藤原行成様
そのお方の名前は何度か耳にしたことがあった。私がお仕えする道隆様の姫君「定子様」とお兄様の伊周様と三人でお話ししたときに伊周様が「猶子を取った」と、行成様の名前を紹介していた。
そんな方と私は今からお会いする。行成様が私と一度話がしてみたいと仰ったらしい。不思議なお方だ。定子様に話があるならまだわかるけれども、その使いの私と話して一体何が得られるのだ。廊下の奥から引きずるような足音が聞こえて背筋が伸びる。
行成様は相当優秀な殿方らしいが、女御からの評判はしこたま悪い。以前、皆で定子様を囲みながら座談会をしていた時にも

「行成様って顔はいいけれど、進んで和歌を御詠みにならないし、不愛想でとっつきにくいっていうか。……あと、お話もあまり面白くないし……」

なんて話題が出た。だから、私は会ったことのない行成様を今こんなにも警戒しているのだと思う。足音が鳴りやむ。御簾に映る烏帽子の影と、少しだけ垣間見える直衣の裾。緊張から喉が鳴った。どうしていいのか分からずに私が俯いていると、彼が口を開く。

「あなたが清少納言ですか」
「はい。この春から宮仕えをしています清少納言です」
「……私のことは分かるか」
藤原権大納言行成(ふじわらのごんだいなごんゆきなり)様です」
「そうか、それならよかった」

第一印象は、物静かで不愛想な方といった感じだ。常に女房に手を付けている宮中の殿方とは違い、言葉遣いは丁寧ながらも言葉足らずと冷たい印象を受ける。

「私が何故うぬを尋ねたか知りたいでしょう」
「それは、まぁ……」
「宮中で話題なのです。あなたの話は面白いと」

嘘か誠か分からない話をされて私は困惑した。これはただ口説いているだけなのか、はたまた本当に話題になっているのか……。それにそんな理由だけで行成様は私の元を訪れてくれるのか。私は縮れ毛でお世辞にも美人とは程遠い見た目をしている。もし、万が一本当に口説きに来ているのならば期待してくれた行成様をがっかりさせてしまう。

「そのご様子はもしかして疑ってらっしゃる?」

私が無言で考え込んでいると、図星を突かれてしまった。慌ててすみませんと返すと、行成様はこれまた不愛想に、それでもほんの僅かに温かみのこもった声音で言った。

「私は、目は縦向きに付いていて、眉は額の方に生え上がり、鼻は横向きでも、ただ口元が魅力的で、顎の下や首が綺麗で、声がよければそれだけでいいのです。それがいいのです。そういう人に心惹かれます。ついでに言えば面白い女房も好みですね」

突然なんの話だ。私が「ごめんなさい、話が飛び過ぎていて理解できません」と眉を下げながら謝ると、行成様は「はぁ」と面倒くさそうにため息をついて「まだ分からないのですか、少納言」と困ったように説明する。

「例えあなたが私のことを疑おうとも、私はあなたの容姿ではなく内面に惹かれているのですよ。たった一つの噂でここまで訪れてしまう程に。見た目など二の次なのです。どんなあなたでも最初は御簾の奥で佇む一人の女性です、見た目にコンプレックスを持っていたとしても私が分かるはずもない。疑う余地もないでしょう」

このお方は本当に不思議であるそして、事前に聞いていた人物像を百八十度ひっくり返してきた。人を寄せ付けない生真面目で話もつまらないというのは嘘ではないか?だって、蓋を開けてみればこんなにも情熱的なのだから。私は面白くなってきて、この殿方の腕前を知りたくなった。

「行成様。一つ、歌でも詠みませんか?」
「私は和歌は送りませんよ」

ふと、女御たちの会話が蘇る。確か、行成様は自ら和歌を詠まれない……。地雷を踏んでしまったかもしれないと反省しつつも、好奇心には勝てなかった。私は興味本位で尋ねた。

「行成様は歌を御詠みにならないのですか?」
「嫌いだから詠みませぬ」
「……空耳が聴こえたやもしれません。今なんと」
「私、和歌とか死ぬほど嫌いなのです」

この方は何を仰っているのだ。歌が嫌い?そんな人がこの世の中で出世しているわけがない。なのに、なんでこのお方は伊周様に気に入られているのだろう。私の問いに答えるように行成様は続ける。

「歌はつまらないです。それより私は直接話してその人の本質を理解したいのです。歌なんて仮初で上辺だらけだと思いませぬか?言葉と音に掛け、優劣を競う。想いを伝えるだけの手段にはあまりにも難解で滑稽だ。
実際、今私はあなたと話していてとても愉快な気分なのですよ。少納言」

行成様は今日初めて笑った。例え顔が見えなくてもわかる。突然纏っていた緊迫した雰囲気が解け、彼の持つ本当の優しさが零れた。私は女御が言っていた言葉は嘘だと確信した。彼はつまらなくも、不愛想でもないじゃないか。常に人の真意を読み取ろうと試みている行成様は波一通りの人物ではない。

「もう子の刻が近い。時間はあっという間ですね、夜分にお尋ねして申し訳ありませんでした。では失礼します」

御簾の向こう側で人の気配が遠ざかる。このまま終わってしまうのだろうか。和歌を愛する私と、彼では思考が合わずに見捨てられてしまうのではないか。頭の中で嫌だと叫ぶ。私は気が付けばこんなことを口走っていた。

「また……また、お話ししましょうね」

衣擦れの音が止む。少し間を置いてから行成様の小さく笑う声が耳に残った。