめればよかったなと思う。求めていたわけではないが、最後まで続けてもプラスになるものはなにも得られなかった。
今あるのは謎の息苦しさだけ。
最後の試合で負けたとき、ようやく解放されると思った。それなのに引退した後も変わらず、いや、当時よりももっと、毎日が息苦しくなった。
案内してもらったベンチからグラウンドを眺める。
掛け声に合わせてランニングをする姿。シュート練。パス練。試合形式。
ビブスを来た人たちが走り回る。自分をアピールする声。ディフェンスを交わし、ボールを蹴る。ゴールの淵に弾き返される。ボールが宙を駆け抜ける。最適なポジションで待つ。ボールを奪う。ネットが揺れた。ゴールを決めた浩也がハイタッチを交わす。
少し安心した。やっぱり俺は、サッカーが嫌いだ。
「先輩、そろそろ帰ります。ありがとうございました」
休憩が終わりかけたとき、そう声をかける。
「おう、わかった。今度は運動着持ってこいよ」
先輩は俺がサッカー部に入ることを確信しているような表情で言った。もう決して来ることはないが、だからこそ「はい」と明るく答えて終える。
「葵、今日は運動着持ってきた?」
翌日、登校してすぐに浩也に尋ねられ、鬱陶しさなのか、めんどくささなのか、はたまた寂しさなのか、よくわからない感情に胸が微かに痛んだ。
「持ってきてない」
と短く答える。
「また忘れたのか? おまえ、よく忘れるよな」
中学のとき、わざと忘れて家に取りに帰る少しの間だけでもサボることがあった。その分休憩時間を減らしてメニューはこなしていたから、浩也は単純に俺を忘れ物が激しい人、と認識していたようだった。
俺は少し躊躇いながら、しかしはっきりと言った。
「高校ではサッカーやらないことに決めたから」
浩也は思い切り顔を顰める。
「なんでだよ。せめて一回ボール触れよ。たぶん思い出すって、中学のとき楽しかったよなあって」
心が少しずつ冷やされ、その冷気が体内を巡るような感覚になる。
浩也には、俺が楽しくサッカーしてるように見えていたのか。浩也にとってあのサッカー部はどのようなものだったのだろう。
「いやまあ、迷ったんだけどさ」
笑って感情を隠す。
「他の部活も味わってみようかなって思って」
浩也は納得していないようだったが、これ以上は聞いてこなかった。聞いたところで意思は揺らがなそうだと感じたのか、説得するほどではないのか。別になんだっていい。これで俺たちはもう、中学のときから知り合いってだけのクラスメイト。
なんで話しかけてきたんだろう。しかも当たり前みたいな顔して。中学の部活ではほとんど関わってなかったのに。
俺の苦しみは誰にも理解されていなかった。そしてこれからも永遠にされない。当たり前か。だって苦しむに値しないんだから。
でも、一人でいるのはつらかった。
入学してからあっというまに三週間が経っていた。風が熱を含み始めている。
クラスではぼんやりとグループが完成し始めた。俺もありがたいことに声をかけてくれた人たちと仲良くやっている。
浩也とは完全にグループが離れた。中学のときだって、サッカー部という共通点がなければ赤の他人だったはずだ。
「ちょっと今日は部活の友達と飯食う約束しててさ」
「おれもミーティングあるんだよね」
昼休み、弁当を持っていつものメンバーで集まろうとするとそう言われ、俺は一人で昼食を取ることになった。
寂しいなどという感情は生まれない。一人は慣れてる。それに一人なのは今日だけ。そんなの怖くない。
なんともない風にふりかけのかかった白米を口に運びつつも、心がざわついている。
孤独に慣れて、孤独に敏感になった。
「ねえね、矢月くん」
突然肩を叩かれて軽くビビる。
振り返ると砂原さんが立っていた。今まで全くと言っていいほど関わりがなかったので少し構える。
「えっと、なに?」
硬くなりながら尋ねると、意外な答えが返ってきた。
「写真部入らない?」
「え……?」
思わずマヌケな声を出す。
砂原さんは早口に続けた。
「今写真部、わたしともう一人しかいなくて。もう少し人がいたら嬉しいなって」
「でも、誘う人なら俺以外にもたくさん……」
「ほとんどみんな他の部活入ってたりバイト始めてたり。矢月くんだけなの。なんというか、入ってくれそうな人」
暇そうだったから誘ったということか。
それでも少し嬉しかった。理由はなんであれ、求められたのだ。
でも、だからと言って「入る」と即答はできなかった。なんとなく怖い。
「矢月くんも、忙しい?」
控えめに聞かれる。
「忙しいというわけじゃないんだけど。高校では部活入るつもりなくて」
誘ってくれたのは嬉しかった。入ると言えば喜んでくれるだろう。
だけど、そんなのは一瞬なのではないか。少し時間が経てば、もう一人の部員と二人きりで楽しむのではないか。たとえそうなったとしても、彼女もその部員も悪くない。話したい人と話す。関わりたい人と関わる。俺を誘ったくせに、なんて言うのは筋違いだ。だから、自分のことは自分で守る。そのつもりだった、のに。
「そっか。急にごめんね」
去っていこうとする砂原さんを、俺は無意識に呼び止めた。怪訝そうな顔が向けられる。
「やっぱり、見学だけでもしにいこうかな」
砂原さんの顔がパッと明るくなった。
「嬉しい。ありがとう」
これを逃したら、もう部活には入れない気がした。傷つきたくない。孤独は嫌だ。でも、これで終わりにはしたくない。
砂原さんに連れられ、緊張しながら写真部の活動する教室に入る。
すでに来ていた男子とガッツリ目が合い萎縮しかけたが、声のトーンをできるだけあげて挨拶をした。
「砂原さんと同じクラスの矢月葵です。砂原さんに誘われて、興味を持ったので見学しに来ました」
どんな反応をされるだろうと鼓動が早まる。が、怖そうな印象を抱いたその人は、
「おれは佐伯、よろしく」
と明るい笑顔を見せた。その様子に心が落ち着く。
砂原さんは俺の前に回り込み、じっと目を見て言った。
「せっかく来てくれたんだし、カメラ触りたいよね? ちょっと待ってて。今持ってくるから」
そして一瞬にして目の前から消えてゆく。カメラは隣の準備室にあるようだ。もっとおとなしくふんわりした人かと思っていたので勢いある行動に少し驚く。
「砂原さんカメラ好きすぎ」
佐伯と名乗った男子は笑いながらツッコミを入れて、
「ほら、座れよ」
と彼の隣の椅子を引いてくれた。
「ありがとうございます」
軽く礼をしつつ腰を下ろすと、
「おれも一年だから敬語なんて使うなよ」
と苦笑される。
「てっきり先輩かと。てことは、この部って一年しかいないの?」
「まあな。砂原さんが新しく作った部活だから」
「すっげえな」
「そうなんだよ」
一瞬の沈黙。ここで話を自然に繋げるようだったら、一人になんてならないんだろうなと思う。
気まずい空気が流れそうになったとき、ちょうどよく砂原さんが戻ってきた。
俺の前に、美しい黒色をした大きなカメラが置かれる。
促されるまま手に取ると、ずっしりとした重みを感じた。
恐る恐る穴を覗く。と、そこは全く別の空間のように見える。
まるで自分はここにいないような。いないことが当たり前のような。自分の存在は誰にも認識されていなくて、だけど本当はここにいるのだとシャッターを切ることで証明できるような、する必要もないような。
「……いいな」
思わず呟く。穴から目を離すとそこはいつも通りの世界だ。俺はここにいて、誰かに気づかれたいと願っている。
「撮らないんかい」
思わずシャッターボタンを押し忘れた俺に佐伯が突っ込む。
「楽しかった?」
砂原さんに問われ、「まあ、うん」と曖昧に返事をした。楽しいというより、穴をのぞいている間は現実から離れられるようで楽だった。たったそれだけの理由だったが、
「じゃあさっそく入部しよ? 届け持ってる? もらってこようか?」
砂原さんは早くもそんなことを言い出した。
「え、もう入部なんて」
と言いつつ、心のどこかで確信していた。
きっと俺はこの部活に入ってしまうのだろう。怖くてももう一度試してみたい。ここでならやっていける気がする。
俺は小さく息を吐き、口を開いた。不思議なほど自然と言葉になった。
「今から入部届もらってくる。俺、写真部に入ってもいいか?」
「もちろん大歓迎だよ」
満面の笑みを浮かべる砂原さんに続くように、佐伯もうなずいてくれた。
空気はやわらかい。新しい毎日が始まる。
「次の土曜日空いてる? よかったら海に行かない? 写真撮りたいんだ」
砂原の誘いにすぐにうなずいた。
五月末の定期試験が終わり、まだ梅雨も来ていない。夏でもないからそんなには混んでいないだろう。海に写真を撮りにいくにはピッタリの季節。
今まではカメラの使い方やテクニックを学んだり、机にのる程度のものや校内の風景を撮影したりしてきた。時に集中し、時に雑談しながら過ごす放課後。活動日である月曜と水曜が異様に楽しみで、そんなふうに思えることが幸せだった。だから土曜日もこのメンバーで過ごせること思うとテンションが上がる。しかも校外なんて、遠足みたいで楽しそうだ。佐伯も予定はないらしく、グループラインで時間やらを決める。すごく楽しみだ。ワクワクする。
が、心には薄いモヤがかかっている。部員と出かける、そのこと自体が、少しだけ怖い。
鮮やかな青の中で、日光に反射した海水が時折り白く煌めく。波の音。鳥の鳴き声。どこまでも広がる水平線。太陽がチリチリと肌を焦がす。迫り来る波にそっと触れる。ひんやりと冷たい。
思わず景色に見惚れていると、
「矢月ー、こっちこっち」
階段の上に手を振る二人の姿が見えた。俺は砂浜を駆けて二人のもとに向かう。
「おはよ。晴れてよかった」
にこりと微笑む砂原はやたらと嬉しそうだ。
「砂原、すごい楽しそう」
と言うと、佐伯が激しく同意した。
「おれもさっき同じこと言っちゃったよ。めっちゃ笑顔だよな」
砂原は少し照れながら答える。
「なんか、今日はいい写真が撮れる気がするんだ」
明るい笑顔に安心している自分がいた。俺の前で楽しそうにしてくれている。良かった、と思う。
「よしっ、じゃあさっそく撮ろっか」
砂原の声で俺たちはカメラを操作し始めた。
とりあえず、目についたものを取っていく。
海が綺麗すぎるためどう映してもいい一枚に思えた。それでも絞りを調節したり光の入り方を変えたりとこれまで砂原に教わったことを参考に試行錯誤する。
時折りお互いに見せ合い感想を言い合った。俺は「綺麗だな」とか「すごい」とかしか言えないが、それでも喜んでくれる。
砂原は俺たちに的確なアドバイスを送ってくれた。仕上がりの設定を変えたり構図を工夫してみたり。言われたことを試すと一気に質が上がり驚く。同じものを同じ人が撮ったというのにこんなに変わるものなのか。
「砂原、これすごいな。さっきのと全然違う。こんなに変わると楽しいよ」
嬉しくなって伝えると、砂原は少しびっくりしたような顔をして、「よかった」と優しい笑みを向けた。
海を一通り撮り終え、場所を移動することにした。少し離れた場所に食べ物屋が揃っているらしく、写真を撮りがてらそこを目指す。
砂原は感性が鋭いのか、些細なものでも題材にしていく。道端の花、どこまでも続いていきそうな長い道、じっとこちらを睨む猫。
砂原が立ち止まるたび、俺と佐伯も何かしら題材を探してシャッターを押す。被らないようにしている部分もあるのだろうが、それぞれが惹かれていくものはいつも違っていた。
一際目を引く海鮮丼屋に入る。
きらきら輝く新鮮そうな刺身がご飯の上に溢れんばかりにのった、やたらと美味しそうなものを注文してから、俺たちは撮った写真を見返した。
「なんかおれ、才能開花したかも」
満足そうにしている佐伯のカメラを覗き込む。今までの技術を適度に取り入れた素敵な切り取り方だった。
「ほんとだ、めっちゃいいじゃん」
「だろ? 矢月のも見せてよ」
俺は佐伯にカメラを渡し、向かいに座る砂原を見る。
「砂原はいいの撮れた?」
砂原は少し迷ってから、首を傾ける。
「どうだろう。これは、いい写真なのかな」
「見てもいいか?」
と聞くと、砂原はカメラを差し出してくれた。その様子を見た佐伯が自分のカメラを砂原に回し、俺たちはそれぞれ他の人の写真を見る。
砂原の写真は俺にとってはどれも素晴らしくいいものに思えた。自分の写真を見返したときにこれらが出てきたら、才能を確信するだろう。それなのに砂原は満足していない様子。
「俺は砂原の写真、すごくいいなって思った。撮るものも撮り方もすごくうまい気がする」
砂原は「ありがとう」と言いつつもどこか晴れない顔をしている。
覗き見た佐伯も「すげえじゃん」と言うがその表情は変わらない。
そこに海鮮丼が到着し、海の匂いに満たされる。砂原のことが気がかりだったが、本人はすぐに「おいしそう」と笑顔になった。
一応写真は撮っておくも、すぐに箸を持つ。
口に入れた途端に広がる旨み。弾力のある食感。海をめいいっぱい感じながら無言で食べ続けた。
あっという間に食べ切ってしまった俺と佐伯を気にしてペースを早める砂原に「ゆっくりでいいよ」と促してから、慎重に言葉を選んで言う。
「俺は砂原の写真、すごく好きだよ。だからなんていうか、もっと自分の写真に自信を持っても良いんじゃないかな」
砂原は一度食べるのをやめ、何か考えてから決意したように口を開いた。
「わたし、中学でも写真部だったんだけど、一年生のとき、コンテストでたまたま賞をもらったんだ。そのあとからわたしの写真が見本、みたいな雰囲気になっちゃって。わたしはただみんなで楽しく写真を撮りたかっただけだったのに、いつのまにかうまく撮ろうって意識するようになってた。そうやって撮ったのがいい写真って言えるのか、わからない」
なんて言えばいいのかわからず一瞬沈黙を作ってしまった。
「急に変な話してごめんね」
作った笑顔で言う砂原に佐伯が答える。
「じゃあ、とにかく今日は思い切り楽しむしかないな」
砂原が首を傾げる。
「一回写真のことは全部忘れて楽しんで、そのノリでテキトーに写真撮ればいいんじゃないかと思う」
「なんか違うような……」
「とりあえずものは試しだ。うまくいかなくかったら、またおれたちでアイデア考えるから」
砂原は少し照れたように「ありがと」と笑った。
何も言えなかった自分が情け無い。俺が振った話なのに、俺にはこんな提案できなかった。すごいなと思うと同時に、こういうところなんだろうなと思う。俺が一人になった理由。
昼食の後は思う存分遊んだ。ソフトクリームを買ったり、砂で山を作ったり。小学生みたいなこともしたけど、それもまた楽しかった。
砂原が楽しむため、みたいに始めたことだったが、俺もものすごくはしゃいだ。
来る前に感じていた部員と遊ぶ憂鬱はいつのまにか吹き飛んでいた。
砂浜に並んで座り、夕日に染まったオレンジ色の海を眺める。少し冷えた風がほおを掠めた。
「二人とも今日はありがと。すごく楽しかった」
「俺のほうこそ、誘ってくれてほんとに感謝してる」
「いい写真を撮りたくて。二人となら撮れる気がして。巻き込んだだけだよ」
「今日だけじゃない。写真部に誘ってくれて、本当にありがとな。俺は最近、ほんとに部活が楽しいんだ」
砂原はハッと顔をあげてじっと俺を見つめて、下を向く。そして小さな、しかしはっきりとした声で言った。
「楽しいって言ってもらえてよかった。写真を撮るのは、楽しいからでなくちゃだよね」
そしてカバンからスマホを取り出す。
「記念写真撮ろう?」
「写真部もけっきょくスマホかよ」
俺たちは海を背景に自撮りする。
「この写真はすごく、いい写真な気がする」
砂原はにっと口角を上げた。
「やっほお葵。おまえが写真部入るなんて意外すぎ」
今日は部長会議とやらで砂原はいない。俺も佐伯もわりかし写真には興味を持ってきていたが、それでもカメラを触る時間は自然と減る。意味もない会話で盛り上がっていたとき、突然開いた扉から浩也が顔を覗かせた。
俺がサッカー部に入らないことを知ってから、というよりきっと、浩也に新しい友達ができてから、俺たちはほとんど関わっていなかった。それなのに今さら何をしに来たのだ。浩也は決して悪い奴じゃない。意図的に俺を傷つけるようなことはしないだろう。たぶん浩也は、俺と仲が良いと思っている。そりゃ、同じ部活で三年間頑張ってきたチームメイトだ。そう思うのが当然かもしれない。でも俺は、浩也を友達だとは思えない。咄嗟に気構えてしまう。
浩也は佐伯を見ると「あっ」と声をあげた。
「おまえもサッカー部見学来てたよな。途中で体調崩して帰ってさ、先輩たち心配してたのにそのまま来ないんだもん。まさか写真部にいたとは」
見学のときにいた一年生の顔なんて誰も覚えていない。こういうところが浩也と俺の差なのだろう。人が寄ってくる人と、いつのまにか一人になる人との。
「サッカー部ね。そういやそんなとこも見学行ったわ」
佐伯は興味なさげに言う。どこか微妙な空気が流れた。
「てか浩也、何しに来たんだよ」
と話を振る。
「いやあ、中練つまんなすぎて抜け出してきた」
「抜け出したって……。おまえ、中学のときはもっと真面目にやってたじゃん」
「調子が上がらないときだってあるだろ?」
「さっさと練習戻れよ」と言っても「いいじゃん、少しぐらい」と粘る浩也をどう断ればいいのかわからず留めてしまう。
「なあ、どんな写真撮ってんの?」
俺のカメラを勝手に取るのでなんとなくイラつき「貸せよ」と取り上げ、ボタンを押す。
「今日はまだ撮ってないけど、この前はこれとか」
「へえ、おまえは何やっても上手いんだな」
浩也にそんなこと言われたのは初めてだった。何を思えばいいのかわからない。
二人だけで話すのも良くない気がして佐伯に話を向ける。
「佐伯のもめっちゃ上手いんだよ。前海で撮ったやつとか、ほんとにすごかった」
「たいしたものじゃないって。ま、浩也くんがどうしても見たいってなら見せてやるけど?」
浩也は躊躇うことなく「見たい、見せてください」と連呼する。
「仕方ないなあ」
カメラを操作する佐伯をワクワクが溢れる瞳で見ている。
「ほら、どうよ?」
海の写真を見つけたらしい佐伯は得意げな顔で画面を見せた。
「なんだこりゃ……。おまえ天才か? すごすぎだろ」
「まあな。おれもこれが撮れたときはそう思ったよ」
「ほんとにすげえわ」
浩也はしばらく無言で画面を見つめていた。佐伯も喜びを隠すように微笑んでいる。
「他のも見てもいいか?」
「これはたまたまだから。他は上手くないけど」
「上手下手とかはどうでもいいって。ただおまえがどんな写真撮るのかすっげえ興味ある」
佐伯は浩也に近くの椅子をすすめつつ、カメラを手渡す。
「このボタン押せばいいから。たまにふざけた写真出てくるかもしんないけど気にしないでくれ」
浩也は一つずつ丁寧に眺めながら、時折り「すげえ」とか「なんだよこれ」とか突っ込んでいる。
少しだけ、心が痛い。
今日会ったばかりで楽しそうな二人を見ていると、息苦しい。
やっぱり俺自身のせいなんだろうな、なんて。
しばらく無言の時間が続いたあと、
「浩也、どこに逃げやがった」
廊下からそんな声が聞こえ、俺たちは互いに顔を見合わせた。
「行ったほうがいいんじゃね?」
佐伯に促され、
「やっぱこれ、そういう雰囲気だよな」
浩也はしぶしぶ立ち上がった。
「まだ全部見終わってないんだけどな」
「見たけりゃ部活オフの日に来いって。怒られる前にさっさと行けよ」
「いやあ、今行っても怒られるだろ」
「それが嫌なら抜け出すなって」
「ごもっともすぎる」
浩也が「じゃ、失礼しました」と出ていった直後、廊下で「おまえなあ」と怒りと呆れを含む声がした。
「バカだなあいつ」
「そうだな」
俺は短く答えて浩也の話を終える。
「もしかして佐伯も中学サッカー部?」
「ああ、まあな。てか矢月もそうなんだろ? びっくりだわ」
「続けようとは思わなかったの?」
佐伯は一瞬静止したが、すぐに「だってよ」と顔を顰めた。
「中学の時の部活、顧問は鬼だし、レギュラー争いバッチバチすぎて友情なんて表面上だけだし。おれ部長だったんだけど、その分顧問にもチームメイトにもキツいことけっこう言われてさ。ミスした日はその後ガン無視だぜ? やばいだろ。正直、めっちゃつらかった」
俺もつらかったんだ、なんて同調できるわけがなかった。佐伯は俺なんかよりずっと上の次元で苦しみ傷ついてきたんだ。部活で一人のことが多かった。そんなの、つらいに入るわけもない。
「それ、ほんとにキツそうだな」
「そうなんだよ」
佐伯は軽い声で言う。
「まともに合わせてたらおかしくなりそうだった。ちょーギリギリ」
笑う姿が余計に痛々しい。
「それでも見学には行ったんだな」
「サッカー自体は好きだったから。高校に入ったら思う存分楽しもう、そのために今は耐えようって中学時代過ごしてきたくらい、本気で入るつもりでいた。なのに、ボール触ってたら気持ち悪くなってさ。こりゃできねえなって思った。当時ですらこんなに顕著にあらわれたことなかったのに。だから無理だって割り切れてた」
佐伯は軽く息を吐き、声のトーンを落として「でも」と続けた。
「さっきの人と話してたら、ちょっとサッカー部入っても良かったかなって思った」
心に小さな針が刺さる。
「だってあいつ、不真面目だけど良い奴そうだった。最初は身体が拒絶しても、やっていけば慣れたかもしれない。そしたら、今のおれはまだサッカーしてたのかな、なんて」
「……なんか、ごめんな」
思わず言ってしまった。
俺は浩也のいるサッカー部になんてぜったいに入りたくない。いつも誰かに囲まれていて、自ら輪に飛び込んでいけて、そんな能力があるのに俺が輪に入ろうとしても受け入れてはくれなくて、そのくせずっと仲良しだったみたいに今は話しかけてくる。
原因は俺にあるのかもしれない。そう考えるべき、というか、それが事実であるということはわかっている。だってみんなは仲が良くて、俺だけが一人だから。だから俺が変なのだと。だけどそう思うとつらいから、あいつらが酷い奴なんだと思うようにしていた。
でも、今はっきりと真実を突きつけられたような気がした。佐伯は俺とも楽しそうに話してくれる。おそらくは本心から笑ってくれているだろう。だけど浩也とならもっと楽しい時間を過ごせたはずだ。
もしも中学のとき、俺じゃなくて佐伯がいたら、きっと二人は仲良く楽しくサッカーをしていたんだろうな。
もしもここにいるのが俺じゃなくて浩也だったら、佐伯はサッカーを続けた自分のことなんて考えなかったのかな。
今ここにいるのが俺で、ただただ申し訳ない。
「おいおい、なんで謝るんだよ」
佐伯が苦笑する。
全部気持ちを吐き出してしまえば楽になるだろうか。でもそんなこと言ったら、嘘でも俺に優しい言葉をかけてくれるだろうから言えない。
「なんでだろうな。俺にもわかんない。忘れてくれ」
心の奥がゾクっとして、一瞬寒気のようなものに包まれる。
腕を反対の手で強く握り、気持ちを落ち着かせる。
「矢月こそ、なんでサッカー続けなかったの?」
「単純に飽きたんだよ」
言ってしまいたい。外に、俺の苦しみを出してしまいたい。でも言わない。言えない。心の中でバカにされるだろう。それが怖い。けっきょくいつまでも俺は弱い。
「飽きるまでやり切るってすげえな」
「まあね」
息苦しい。なんて、思うべきじゃないよな。
十一月中旬、冷たい風を感じながら、サッカースタジアムに来た。サッカー部が県大会の決勝戦に出ることになったからだ。もちろん個人的な応援などではなく、写真部として掲示板に飾る用の写真を撮るためである。俺は断りたい気持ちでいっぱいだったが、佐伯が乗り気に「行こ行こ」と言うものだから、それに合わせるしかなくなった。
芝生の上で黄色と赤のユニフォームがそれぞれアップを始めている。
「うちは黄色だよ。勝てるといいね」
カメラをギュッと握りしめる砂原に、
「応援しすぎて写真撮るの忘れそう」
佐伯は無邪気にそんなことを言う。
サッカー部に入っていたら、俺も今頃あっち側でボールを回していたんだろうな。だからなんだって感じだけど。
ボールが足に吸い付く。ディフェンスを交わす。味方に向かって高く蹴り上げる。ゴール前に走る。シュートを決める。
小学二年生の頃から八年間続けた。サッカーの動作を見れば自然と身体が感覚を思い出す。微かな心の痛みともに。
笛の音が会場に響き渡る。
「始まった!」
砂原は楽しそうに声をあげてさっそくカメラを構える。俺もそれに続きカメラを持ち上げた。カメラ越しに見る世界の方が、きっと綺麗に見えるだろう。
そんな俺たちとは引き換えに佐伯は「そこ抜けろ」「逆サイッ」「今のはしゃあない」などと一人盛り上がっている。
俺もそういうテンションで見るべきだろうか。見れるようになったほうが良いのは確かだが、そんな気分にはなれない。
前半終盤、一気に動いた。うちの高校の選手がディフェンスを切り離す。こっちのほうが確実に人数が多い。パスを呼ぶ声、ベンチの応援にも一層熱が入る。
砂原はシャッターチャンスを逃すまいと集中力を上げ、佐伯は戦略を叫んでいる。
俺はとりあえずカメラを構え、ボールを持っている人の姿を数枚撮っておく。
ああ、俺は今何を感じるべきなのだろうか。
「よっしゃそこナイス」
佐伯の叫ぶような応援に一瞬びくりとなる。
「ねばれねばれ、今、うわ、平気平気、よし、オッケーオッケー」
どうしてこんなにも切ない気持ちになるのだろう。
深呼吸してカメラを握り直す。
「打て!」
佐伯の声と同じとき、選手がボールを蹴りあげた。鋭い球がゴールに向かって一直線に進んでいく。
隣ではシャッターを連打する音。
ボールはゴールの中へ吸い込まれていった。キーパーの指先が触れるか触れないかのところをすり抜けて。
「おっしゃあ」
隣の佐伯と同様、会場全体が一段と盛り上がる。
カメラを通してシュートを決めた選手を見た。嬉しそうだ。そこに飛び込んでくるチームメイトも全身で喜びを表す。綺麗で美しい風景。何度かシャッターを押し、いったんカメラから目を離す。
「マジすげえよな」
興奮を隠せない様子の佐伯がまっすぐな瞳で俺を見た。
「ほんとにすげえ」
俺も冷めさせないよう精一杯テンションを上げる。
思い返せば中学のときから俺はこうなった。みんなが本気で盛り上がるなか、俺の心は静かだった。それでも合わせて喜んだり悲しんだりする。感情を共有する相手なんていなくても、空気を読むのは大切だ。
「矢月ももっと盛り上がっていんだぜ?」
「ああ」
明るく笑ったつもりだったが、佐伯は不安そうに俺を覗き込む。
「どうした? こういう会場とか苦手?」
「そんなことない」と慌てて否定する。俺が勝手に苦しみ、そのせいで相手に気を遣わせるなんてあってはならない。
「それより佐伯は平気?」
朝からテンションが高いため無理をしているのではないかと少し心配していた。が、佐伯は親指を立てる。
「前、矢月に話しただろ? あれでさ、なんか急にスッキリしたんだ」
その言葉は本当のように感じられた。
心にあたたかい空気が流れ込む。よかったと心底思った。
「矢月もさ、なんかあるなら言えよ」
全部吐き出してしまいたくなる。俺のしょうもない苦しみを。言えば楽になるかも知れない。解放されるかも知れない。でも今はまだそんな勇気ない。
「ありがと。いつか頼るかも」
俺はあっさりと笑って話を終えた。
フィールドで選手たちが泣いている。
試合は負けた。後半、続けて二点入れられ、巻き返すこともできずに終わった。
「これは悔しいな……。ま、帰るか」
ゾロゾロと立ち上がる観客の流れに乗って佐伯が立ち上がる。
「うちもすごかったよね。良い写真たくさん撮れた」
砂原は涙声だ。
「負けた試合、掲示板に飾っていいのか?」
「決勝戦だよ? すごいことだよ」
二人の会話がぼんやりと聞こえる。
写真を確認するふりをしてずっと下を向いていた俺に、二人の視線が刺さった。
「大丈夫か?」
声にうなずき見上げると、佐伯の顔が涙で滲んだ。
「ちょ、たいして興味なさそうに見てたのに泣くなよ」
砂原も驚いたように俺の顔を見て「ほんとだ」と微笑む。
俺だって泣くつもりなんてなかった。感動したわけでも悔しかったわけでもない。嬉し涙なんて失礼な真似はしないし、悲しいことも起きてない。
ただ心が荒れていた。理由もきっかけもない。
なぜ泣いたのか、自分でもわからなかった。本当にわからないまま、しばらく歯を食いしばって泣いた。
「試合の写真、プリントできたよ」
並べられる写真を見るため机を囲む。
「すっげえ、めっちゃいい写真撮れてるやん」
フィールド全体、チームプレー、個人の表情。様々な写真が並べられる。
「なんかおれ、どの写真も撮った気しないな」
不思議そうにする佐伯に砂原が苦笑いで返す。
「撮れてたの、前の人のつむじが映った二枚だけだったから」
佐伯は「なんでだろうな」と誤魔化そうとするも頭を下げる。
「試合に夢中になりすぎた」
「ずっと隣で喋ってるからすげえなって思ってた」
「なんかバカにしてね?」
どうでもいことを話し、ちょっとしたことで大笑いする。幸せな時間だった。
「あのさ」
そんな空気を切るように、俺は思わず口を開いた。
なぜ今なのかはわからなかった。でも、今なら言って良いんじゃないかって思った。
「中学のとき、部活、つらかったんだよね」
軽い声が出た。一瞬驚いた顔をした二人も、険しい表情にはなっていない。
「急にごめん。もう終わったことなのに、いつもどこかに引っかかってて。……部活のとき、ずっと一人だった。嫌がらせされてたとかじゃないし、ほんとにただ一人だったってだけで、たいしたことじゃないんだけどさ。でも、つらくて」
鼻の奥がツンとする。
言ってしまった。鼓動が早まる。少しの恐怖と、心に薄く張っていた氷が溶けていくような感覚。
「わたし、やっと矢月が心を開いてくれた気がして嬉しい。一人は、きっとすごく寂しいよ」
「矢月に話して楽になれたの、おまえも苦しんでたからなのかもな」
どう思われただろうか。だけど今はそんなこと放っておこう。ずっと隠してきた。俺は苦しかった。誰かに、二人に、そのことを知ってほしい。
「ねえ、これ見て!」
砂原が一枚の写真を指さして明るく言った。
佐伯とともに覗き込んで見ると、それは俺が撮ったものだった。
シュートを決めた直後の、選手全員が満面の笑みで駆け寄り喜びを共有し合っている姿が、うまい具合に小さな長方形の中に収まっている。
なんとなく心が重くなる。これはきっと、俺の理想と嫉妬の混ざった一枚。
いや、違うかもしれない。ずっと前、サッカーが楽しくて仕方なくて、チームメイトを仲間だと思っていたまっすぐな俺の姿と重なるような気がした。
「この写真、矢月だからこそ撮れた写真だよね」
砂原がにこりと優しく微笑んだ。
その言葉は、俺の今までの痛みと努力を受け入れてくれたように感じた。
サッカーの痛みを知っている。たくさん努力した。部活をやりたくてたまらない日があって、いつしか早く離れたいと思うようになって。チームメイトのことは大嫌いだったはずなのに、彼らのことをどこかで信じていた。
シュートを決めたときの快楽。みんなが俺を囲んで一緒に喜んでくれる。だけど、試合が終わればいつの間にか一人きり。
ぐちゃぐちゃで、今となっては何の意味もないと思っていたつらさが、ようやく報われたような気がする。
俺は明日からも、俺の写真を撮ろうと思う。俺を受け入れてくれた二人とともに。
「え、なんで?」
思わず飛び出した言葉をかき消すように慌てて明るい声で言う。
「まだ迷ってるんだよね。高校、めっちゃ部活あるから。新しいことやってみるのもアリかなって」
「でも葵うまいじゃん。もったいなくね?」
理解し難いという顔をするので、曖昧に謙遜しつつ尋ね返す。
「浩也はどうすんの?」
「サッカーに決まってんじゃん」
浩也は少しの影もない笑顔で言い切った。
「やる気満々だな。頑張れよ」
そう話を締めようとしたのに、浩也は続ける。
「他人事みたいな言い方すんなよ。迷ったところで、どうせ葵もサッカー部にしちゃうって。オレ、またおまえと一緒にサッカーしてえよ」
心に微かに冷たい風が吹く。
また? 一緒に? 俺はおまえとサッカーした記憶なんてない。
「あ、そうだ。今日の放課後、サッカー部の見学行かね?」
サッカーはもうやらない。部活も入らなくてもいいかも。そう思っていたのに。
「まあ、行くだけ行ってみるか」
その言葉は本心だった。
全てを切り離すことはできなかったんだ。期待のようなものがどこかにあるのだろう。
「見たらぜったいやりたくなると思うぞ」
「そうかもな」
答えながら思う。それでもきっと、入らない。
「一年生? サッカー部見にきてくれた感じ?」
浩也とともにグラウンドをさまよっていると、コートの線を引いていた先輩に声をかけられた。
「そうっす」
無邪気にうなずく浩也に続き、
「はい、俺も」
と付け足しておく。
「嬉しいよ。もし運動着持ってたらやっていってもいいけどどうする? 他の一年生も五人くらい来てるし、よかったら」
「持ってます! やりたいです!」
隣からすぐさま声がする。浩也のワクワク感に満ちた表情に、先輩も少し気を緩ませたのが伝わってくる。そんな空気感を壊すようで申し訳ないが、運動着など持ってきていない。
「俺はないんで、見学だけで」
やりたかったような、やれなくてよかったような。
連れられて部室に行くと鼓動が早まっているのを感じた。気づかれないようそっと深呼吸をする。
視線が集まるなか、浩也は堂々と声をあげた。
「体験しに来た一年です。失礼します」
「今日めっちゃくるやん。二人ともどうぞどうぞ」
なにも言っていない俺も含めて歓迎される。
浩也はすぐに他の一年生と話し始めた。そこで俺も話に参加してみたり、せめて聞いていることをアピールしたりできたらよいのだろう。でも俺はしなかった。さっそく声を出して笑う彼らを感じながら、適当な位置に鞄を置いて、無になる。
ああ、心底自分が嫌だ。
孤独。
俺の中学の部活生活に、そんな重い言葉を当てていいだろうか。きっとダメだ。でも、形をつけたいんだ。そうでもしなきゃ苦しみが正当化されない。
わかってる。俺が苦しむなんて甘え過ぎだと。いじめられたわけでも、無視されたわけでもない。話しかければ答えてくれたし、ペアも偶数の日はなんの問題もなく組めた。奇数の日だって、声をかければ三人組になってくれた。苦しむ要素なんてどこにもない。
ただ一人でいることが多かっただけ。細分化されたグループのどこにも入っていけなかっただけ。たまに無理やり輪に入ってみても、誰の目にも俺が映っていない気がして、勝手に邪魔なんだろうなと判断し、離れていく。それを繰り返すうちに声をかけるのが怖くなっただけ。声をかけないから、一人になっただけ。
誰も悪くない。仕方ない。どちらかといえば、俺のせい。怖くなって諦めて逃げて、自ら無になったから。
さっさとやめればよかったなと思う。求めていたわけではないが、最後まで続けてもプラスになるものはなにも得られなかった。
今あるのは謎の息苦しさだけ。
最後の試合で負けたとき、ようやく解放されると思った。それなのに引退した後も変わらず、いや、当時よりももっと、毎日が息苦しくなった。
案内してもらったベンチからグラウンドを眺める。
掛け声に合わせてランニングをする姿。シュート練。パス練。試合形式。
ビブスを来た人たちが走り回る。自分をアピールする声。ディフェンスを交わし、ボールを蹴る。ゴールの淵に弾き返される。ボールが宙を駆け抜ける。最適なポジションで待つ。ボールを奪う。ネットが揺れた。ゴールを決めた浩也がハイタッチを交わす。
少し安心した。やっぱり俺は、サッカーが嫌いだ。
「先輩、そろそろ帰ります。ありがとうございました」
休憩が終わりかけたとき、そう声をかける。
「おう、わかった。今度は運動着持ってこいよ」
先輩は俺がサッカー部に入ることを確信しているような表情で言った。もう決して来ることはないが、だからこそ「はい」と明るく答えて終える。
「葵、今日は運動着持ってきた?」
翌日、登校してすぐに浩也に尋ねられ、鬱陶しさなのか、めんどくささなのか、はたまた寂しさなのか、よくわからない感情に胸が微かに痛んだ。
「持ってきてない」
と短く答える。
「また忘れたのか? おまえ、よく忘れるよな」
中学のとき、わざと忘れて家に取りに帰る少しの間だけでもサボることがあった。その分休憩時間を減らしてメニューはこなしていたから、浩也は単純に俺を忘れ物が激しい人、と認識していたようだった。
俺は少し躊躇いながら、しかしはっきりと言った。
「高校ではサッカーやらないことに決めたから」
浩也は思い切り顔を顰める。
「なんでだよ。せめて一回ボール触れよ。たぶん思い出すって、中学のとき楽しかったよなあって」
心が少しずつ冷やされ、その冷気が体内を巡るような感覚になる。
浩也には、俺が楽しくサッカーしてるように見えていたのか。浩也にとってあのサッカー部はどのようなものだったのだろう。
「いやまあ、迷ったんだけどさ」
笑って感情を隠す。
「他の部活も味わってみようかなって思って」
浩也は納得していないようだったが、これ以上は聞いてこなかった。聞いたところで意思は揺らがなそうだと感じたのか、説得するほどではないのか。別になんだっていい。これで俺たちはもう、中学のときから知り合いってだけのクラスメイト。
なんで話しかけてきたんだろう。しかも当たり前みたいな顔して。中学の部活ではほとんど関わってなかったのに。
俺の苦しみは誰にも理解されていなかった。そしてこれからも永遠にされない。当たり前か。だって苦しむに値しないんだから。
でも、一人でいるのはつらかった。
入学してからあっというまに三週間が経っていた。風が熱を含み始めている。
クラスではぼんやりとグループが完成し始めた。俺もありがたいことに声をかけてくれた人たちと仲良くやっている。
浩也とは完全にグループが離れた。中学のときだって、サッカー部という共通点がなければ赤の他人だったはずだ。
「ちょっと今日は部活の友達と飯食う約束しててさ」
「おれもミーティングあるんだよね」
昼休み、弁当を持っていつものメンバーで集まろうとするとそう言われ、俺は一人で昼食を取ることになった。
寂しいなどという感情は生まれない。一人は慣れてる。それに一人なのは今日だけ。そんなの怖くない。
なんともない風にふりかけのかかった白米を口に運びつつも、心がざわついている。
孤独に慣れて、孤独に敏感になった。
「ねえね、矢月くん」
突然肩を叩かれて軽くビビる。
振り返ると砂原さんが立っていた。今まで全くと言っていいほど関わりがなかったので少し構える。
「えっと、なに?」
硬くなりながら尋ねると、意外な答えが返ってきた。
「写真部入らない?」
「え……?」
思わずマヌケな声を出す。
砂原さんは早口に続けた。
「今写真部、わたしともう一人しかいなくて。もう少し人がいたら嬉しいなって」
「でも、誘う人なら俺以外にもたくさん……」
「ほとんどみんな他の部活入ってたりバイト始めてたり。矢月くんだけなの。なんというか、入ってくれそうな人」
暇そうだったから誘ったということか。
それでも少し嬉しかった。理由はなんであれ、求められたのだ。
でも、だからと言って「入る」と即答はできなかった。なんとなく怖い。
「矢月くんも、忙しい?」
控えめに聞かれる。
「忙しいというわけじゃないんだけど。高校では部活入るつもりなくて」
誘ってくれたのは嬉しかった。入ると言えば喜んでくれるだろう。
だけど、そんなのは一瞬なのではないか。少し時間が経てば、もう一人の部員と二人きりで楽しむのではないか。たとえそうなったとしても、彼女もその部員も悪くない。話したい人と話す。関わりたい人と関わる。俺を誘ったくせに、なんて言うのは筋違いだ。だから、自分のことは自分で守る。そのつもりだった、のに。
「そっか。急にごめんね」
去っていこうとする砂原さんを、俺は無意識に呼び止めた。怪訝そうな顔が向けられる。
「やっぱり、見学だけでもしにいこうかな」
砂原さんの顔がパッと明るくなった。
「嬉しい。ありがとう」
これを逃したら、もう部活には入れない気がした。傷つきたくない。孤独は嫌だ。でも、これで終わりにはしたくない。
砂原さんに連れられ、緊張しながら写真部の活動する教室に入る。
すでに来ていた男子とガッツリ目が合い萎縮しかけたが、声のトーンをできるだけあげて挨拶をした。
「砂原さんと同じクラスの矢月葵です。砂原さんに誘われて、興味を持ったので見学しに来ました」
どんな反応をされるだろうと鼓動が早まる。が、怖そうな印象を抱いたその人は、
「おれは佐伯、よろしく」
と明るい笑顔を見せた。その様子に心が落ち着く。
砂原さんは俺の前に回り込み、じっと目を見て言った。
「せっかく来てくれたんだし、カメラ触りたいよね? ちょっと待ってて。今持ってくるから」
そして一瞬にして目の前から消えてゆく。カメラは隣の準備室にあるようだ。もっとおとなしくふんわりした人かと思っていたので勢いある行動に少し驚く。
「砂原さんカメラ好きすぎ」
佐伯と名乗った男子は笑いながらツッコミを入れて、
「ほら、座れよ」
と彼の隣の椅子を引いてくれた。
「ありがとうございます」
軽く礼をしつつ腰を下ろすと、
「おれも一年だから敬語なんて使うなよ」
と苦笑される。
「てっきり先輩かと。てことは、この部って一年しかいないの?」
「まあな。砂原さんが新しく作った部活だから」
「すっげえな」
「そうなんだよ」
一瞬の沈黙。ここで話を自然に繋げるようだったら、一人になんてならないんだろうなと思う。
気まずい空気が流れそうになったとき、ちょうどよく砂原さんが戻ってきた。
俺の前に、美しい黒色をした大きなカメラが置かれる。
促されるまま手に取ると、ずっしりとした重みを感じた。
恐る恐る穴を覗く。と、そこは全く別の空間のように見える。
まるで自分はここにいないような。いないことが当たり前のような。自分の存在は誰にも認識されていなくて、だけど本当はここにいるのだとシャッターを切ることで証明できるような、する必要もないような。
「……いいな」
思わず呟く。穴から目を離すとそこはいつも通りの世界だ。俺はここにいて、誰かに気づかれたいと願っている。
「撮らないんかい」
思わずシャッターボタンを押し忘れた俺に佐伯が突っ込む。
「楽しかった?」
砂原さんに問われ、「まあ、うん」と曖昧に返事をした。楽しいというより、穴をのぞいている間は現実から離れられるようで楽だった。たったそれだけの理由だったが、
「じゃあさっそく入部しよ? 届け持ってる? もらってこようか?」
砂原さんは早くもそんなことを言い出した。
「え、もう入部なんて」
と言いつつ、心のどこかで確信していた。
きっと俺はこの部活に入ってしまうのだろう。怖くてももう一度試してみたい。ここでならやっていける気がする。
俺は小さく息を吐き、口を開いた。不思議なほど自然と言葉になった。
「今から入部届もらってくる。俺、写真部に入ってもいいか?」
「もちろん大歓迎だよ」
満面の笑みを浮かべる砂原さんに続くように、佐伯もうなずいてくれた。
空気はやわらかい。新しい毎日が始まる。
「次の土曜日空いてる? よかったら海に行かない? 写真撮りたいんだ」
砂原の誘いにすぐにうなずいた。
五月末の定期試験が終わり、まだ梅雨も来ていない。夏でもないからそんなには混んでいないだろう。海に写真を撮りにいくにはピッタリの季節。
今まではカメラの使い方やテクニックを学んだり、机にのる程度のものや校内の風景を撮影したりしてきた。時に集中し、時に雑談しながら過ごす放課後。活動日である月曜と水曜が異様に楽しみで、そんなふうに思えることが幸せだった。だから土曜日もこのメンバーで過ごせること思うとテンションが上がる。しかも校外なんて、遠足みたいで楽しそうだ。佐伯も予定はないらしく、グループラインで時間やらを決める。すごく楽しみだ。ワクワクする。
が、心には薄いモヤがかかっている。部員と出かける、そのこと自体が、少しだけ怖い。
鮮やかな青の中で、日光に反射した海水が時折り白く煌めく。波の音。鳥の鳴き声。どこまでも広がる水平線。太陽がチリチリと肌を焦がす。迫り来る波にそっと触れる。ひんやりと冷たい。
思わず景色に見惚れていると、
「矢月ー、こっちこっち」
階段の上に手を振る二人の姿が見えた。俺は砂浜を駆けて二人のもとに向かう。
「おはよ。晴れてよかった」
にこりと微笑む砂原はやたらと嬉しそうだ。
「砂原、すごい楽しそう」
と言うと、佐伯が激しく同意した。
「おれもさっき同じこと言っちゃったよ。めっちゃ笑顔だよな」
砂原は少し照れながら答える。
「なんか、今日はいい写真が撮れる気がするんだ」
明るい笑顔に安心している自分がいた。俺の前で楽しそうにしてくれている。良かった、と思う。
「よしっ、じゃあさっそく撮ろっか」
砂原の声で俺たちはカメラを操作し始めた。
とりあえず、目についたものを取っていく。
海が綺麗すぎるためどう映してもいい一枚に思えた。それでも絞りを調節したり光の入り方を変えたりとこれまで砂原に教わったことを参考に試行錯誤する。
時折りお互いに見せ合い感想を言い合った。俺は「綺麗だな」とか「すごい」とかしか言えないが、それでも喜んでくれる。
砂原は俺たちに的確なアドバイスを送ってくれた。仕上がりの設定を変えたり構図を工夫してみたり。言われたことを試すと一気に質が上がり驚く。同じものを同じ人が撮ったというのにこんなに変わるものなのか。
「砂原、これすごいな。さっきのと全然違う。こんなに変わると楽しいよ」
嬉しくなって伝えると、砂原は少しびっくりしたような顔をして、「よかった」と優しい笑みを向けた。
海を一通り撮り終え、場所を移動することにした。少し離れた場所に食べ物屋が揃っているらしく、写真を撮りがてらそこを目指す。
砂原は感性が鋭いのか、些細なものでも題材にしていく。道端の花、どこまでも続いていきそうな長い道、じっとこちらを睨む猫。
砂原が立ち止まるたび、俺と佐伯も何かしら題材を探してシャッターを押す。被らないようにしている部分もあるのだろうが、それぞれが惹かれていくものはいつも違っていた。
一際目を引く海鮮丼屋に入る。
きらきら輝く新鮮そうな刺身がご飯の上に溢れんばかりにのった、やたらと美味しそうなものを注文してから、俺たちは撮った写真を見返した。
「なんかおれ、才能開花したかも」
満足そうにしている佐伯のカメラを覗き込む。今までの技術を適度に取り入れた素敵な切り取り方だった。
「ほんとだ、めっちゃいいじゃん」
「だろ? 矢月のも見せてよ」
俺は佐伯にカメラを渡し、向かいに座る砂原を見る。
「砂原はいいの撮れた?」
砂原は少し迷ってから、首を傾ける。
「どうだろう。これは、いい写真なのかな」
「見てもいいか?」
と聞くと、砂原はカメラを差し出してくれた。その様子を見た佐伯が自分のカメラを砂原に回し、俺たちはそれぞれ他の人の写真を見る。
砂原の写真は俺にとってはどれも素晴らしくいいものに思えた。自分の写真を見返したときにこれらが出てきたら、才能を確信するだろう。それなのに砂原は満足していない様子。
「俺は砂原の写真、すごくいいなって思った。撮るものも撮り方もすごくうまい気がする」
砂原は「ありがとう」と言いつつもどこか晴れない顔をしている。
覗き見た佐伯も「すげえじゃん」と言うがその表情は変わらない。
そこに海鮮丼が到着し、海の匂いに満たされる。砂原のことが気がかりだったが、本人はすぐに「おいしそう」と笑顔になった。
一応写真は撮っておくも、すぐに箸を持つ。
口に入れた途端に広がる旨み。弾力のある食感。海をめいいっぱい感じながら無言で食べ続けた。
あっという間に食べ切ってしまった俺と佐伯を気にしてペースを早める砂原に「ゆっくりでいいよ」と促してから、慎重に言葉を選んで言う。
「俺は砂原の写真、すごく好きだよ。だからなんていうか、もっと自分の写真に自信を持っても良いんじゃないかな」
砂原は一度食べるのをやめ、何か考えてから決意したように口を開いた。
「わたし、中学でも写真部だったんだけど、一年生のとき、コンテストでたまたま賞をもらったんだ。そのあとからわたしの写真が見本、みたいな雰囲気になっちゃって。わたしはただみんなで楽しく写真を撮りたかっただけだったのに、いつのまにかうまく撮ろうって意識するようになってた。そうやって撮ったのがいい写真って言えるのか、わからない」
なんて言えばいいのかわからず一瞬沈黙を作ってしまった。
「急に変な話してごめんね」
作った笑顔で言う砂原に佐伯が答える。
「じゃあ、とにかく今日は思い切り楽しむしかないな」
砂原が首を傾げる。
「一回写真のことは全部忘れて楽しんで、そのノリでテキトーに写真撮ればいいんじゃないかと思う」
「なんか違うような……」
「とりあえずものは試しだ。うまくいかなくかったら、またおれたちでアイデア考えるから」
砂原は少し照れたように「ありがと」と笑った。
何も言えなかった自分が情け無い。俺が振った話なのに、俺にはこんな提案できなかった。すごいなと思うと同時に、こういうところなんだろうなと思う。俺が一人になった理由。
昼食の後は思う存分遊んだ。ソフトクリームを買ったり、砂で山を作ったり。小学生みたいなこともしたけど、それもまた楽しかった。
砂原が楽しむため、みたいに始めたことだったが、俺もものすごくはしゃいだ。
来る前に感じていた部員と遊ぶ憂鬱はいつのまにか吹き飛んでいた。
砂浜に並んで座り、夕日に染まったオレンジ色の海を眺める。少し冷えた風がほおを掠めた。
「二人とも今日はありがと。すごく楽しかった」
「俺のほうこそ、誘ってくれてほんとに感謝してる」
「いい写真を撮りたくて。二人となら撮れる気がして。巻き込んだだけだよ」
「今日だけじゃない。写真部に誘ってくれて、本当にありがとな。俺は最近、ほんとに部活が楽しいんだ」
砂原はハッと顔をあげてじっと俺を見つめて、下を向く。そして小さな、しかしはっきりとした声で言った。
「楽しいって言ってもらえてよかった。写真を撮るのは、楽しいからでなくちゃだよね」
そしてカバンからスマホを取り出す。
「記念写真撮ろう?」
「写真部もけっきょくスマホかよ」
俺たちは海を背景に自撮りする。
「この写真はすごく、いい写真な気がする」
砂原はにっと口角を上げた。
「やっほお葵。おまえが写真部入るなんて意外すぎ」
今日は部長会議とやらで砂原はいない。俺も佐伯もわりかし写真には興味を持ってきていたが、それでもカメラを触る時間は自然と減る。意味もない会話で盛り上がっていたとき、突然開いた扉から浩也が顔を覗かせた。
俺がサッカー部に入らないことを知ってから、というよりきっと、浩也に新しい友達ができてから、俺たちはほとんど関わっていなかった。それなのに今さら何をしに来たのだ。浩也は決して悪い奴じゃない。意図的に俺を傷つけるようなことはしないだろう。たぶん浩也は、俺と仲が良いと思っている。そりゃ、同じ部活で三年間頑張ってきたチームメイトだ。そう思うのが当然かもしれない。でも俺は、浩也を友達だとは思えない。咄嗟に気構えてしまう。
浩也は佐伯を見ると「あっ」と声をあげた。
「おまえもサッカー部見学来てたよな。途中で体調崩して帰ってさ、先輩たち心配してたのにそのまま来ないんだもん。まさか写真部にいたとは」
見学のときにいた一年生の顔なんて誰も覚えていない。こういうところが浩也と俺の差なのだろう。人が寄ってくる人と、いつのまにか一人になる人との。
「サッカー部ね。そういやそんなとこも見学行ったわ」
佐伯は興味なさげに言う。どこか微妙な空気が流れた。
「てか浩也、何しに来たんだよ」
と話を振る。
「いやあ、中練つまんなすぎて抜け出してきた」
「抜け出したって……。おまえ、中学のときはもっと真面目にやってたじゃん」
「調子が上がらないときだってあるだろ?」
「さっさと練習戻れよ」と言っても「いいじゃん、少しぐらい」と粘る浩也をどう断ればいいのかわからず留めてしまう。
「なあ、どんな写真撮ってんの?」
俺のカメラを勝手に取るのでなんとなくイラつき「貸せよ」と取り上げ、ボタンを押す。
「今日はまだ撮ってないけど、この前はこれとか」
「へえ、おまえは何やっても上手いんだな」
浩也にそんなこと言われたのは初めてだった。何を思えばいいのかわからない。
二人だけで話すのも良くない気がして佐伯に話を向ける。
「佐伯のもめっちゃ上手いんだよ。前海で撮ったやつとか、ほんとにすごかった」
「たいしたものじゃないって。ま、浩也くんがどうしても見たいってなら見せてやるけど?」
浩也は躊躇うことなく「見たい、見せてください」と連呼する。
「仕方ないなあ」
カメラを操作する佐伯をワクワクが溢れる瞳で見ている。
「ほら、どうよ?」
海の写真を見つけたらしい佐伯は得意げな顔で画面を見せた。
「なんだこりゃ……。おまえ天才か? すごすぎだろ」
「まあな。おれもこれが撮れたときはそう思ったよ」
「ほんとにすげえわ」
浩也はしばらく無言で画面を見つめていた。佐伯も喜びを隠すように微笑んでいる。
「他のも見てもいいか?」
「これはたまたまだから。他は上手くないけど」
「上手下手とかはどうでもいいって。ただおまえがどんな写真撮るのかすっげえ興味ある」
佐伯は浩也に近くの椅子をすすめつつ、カメラを手渡す。
「このボタン押せばいいから。たまにふざけた写真出てくるかもしんないけど気にしないでくれ」
浩也は一つずつ丁寧に眺めながら、時折り「すげえ」とか「なんだよこれ」とか突っ込んでいる。
少しだけ、心が痛い。
今日会ったばかりで楽しそうな二人を見ていると、息苦しい。
やっぱり俺自身のせいなんだろうな、なんて。
しばらく無言の時間が続いたあと、
「浩也、どこに逃げやがった」
廊下からそんな声が聞こえ、俺たちは互いに顔を見合わせた。
「行ったほうがいいんじゃね?」
佐伯に促され、
「やっぱこれ、そういう雰囲気だよな」
浩也はしぶしぶ立ち上がった。
「まだ全部見終わってないんだけどな」
「見たけりゃ部活オフの日に来いって。怒られる前にさっさと行けよ」
「いやあ、今行っても怒られるだろ」
「それが嫌なら抜け出すなって」
「ごもっともすぎる」
浩也が「じゃ、失礼しました」と出ていった直後、廊下で「おまえなあ」と怒りと呆れを含む声がした。
「バカだなあいつ」
「そうだな」
俺は短く答えて浩也の話を終える。
「もしかして佐伯も中学サッカー部?」
「ああ、まあな。てか矢月もそうなんだろ? びっくりだわ」
「続けようとは思わなかったの?」
佐伯は一瞬静止したが、すぐに「だってよ」と顔を顰めた。
「中学の時の部活、顧問は鬼だし、レギュラー争いバッチバチすぎて友情なんて表面上だけだし。おれ部長だったんだけど、その分顧問にもチームメイトにもキツいことけっこう言われてさ。ミスした日はその後ガン無視だぜ? やばいだろ。正直、めっちゃつらかった」
俺もつらかったんだ、なんて同調できるわけがなかった。佐伯は俺なんかよりずっと上の次元で苦しみ傷ついてきたんだ。部活で一人のことが多かった。そんなの、つらいに入るわけもない。
「それ、ほんとにキツそうだな」
「そうなんだよ」
佐伯は軽い声で言う。
「まともに合わせてたらおかしくなりそうだった。ちょーギリギリ」
笑う姿が余計に痛々しい。
「それでも見学には行ったんだな」
「サッカー自体は好きだったから。高校に入ったら思う存分楽しもう、そのために今は耐えようって中学時代過ごしてきたくらい、本気で入るつもりでいた。なのに、ボール触ってたら気持ち悪くなってさ。こりゃできねえなって思った。当時ですらこんなに顕著にあらわれたことなかったのに。だから無理だって割り切れてた」
佐伯は軽く息を吐き、声のトーンを落として「でも」と続けた。
「さっきの人と話してたら、ちょっとサッカー部入っても良かったかなって思った」
心に小さな針が刺さる。
「だってあいつ、不真面目だけど良い奴そうだった。最初は身体が拒絶しても、やっていけば慣れたかもしれない。そしたら、今のおれはまだサッカーしてたのかな、なんて」
「……なんか、ごめんな」
思わず言ってしまった。
俺は浩也のいるサッカー部になんてぜったいに入りたくない。いつも誰かに囲まれていて、自ら輪に飛び込んでいけて、そんな能力があるのに俺が輪に入ろうとしても受け入れてはくれなくて、そのくせずっと仲良しだったみたいに今は話しかけてくる。
原因は俺にあるのかもしれない。そう考えるべき、というか、それが事実であるということはわかっている。だってみんなは仲が良くて、俺だけが一人だから。だから俺が変なのだと。だけどそう思うとつらいから、あいつらが酷い奴なんだと思うようにしていた。
でも、今はっきりと真実を突きつけられたような気がした。佐伯は俺とも楽しそうに話してくれる。おそらくは本心から笑ってくれているだろう。だけど浩也とならもっと楽しい時間を過ごせたはずだ。
もしも中学のとき、俺じゃなくて佐伯がいたら、きっと二人は仲良く楽しくサッカーをしていたんだろうな。
もしもここにいるのが俺じゃなくて浩也だったら、佐伯はサッカーを続けた自分のことなんて考えなかったのかな。
今ここにいるのが俺で、ただただ申し訳ない。
「おいおい、なんで謝るんだよ」
佐伯が苦笑する。
全部気持ちを吐き出してしまえば楽になるだろうか。でもそんなこと言ったら、嘘でも俺に優しい言葉をかけてくれるだろうから言えない。
「なんでだろうな。俺にもわかんない。忘れてくれ」
心の奥がゾクっとして、一瞬寒気のようなものに包まれる。
腕を反対の手で強く握り、気持ちを落ち着かせる。
「矢月こそ、なんでサッカー続けなかったの?」
「単純に飽きたんだよ」
言ってしまいたい。外に、俺の苦しみを出してしまいたい。でも言わない。言えない。心の中でバカにされるだろう。それが怖い。けっきょくいつまでも俺は弱い。
「飽きるまでやり切るってすげえな」
「まあね」
息苦しい。なんて、思うべきじゃないよな。
十一月中旬、冷たい風を感じながら、サッカースタジアムに来た。サッカー部が県大会の決勝戦に出ることになったからだ。もちろん個人的な応援などではなく、写真部として掲示板に飾る用の写真を撮るためである。俺は断りたい気持ちでいっぱいだったが、佐伯が乗り気に「行こ行こ」と言うものだから、それに合わせるしかなくなった。
芝生の上で黄色と赤のユニフォームがそれぞれアップを始めている。
「うちは黄色だよ。勝てるといいね」
カメラをギュッと握りしめる砂原に、
「応援しすぎて写真撮るの忘れそう」
佐伯は無邪気にそんなことを言う。
サッカー部に入っていたら、俺も今頃あっち側でボールを回していたんだろうな。だからなんだって感じだけど。
ボールが足に吸い付く。ディフェンスを交わす。味方に向かって高く蹴り上げる。ゴール前に走る。シュートを決める。
小学二年生の頃から八年間続けた。サッカーの動作を見れば自然と身体が感覚を思い出す。微かな心の痛みともに。
笛の音が会場に響き渡る。
「始まった!」
砂原は楽しそうに声をあげてさっそくカメラを構える。俺もそれに続きカメラを持ち上げた。カメラ越しに見る世界の方が、きっと綺麗に見えるだろう。
そんな俺たちとは引き換えに佐伯は「そこ抜けろ」「逆サイッ」「今のはしゃあない」などと一人盛り上がっている。
俺もそういうテンションで見るべきだろうか。見れるようになったほうが良いのは確かだが、そんな気分にはなれない。
前半終盤、一気に動いた。うちの高校の選手がディフェンスを切り離す。こっちのほうが確実に人数が多い。パスを呼ぶ声、ベンチの応援にも一層熱が入る。
砂原はシャッターチャンスを逃すまいと集中力を上げ、佐伯は戦略を叫んでいる。
俺はとりあえずカメラを構え、ボールを持っている人の姿を数枚撮っておく。
ああ、俺は今何を感じるべきなのだろうか。
「よっしゃそこナイス」
佐伯の叫ぶような応援に一瞬びくりとなる。
「ねばれねばれ、今、うわ、平気平気、よし、オッケーオッケー」
どうしてこんなにも切ない気持ちになるのだろう。
深呼吸してカメラを握り直す。
「打て!」
佐伯の声と同じとき、選手がボールを蹴りあげた。鋭い球がゴールに向かって一直線に進んでいく。
隣ではシャッターを連打する音。
ボールはゴールの中へ吸い込まれていった。キーパーの指先が触れるか触れないかのところをすり抜けて。
「おっしゃあ」
隣の佐伯と同様、会場全体が一段と盛り上がる。
カメラを通してシュートを決めた選手を見た。嬉しそうだ。そこに飛び込んでくるチームメイトも全身で喜びを表す。綺麗で美しい風景。何度かシャッターを押し、いったんカメラから目を離す。
「マジすげえよな」
興奮を隠せない様子の佐伯がまっすぐな瞳で俺を見た。
「ほんとにすげえ」
俺も冷めさせないよう精一杯テンションを上げる。
思い返せば中学のときから俺はこうなった。みんなが本気で盛り上がるなか、俺の心は静かだった。それでも合わせて喜んだり悲しんだりする。感情を共有する相手なんていなくても、空気を読むのは大切だ。
「矢月ももっと盛り上がっていんだぜ?」
「ああ」
明るく笑ったつもりだったが、佐伯は不安そうに俺を覗き込む。
「どうした? こういう会場とか苦手?」
「そんなことない」と慌てて否定する。俺が勝手に苦しみ、そのせいで相手に気を遣わせるなんてあってはならない。
「それより佐伯は平気?」
朝からテンションが高いため無理をしているのではないかと少し心配していた。が、佐伯は親指を立てる。
「前、矢月に話しただろ? あれでさ、なんか急にスッキリしたんだ」
その言葉は本当のように感じられた。
心にあたたかい空気が流れ込む。よかったと心底思った。
「矢月もさ、なんかあるなら言えよ」
全部吐き出してしまいたくなる。俺のしょうもない苦しみを。言えば楽になるかも知れない。解放されるかも知れない。でも今はまだそんな勇気ない。
「ありがと。いつか頼るかも」
俺はあっさりと笑って話を終えた。
フィールドで選手たちが泣いている。
試合は負けた。後半、続けて二点入れられ、巻き返すこともできずに終わった。
「これは悔しいな……。ま、帰るか」
ゾロゾロと立ち上がる観客の流れに乗って佐伯が立ち上がる。
「うちもすごかったよね。良い写真たくさん撮れた」
砂原は涙声だ。
「負けた試合、掲示板に飾っていいのか?」
「決勝戦だよ? すごいことだよ」
二人の会話がぼんやりと聞こえる。
写真を確認するふりをしてずっと下を向いていた俺に、二人の視線が刺さった。
「大丈夫か?」
声にうなずき見上げると、佐伯の顔が涙で滲んだ。
「ちょ、たいして興味なさそうに見てたのに泣くなよ」
砂原も驚いたように俺の顔を見て「ほんとだ」と微笑む。
俺だって泣くつもりなんてなかった。感動したわけでも悔しかったわけでもない。嬉し涙なんて失礼な真似はしないし、悲しいことも起きてない。
ただ心が荒れていた。理由もきっかけもない。
なぜ泣いたのか、自分でもわからなかった。本当にわからないまま、しばらく歯を食いしばって泣いた。
「試合の写真、プリントできたよ」
並べられる写真を見るため机を囲む。
「すっげえ、めっちゃいい写真撮れてるやん」
フィールド全体、チームプレー、個人の表情。様々な写真が並べられる。
「なんかおれ、どの写真も撮った気しないな」
不思議そうにする佐伯に砂原が苦笑いで返す。
「撮れてたの、前の人のつむじが映った二枚だけだったから」
佐伯は「なんでだろうな」と誤魔化そうとするも頭を下げる。
「試合に夢中になりすぎた」
「ずっと隣で喋ってるからすげえなって思ってた」
「なんかバカにしてね?」
どうでもいことを話し、ちょっとしたことで大笑いする。幸せな時間だった。
「あのさ」
そんな空気を切るように、俺は思わず口を開いた。
なぜ今なのかはわからなかった。でも、今なら言って良いんじゃないかって思った。
「中学のとき、部活、つらかったんだよね」
軽い声が出た。一瞬驚いた顔をした二人も、険しい表情にはなっていない。
「急にごめん。もう終わったことなのに、いつもどこかに引っかかってて。……部活のとき、ずっと一人だった。嫌がらせされてたとかじゃないし、ほんとにただ一人だったってだけで、たいしたことじゃないんだけどさ。でも、つらくて」
鼻の奥がツンとする。
言ってしまった。鼓動が早まる。少しの恐怖と、心に薄く張っていた氷が溶けていくような感覚。
「わたし、やっと矢月が心を開いてくれた気がして嬉しい。一人は、きっとすごく寂しいよ」
「矢月に話して楽になれたの、おまえも苦しんでたからなのかもな」
どう思われただろうか。だけど今はそんなこと放っておこう。ずっと隠してきた。俺は苦しかった。誰かに、二人に、そのことを知ってほしい。
「ねえ、これ見て!」
砂原が一枚の写真を指さして明るく言った。
佐伯とともに覗き込んで見ると、それは俺が撮ったものだった。
シュートを決めた直後の、選手全員が満面の笑みで駆け寄り喜びを共有し合っている姿が、うまい具合に小さな長方形の中に収まっている。
なんとなく心が重くなる。これはきっと、俺の理想と嫉妬の混ざった一枚。
いや、違うかもしれない。ずっと前、サッカーが楽しくて仕方なくて、チームメイトを仲間だと思っていたまっすぐな俺の姿と重なるような気がした。
「この写真、矢月だからこそ撮れた写真だよね」
砂原がにこりと優しく微笑んだ。
その言葉は、俺の今までの痛みと努力を受け入れてくれたように感じた。
サッカーの痛みを知っている。たくさん努力した。部活をやりたくてたまらない日があって、いつしか早く離れたいと思うようになって。チームメイトのことは大嫌いだったはずなのに、彼らのことをどこかで信じていた。
シュートを決めたときの快楽。みんなが俺を囲んで一緒に喜んでくれる。だけど、試合が終わればいつの間にか一人きり。
ぐちゃぐちゃで、今となっては何の意味もないと思っていたつらさが、ようやく報われたような気がする。
俺は明日からも、俺の写真を撮ろうと思う。俺を受け入れてくれた二人とともに。