私は“夜の護符”を手に入れた日から後、しばしば夜の山を訪れるようになった。
座敷童の大豆も、訪れるたびに順調に成長を続けている。雨にも風にも、雪にも夏の暑さにも負けぬ、そんな宮沢賢治の文章が頭へ浮かぶほどに、丈夫な豆だ。最近ついに花が咲き枯れて、鞘が実り、膨らんできた。

私は夜に家を抜け出す口実として、牧田恵里ちゃんが通っている塾の自習室へ通うようになった。基本的に親は放任主義なので必要以上に私の行動に介入しない。しかし、不安は湧くだろう。本当に私が夜遊びをしていないか恵里ちゃんの親御さんに連絡を取った時に備えて、私は実際に彼女の塾に(自習室のみ一般開放サービスがあったので)お邪魔させていただいていた。
そう、恵里ちゃんは、高校一年生にして大学受験に備えた塾通いをしているのだ。
本人はあまり勉強が好きでないようだが、『私、ほっとくと怠けて落ちこぼれちゃうから。』と苦笑する彼女は十分に努力家だと思った。

夏休みに入ると、私の心は前にもましてソワソワし出していた。雲のように勉強への不安が湧いてくる。特に夜、ベッドに潜った時がダメだった。もともと宿題は早めに終わらせるタイプなので、私は山のような課題に圧倒されて潰れそうになるといった悩みはない。しかし、先を見すぎてしまうがゆえの心配性の性質が自分を苦しめていた。

焦る必要はない。けれど、のんびりしていてもいけない。
大学受験で、どこの大学を受験することができるか。
それは、この毎日、その毎日の学習にかかっている。

様々な思いが胸に到来して、津波に押し流されるような無力を感じる。このぐるぐる巡る地球の上の、ちっぽけな自分が頑張って、一体何になるのだろう。自分に合った仕事に就いて、その日暮らしに困らないお金を稼いで、自分なりの幸せな生活を送る。そういう、面白くないと一蹴されがちで、案外一番大事で、何より安全な生き方をしたい。今の生活を続けたい。
…そのためには、頑張らねばならない。

頑張るって、何?
私が一番やりたいことって、どこを探せば見つかるの?

わからない。わからない自分が、もどかしい。正解のない問いに立ち向かうための、勇気も知恵も、指針も、そんなものどこにもないのだから当たり前だ。はるか遠くに霞のようにぼんやりした人参をぶら下げられて、意味もわからずに全力で駆けている馬。汗と涙がぐしゃぐしゃになって、持っていたはずの地図もいつの間にかどこかへ失くして、戸惑って、それでも走るしかない馬。それが、私だ。

八月に入り、夏休みもあと一月足らず。
悩みはあっても、時間は進む。やらねばならないことは、片付けなければ終わらない。

ある日文房具屋へ、足りなくなったノートやらシャー芯やらの補充へ出た私は、とある製品に目をつけた。それは子供たちの目線に留まりやすいよう棚の低いところへ配置されていて、それでも色鮮やかで派手な包みは大人の目にも容易に飛び込んできた。
その商品とは、そう。

「……花火、かぁ。」

夏の風物詩、花火だ。
線香花火。鼠花火。すすき花火。スパーク花火。色とりどりの製品が並んでいる。

真っ黒な闇を背景に、ぼうっと浮かび上がる幽霊のような人間たち。彼らは手に手にバケツに水を汲んできて、火種の蝋燭を用意し、アスファルトの上で、燃やす。集まってきた小さな子供たちの影が、キャアキャア叫びながら、喜ぶ。

……昔の、夏の思い出。


「買ってみようかな。」

冗談のように呟いた言葉は、だんだんと真実味を帯びてきて。
気づけば私は、家庭用花火セットを一袋、追加で店番のおばさんへと差し出していた。








「枝豆は収穫してしまうかい?」
「それはもったいないような……でも、この美しい緑色が枯れて、茶色くなってしまうのも残念なような……難しいです。」
「一つだけ鞘を収穫して、カラカラに乾燥させてみたらどうかな?観賞用に。」

私は一郎くんと仁朗さんと共に、土間に生えた一本の植物を囲んで議論をしていた。
二つの鞘が実り、丸々と太っている。絶好の収穫時期だ。ただ、問題はこの植物、適切な収穫時期というものが年に二度あるのだ。夏と、秋。
一郎くんと仁朗さんは、片方だけ今収穫して乾燥させるのがいいという意見で一致しているようだ。私はうーんと腕を組んで悩んだ。食べたい。どうせ他の鞘も次々に膨れてくるだろうけれど、初物を食べたいという気持ちも強いのだ。……ただ一方で、食べてしまうのが凄まじく勿体無いので永久に保存したいという想いもある。どっちだ。どっちがいい。

「—————それはよろしきお考えでございますね。」

私たちの目の前に、すっと突然にゼリーの小皿の乗ったお盆が差し出された。
梅ジュースをベースにした半透明なゼリーの上に、ミントの葉が飾られている。四つの小皿の中身は完璧な等分で、一種の芸術性すら感じられる。これを作ったのは誰か、見上げて確認するまでもない。一郎くんのお母さん、お雲さんだ。
お雲さんは雪のように真っ白で、一郎くんの肌の色はこの人の遺伝だと一目で分かった。いつもニコニコ微笑んでいて、ふわふわのうさぎのような優しさを感じる。いつかスルリと消えてしまいそうな儚い雰囲気を纏っていて、気配が淡い。初対面ですうっとお盆に乗った菓子折りとお茶を差し出された時、私は冗談抜きに幽霊だと思って腰を抜かした。
……まあ、この山寺が、幽霊が棲みついていて何ら不思議のない場所だったことも一因ではあるが。

お雲さんは私よりも少し背が低い。
挨拶するために立ち上がった私を、ちょっと見上げるようにして、優しく微笑んでみせた。

「…翡翠は、日に乾かしても翡翠でございますよ。」
「は、はい。」

…少し緊張しながら、私は答えた。
そう。今私たちが育てている植物、それは座敷童にもらった大豆のことだった。大豆は、地面に植えておくと芽を出し、夏頃に枝豆の実をつけ、放っておくとそれは茶色く乾いて再び大豆となる。
そのような知識は知識として知っていたが、実際に育ててみたことはなかった。

—————なんて美しい。

まるで宝珠ではないか。薄い黄緑色のさや。血管のように走った維管束に、ビリジアンに映る陰。はち切れそうに太ったさやは、丸々の枝豆がどんなに立派なものかを物語っている。みずみずしい露に濡れながらキラキラと煌めいている威姿は、まるで神々しささえを湛えている。

命を育むということは、こういうことだったのか。
美しいものを見た興奮に身を包まれる。

「あぁ…さすがにそれは、この山が特別に精霊とエネルギーで溢れているからだと思うけどね。」
「そうだよ。普通の大豆は煌めかない。」

仁朗さんには苦笑い、一郎くんには真顔で対応されてしまった。

「な、なるほど。」
「でも、だからこそ…特別な大豆だからこそ、大事に扱わなければならないという問題もあるんだけどね。」
「具体的には、肌身離さず持ち歩くとか。」
「まあ、食べてしまうのが一番簡単だよね。要は、霞みたいに薄ーくなってふっと消える、なんてことがないようにするためには、命の気配をそばに寄り添わせる事が出来ればいいだけなんだから。」
「うんうん。」
「……へ?」

ここまで聞いて、私はあれっと困惑した。仁朗さんも一郎くんも、座敷童の運んできた大豆をどうするつもりなのだろうか。
私は「翡翠のごとく美しい枝豆を実らせる種」という認識だと思っていた。飾って、眺めて、楽しんで。肌身離さず持っている必要があると言っても、キーホルダーやペンダントなどと同じようなくくりに入るのでは、と不思議に思う。故に……

「えっと……見るために食べちゃうって、本末転倒では?」
「ん?見る必要があるの?」
「え、でもさっきは観賞用だって……」

私が困ったように言いかけると、すっと、私の目の前に一本の指が建てられた。真っ白な指。薄紫色の唇の奥にチラリと見える歯の隙間から漏れるしぃ、という囁き。
お雲さんの、うっすらと淡い微笑みが、そこにあった。

「………座敷童の贈り物ゆえに、大事にするのがよろしゅうございましょう。」
「……はい。」

お雲さんの瞳は、薄い赤色。溶けて色のなくなってしまいそうな、どきりとする目が、まっすぐにこちらを見つめている。
これ以上の説明は、ない。
おそらく、必要すら、ないのだ。
別に食べてもいいし、食べなくてもいい。どちらにせよ違いはなく、鑑賞の捉え方は人それぞれ。そういうことだろう。

私は静かに納得して、乾燥枝豆をつくるためのさやを一つ、切り取ってポケットに入れた。
そして、ふと思い出す。

「あ。そういえば、花火を持ってきたのですが…」







花火大会。
以前手に入れた“夜の護符“のお陰で、夜の森を歩けるようになった。満月の夜には相変わらず山に立ち入らせてもらえないのだが、それでも以前ならば考えられなかった様々なことができるようになった。

鐘つき堂のそばの池……は、蚊が大発生中なので、この厄介な水辺から最大限に離れた場所、すなわち伊藤家の屋敷に近いとある空き地へ集まって、私たちは祝いを行うことにした。何のお祝いか?決まっている。座敷童の枝豆収穫記念祝いだ。

ぶっちゃけた話、お題目は何だっていい。

伝統文化にはかなり精通しているらしい仁朗さん。さすがの手際で花火の準備を進めてくれた。一方で、普段屋敷の奥の台所に篭りきりで絶対に外へ出ようとしなかったお雲さん。何が彼女の気を誘ったか、私たちの後を追うようにふらりとついてきた。
白い割烹着もそのままに、まるで幽霊のように空き地の端に佇んでいた彼女。一言も語らず、ただただ食い入るように私たちの様子を見つめる。ついに、はじめの花火に火がついて弾けた刹那……

—————彼女が泣いた。

「花火とは、まこと納豆の糸のようでございますね…」
「母さん。線香花火は食べ物じゃないよ。」
「それにしても、この儚き灯りの美しさ…パチパチと魚の焼けるような香ばしき音……」
「本当にどうしちゃったの。涙まで出して。」

呆れたような口調で、一郎くんがお雲さんに話しかける。その言葉の内容に反して、彼がお雲さんに寄り添う姿は、いたわりに満ちていた。
すっ、と。私の肩に手が置かれた。後ろを振り向くと、無表情の仁朗さんがそこにいた。

「……もうちょっと、あのまま泣かせてあげよう。」
「はい。」
「そっちの方へ行こうか。星が綺麗に見えるんだよ。」
「……わかりました。」

私は驚いた。軽薄な猿のようにも見える、根っこからの明るさ。昼間そんな雰囲気を纏っていた仁朗さんは、今、どこにもいなかった。哀しそうで、穏やかで、重苦しくて、少し寂しそうで。闇夜のせいだろうか。顔に陰が出来て、潜めた声がずぅんと響く、そういう時間のせいだろうか。

…いや、もしかすると。
私は、はっと気づいた。

—————この人は、夜が怖いのかもしれない。

なんとなく、自然に湧き出た考えだった。仁朗さんは、ずっと何かに怯えている。暗い夜道を歩きながら、月を見上げながら、闇を怖がっている。仁朗さん自身も“闇の護符”を持っているのだが、それでも恐怖が拭えていないのだ。
開けた場所に座りやすそうな切り株を二つほど見つけて、それぞれ座る。二人で、ゆっくりと息を吐いた。その時。

「……聞きたいことが、あるようだね。」

仁朗さんがポツリと呟いた。

「遠慮しないで、言ってご覧。きみは、私の瞳の奥に獣がいるのを見てしまったのではないのかい。」

……なんだ。ばれていたのか。
私は、罰が悪そうに微笑む仁朗さんの顔を見上げて、すっと眉を下げた。
仁朗、ジンロウ、人狼、私ですらわかったことだ。この人の名前が表すものは、月夜の化け物……狼人間。普段ならば、まさかの一言で笑い飛ばす想像だったが、この寺においては違った。

きっと、この人は毎月の十五夜で、本物の化け物に変貌する。

「つまらない昔話を一つ、聞いてみるかい。」
「ええ。」

……少なくとも、退屈はしないと思いますから。
私がそう言って頷くと、仁朗さんは、違いない、と言って自嘲気味に笑った。

「これは、私が十五の誕生日を迎えた夜のことなんだけどね————



あるところに、一人の少年がいました。
少年は毎日野山を駆け回って遊び、楽しく暮らしていました。
ある夜のことです。
肝試しをすることが大好きだった彼は、例の如く家族の言いつけを破ってこっそりと家を抜け出し、護符も持たずに山へ出かけました。
ずっとずっと駆けて行って、とある丘に辿り着いたその時。
少年は、美しい狼を見つけました。
銀色の毛並み。白い牙。爛々と輝く金色の瞳孔。

それはまるで、運命の出会いでした。これと出会うために、自分は産まれてきたに違いないと、一目で確信しました。あまりの美しさに魅了されてしまった少年は、ゆっくりとその狼に近づいてゆきます。
狼は、微動だにしません。
少年は、お辞儀をしました。
狼は、受け入れました。
少年は、嬉しくて微笑みました。

彼らは互いに重なり合い、二つの身を一つに溶けこませ、複雑に変貌を遂げました。
そして。



—————狼男が、産まれた。」



昼間のうちは、鳴りを顰めている狼。しかし隠しているつもりでも犬歯は少しだけ鋭くなり、精進料理の代わりに肉に惹かれるようになり、腕力やジャンプ力などの身体能力が上がった。感覚が鋭い人、特に多感な十代の少年少女には何か恐ろしい気配を察されて怪しまれることも多くなった。
“仁朗“ という名前は、祖母が付け直してくれたもの。『自身を正しく理解しなければ、制御することもできない』と言って、この身の奥深くまでに刻み付けられた、失敗の足跡。

好奇とは、危ういものだ。
心とは、脆いものだ。

おおよそ29.5日に一度。
月が満ちる晩には、狂気が暴走する。
剥き出しの獣性のままに暴れまわり、鼠を殺し、兎を食い、岩を切り裂き、大樹を薙ぎ倒す。
己は人か、狼か。
そんなことすらわからない。
そういう夜が、繰り返された。

「…それでも、お雲さんをお嫁にもらってからは、だいぶ落ち着いたんだよ。」
「………。」
「あの人は、お布団のような存在なんだ。妖気を放つ月の光から、私をくるんで、温かい安心の夢を吹きかけ、黙ってそばで守ってくれる。」

私は黙って月を見上げた。
すうっと白い、ミルクのような優しさを湛えた衛星……上弦の半月の、明るい晩。むくむくと湧いて邪魔するような、雲はない。さあっと晴れ渡った闇の絨毯。静かで、綺麗な夜。

ふと思った。
いったい仁朗さんには、この月夜が何色に見えているのだろう。
頑なに空を見上げようとしない仁朗さんをチラリと横目で見て、私は静かに目を伏せた。

(…これ以上は、仁朗さんも話したくないんだろうな。)

私は息を吸って、そして努めて明るい口調で切り出した。

「…初めて会った時。私には、仁朗さんがお猿さんの精霊だと思いました。」
「え?」
「いつの間にか鐘つき堂の屋根に登っていて、はしごも何もないそこから、やけに自然に滑り降りましたよね。人間じゃないかも、と思った時に、思いついたんです。あんなに身軽ならきっと“猿“だって。」

言うだけ言って、私は、ちょっとお辞儀をすると勢いよく立ち上がった。

「……あの、私そろそろ戻ります。お雲さんもきっと落ち着いた頃だと思うので。」

私は真っ赤に染まった顔を悟られないように下を向き、あっという間に通り過ぎてゆく嵐のように慌てて走ってその場を後にした。






—————面白い少女だな。
—————あぁ。
—————“猿“ もなかなかよい響きだな。
—————そうだなぁ。

静かな影が、蠢く。呟きは、森の地面に吸い込まれて、消える。風の悪戯にも聞こえる抑えられた会話。
ふと、土の上に揺れる白い花が、金色の目に留まった。

「……あぁ、そういえば月見草の季節だったか。」

仁朗の唇は、三日月型を描いて微笑を浮かべていた。








私が空き地に戻ると、お雲さんの姿はなかった。一人残された一郎くんだけが、ぼんやりと蝋燭の火を見つめている。一度強風でも吹いて消えてしまったのだろう。そばに転がる、マッチの燃え殻が増えていた。

「…お雲さんは?」

私が声をかけると、一郎くんはゆっくりと目を上げた。

「もう家に帰ったよ。」
「…そっか。…えっと、どうしよう。花火の続きしてみる?」
「うん。」

二人で静かに準備をして、すすき花火を蝋燭の火にかざす。シュバババーパチパチパチ、と盛大に炎を噴き上げる紙の棒の眩しさに、思わず暗闇に慣れていた目が悲鳴を上げて細める。薄目で見て、それでもやはり美しいのが、花火だった。

「—————赤い。」
「うん?」
「赤い花火。ほら、ここらは全部赤い。わからない?」
「…ごめん。わからない、と思う。」
「そうか。それなら何も問題ないよ。」

突然の会話に、少し戸惑った。しかし、何事もなかったかのように澄ましている一郎くんを見ていると、そのようなことは全て瑣末な事物であるようにも思えてくるのだった。
取っ替え引っ替え、黙ってくるくると花火を消費する。ふと、おかしなことに気がついた。チラリチラリと、花火を点火するたびに、シュッと灰色の墨のような暗闇の塊が遮って走るように見えるのだ。

「ねえ、なんだかさっきから変な影が……」
「火蜥蜴だ。」
「ヒトカゲ?」
「そう。火を食う珍しい蜥蜴だよ。暑さに強いから、夏に活動する。“地を走る弾丸“の二つ名を持つほどにものすごく足が速いから、他の種との喧嘩では突進するだけで勝てるだろうね。」
「へ、へえ……。」

火蜥蜴(サラマンダー)と聞けば、一生を燃える炎や溶岩流の中で暮らす小さな竜を想像することが多かった。しかしこの山に棲む火蜥蜴は、なんだか臆病で逃げ足が速い、ごく普通の生き物のように思えるのだった。一瞬、火の中に現れては、捕まってはたまらぬとばかりに去ってゆく。

「あの…この生き物って、本当に喧嘩に強いのかな?逃げてばっかりに見えるんだけど。」
「気が臆病なだけだよ。河童だってそうだっただろう。ものすごい怪力の持ち主だが、麓の人里には絶対に降りていかない。それに、友人と認めた者以外には喧嘩、つまり相撲の勝負を吹っ掛けることはない。」
「なるほど…精霊って、そういうのが多いのかな。」

私が首を傾げた時、一郎くんがぐるりとこちらを振り向いた。
逸らそうとしても、手遅れだった。戸惑う私の目を、彼はすでにじっと覗き込むようにして見ている。蛇に睨まれた蛙のように動けなくなってしまった私に対して、彼は静かに口を開いた。

「海野も、いつも自信がないように見える。」
「え?」
「なぜなのか、いつか聞いてみたかったんだよ。…勉強も運動もできて、クラスのみんなからも注目されることが多いだろう?でも、いくら褒められても、嬉しそうに笑っても、心のどこかで自分を認めていない。自信過剰で将来自滅しそうな人間もクラスにたくさんいるけれど、海野は真逆なんだ。自分がどこまで出来るか、壁を自ら高く積んで、可能性を狭めている。」
「………。」
「この前、小悪魔に魅入られただろう。それはつまり、悩みの形がはっきりしている証拠だよ。確固たる形さえ保っていれば、それがどんなに小さな悩みでも、あのお邪魔虫たちは引っ張り出して増大させ、夢に引き出すことができる。…そして、その海野の悩みの根幹が解決されずに、ずっと残り続けている。この状態はあまりよくない。とりあえず吐き出すことが重要だ。少なくとも僕は海野が抱えているものを知りたいと願うし、もし今宵僕に喋ることができないと判断したとしても、絶対に誰かと共有するべきだと思う。」

まっすぐに見つめる一郎くんの目が、闇に光っていた。切れ長の狐目が、穏やかに、しかし瞬きひとつせずに浮かんでいる。彼は森の子供だった。山寺を守る、将来の住職なのだった。
彼は当たり前のように、ごくごく自然に私の心の領域に足を踏み入れようとしている。トントン、と戸を叩いて、お邪魔する、と頭を下げて。しかし余計な気負いなどを一切せずに、するりと茶の間へとその身を滑らせている。
彼にならばなんでも話していいような、そんな気分が不意に湧き上がった。

「…うん。私、確かに自己肯定感が低いと思う。…多分、それは、私のすぐそばに、もっとすごい人がいるからなんだよ。」

私は、ポツポツと話し出した。

十歳も歳の離れた姉がいること。
いつも自分は彼女の影を踏むように生きている気分に陥ること。
そうやって開拓された安全な道ばかり選んで進む人生が、時々どうしようもなくつまらないと感じること。
ただ、それでも助かっているという依存も気持ちがあるのは拭えない。また、姉の偉大さとその人柄を知ればこそ、姉や自分や、その他の誰かを責めるのはお門違いであるとは理解していて。それゆえにぶつかる対象が何もなくて身悶えしたいようなもどかしさに苦しめられること。

一度話し始めてしまえば、あとは堰を切った奔流のようだった。
仁朗さんにも言えなかったあらゆる感情が迸る。

両親の愛情をたっぷり受けて育った姉を羨ましく感じる。数学パズルで一度も勝てたことがないことがものすごく悔しい。自分が生まれる前に死んでしまった祖父や祖母との思い出を両親と懐かしそうに語り合う姉を見ていると、どうしようもなくやりきれない想いが湧き上がってくる。
辛い。苦しい。悲しい。
恨み。
憎しみ。
やりきれない思い。
そういうもの全部が、混ざり合って波飛沫になる。一緒くたに浜へ押し寄せ岩へぶつかり砕け散る。


……そして、その全てを。矛盾に包まれたこんな私の悩み苦しみすら、察してしまうほどに姉は優しかった。



まだまだ幼かった昔時代を思い出すと、姉はいつも謝っていた。『遊んであげなくてごめん』『私は勉強したいんだ。ごめんね。』『疲れてるからできない。ごめん。』『私、負けず嫌いだからどうしても手加減できなかったんだよ。細かいルールを教えなかったのは本当に悪かったから。ね、謝るから、もう泣かないで。』

そんな姉が変わり出したのは、いつの頃だっただろうか。
よく笑い、よくおバカな冗談を言い、たくさんの失敗談を隠さずに公開し、数学の天才かつお調子者のキャラクターで家族に接するようになった。だんだんと“姉”という肩書きに縛られない生き方ができるようになった、といえば聞こえがいいかも知れない。
しかし、私にとってはそれさえが姉の計算高さに思えるのだ。
“ダメな姉“を演じることで、妹である私は息がしやすくなる。自分の方が出来た人間だ、という自尊心を持つことができるし、『私ってすごいでしょう!』と拳を突き上げる姉を見て、私自身もあんな風に自画自賛していいんだ、と学ぶ。

本当にすごい人だ。
だからこそ、私はもっと苦しくなる。
辛い時に、あの人に本気で縋り付くことができない。遠慮を、してしまう。
だって。

——————あんなに世話になりっぱなしで、どうしてこれ以上の助けを求められるだろうか。


「なるほど。謎が解けた。」
「………。」
「それが、海野の胸に開いた穴だったんだね。」

一郎くんは、俯く私へ静かな視線を向けた。冬の雪のように冷たい、それでいて絶対の安堵を誘う眼差しだった。手元の花火は、二人ともとっくに燃え尽きている。真っ黒になった炭の塊を持ち続けたまま、彼は、静かに言った。

「……赤子を抱いて、夜道を歩いたこと。あるかい?」
「え?」
「ないんだろう。」
「う、うん……。」

一郎くんの蛇のように白い顔には、穏やかな春の海のごとく凪いだ表情が宿っていた。風が吹いて、ざわざわと森の木々が騒ぐ。私は少しだけ緊張して、彼の言葉を待った。

「守られる存在。守る存在。これらの関係は、きっと皆が思うほどシンプルじゃないんだ。」
「………。」
「夜道の赤ん坊など、ただの足手纏いだと思うだろう。実際、その通りなんだ。強盗に襲われた時、獣が飛びかかってきた時、僕たちは赤子を抱いて守りながら闘わねばならない。余計な手間が増える。」

だけど、と言って一郎くんは息を継ぐ。

「今でも思い出す夜がある。十二歳の夏だ。いつも怯えながら通る真っ暗闇の山路を、弟を抱いて歩いた。僕は、あのか弱い命のぬくもりを、絶対に守ってみせると思った。守れると、確信したよ。瞬間、ありとあらゆるものが、怖くなくなった。」
「………。」
「あの日、世の中の全ての母親と、父親の気持ちがわかったんだ。僕たちが赤子を守るんじゃない。逆なんだよ。赤子が、僕たちに守りの力を与える。そう、人間は————」

静かな呟きが、ドラムのようにズシーンと私の胸に響いた。

「—————守るべき者を抱いた時、信じられないほどの勇気を手にするんだ。」

一郎くんの、眼差しが語る。
『守られる側であることを恥じる必要はない。
……なぜならば、守る側が強くなれるのは、弱き者たちのお陰なのだから。』と。

大地がガラガラと崩れてゆくような衝撃だった。

「それ、じゃぁ…」
「海野のお姉さんが強くあれたのは、海野がいたからだ。」
「……まるで、知ったように、話すんだね。」

様々な思いが胸に溢れてきて、わけがわからない。巨人のように大きな存在だった姉が、私などという小さな存在に左右されるなど、考えたことがなかった。彼女はすでに家を出て行って仕事をしている、立派な大人。私はこんなところでぐずぐず蹲っている、青い青い未熟な卵。

「……僕にとって、弟とは大きな存在だった。」
「…………。」
「あの小さな体で、僕の心のほとんど全てを覆い隠してしまいそうなほどに巨大な太陽だった。」
「…………。」
「だけど僕は、気づくことができなかったんだ。弟の眩しい光は、弱く、儚く、他人の手を借りなければそよ風にでも吹き消されてしまう、一本の蝋燭の火から放たれていたに過ぎないことを。」

一郎くんの声は、平坦で、穏やか。そんないつもの抑揚に、別の感情が紛れ込んできたことを、私は感じ取っていた。

「母さんが、どうして花火を見て涙したのかわかるかい?」
「……わからないよ。」
「思い出したからなんだ。」

ざあっと風が吹きすさび、蝋燭の炎が激しく揺れた。
ふいにくっと顎を上げて空を睨んだ一郎くんの顔は、今にも泣き出しそうに歪んでいた。

「—————半年前に死んだ、弟のことを。」


目の前が真っ赤に染まって、弾ける。
森の樹々は全て、血の色の根をうねらせ、枝葉を振って光を撒き散らし、ざあざあと哀惜の情感を叫んでいた。
ぐるぐると視界が回転する。

…森が、赤い。

山全体が、真っ赤になって呼吸している。
目眩と吐き気に襲われる。耐えきれなくなって天を突くように見上げれば、どうしたことだろう。真っ赤に染まった半月が、煌々と夜空を照らして嗤っていた。星も、赤い。雲も、赤い。風も、夜も、森も、……

…………伊藤一郎が、赤い。


どん、と胸を突かれたような衝撃を最後に、私の意識は深い闇に呑みこまれた。