毎日が同じ日みたいに暮らしに張りがない。
俺はこの日は特別にへとへとヘロヘロに疲れ果てていた。
心も身体も五臓六腑の奥の奥から隅々まで、疲れでドロンと溶けそうだった。
外回りに、急な顧客の納期の前倒しと書類の不備の直しをして、夢中で残業をしてた。
はあ〜。やっと終わった。
仕事帰り、もう俺の腕時計の針は午後10時半を指している!
晩飯はまだ食っていない。
腹、減った!
あ〜、なんか食いたい。
そして酒が飲みたい。
俺は駅からの帰り道に、偶然、ちっちゃな小料理屋を見つける。
わりと新しいマンションの一階に、三軒の店が並ぶのが、ふと目に入った。
こっちは、芳《かぐわ》しい匂いがしてる。
赤提灯が軒下に見えてる焼き鳥屋さんで。
(繁盛してそうだな。外まで酔っぱらいの声が聞こえんなあ。今日は静かに飲みたい)
真ん中は、営業時間が終わり閉まっているが楽器屋さんかな。
ギターやピアノの形のオブジェが置いてある。
そして右横が小料理屋……『南風《みなみかぜ》』か。
店の入り口に紫陽花《あじさい》や日々草が飾られて咲いている。
『南風』の佇まいを見て決めた。
落ち着いた蕎麦屋のような構えで白木の看板に引き戸だ。
初めて入る店はちょっと気後れするが、俺は勇気を出して暖簾をくぐった。
「いらっしゃいませ」
女将は穏やかに愛想よく笑い気品を感じさせる。
ハッとするほどの美人だ。
俺は店に入った瞬間に目を奪われていた。
へえ、小料理屋の女将は艶やかな和服姿である。
背はすらっと高くて、ほっそりとした体つきに、目が少しだけキリッとした美人だ。
店はカウンターの席だけだ。
七人ほどしか座れない。
「お好きなトコへどうぞ」
綺麗な花が随所にさり気なく飾られている。
客は今、俺以外は誰もいない。
コトコト鍋の音がしている。
(いい匂いだなあ。早くなにか食べたい)
美味そうな匂いに空きすぎた腹の虫がギュウッと鳴る。
「こんないい店あったんだね」
「ありがとうございます。なんになさいますか?」
俺は一瞬見惚れてしまった。
女将の微笑みがあどけなくて、びっくりした。
彼女の落ち着いた雰囲気にわりと俺に近い年齢かと思ったが、若そうだな。
「あっ……。え〜っとビールもらえる? あと適当に女将のおすすめで良いから、ツマミちょうだい」
「はい。では先にこちらを」
さっとビールと出て来たのは、お浸しだ。
「小松菜の煮浸しです」
女将がビールを注いでくれる。
和服の袂《たもと》を抑えながらビールの瓶を持ち、ニッコリと笑う女将に、もう俺の心が奪われている。
俺は少しくびれたグラスに美味そうに注がれたビールを、一気に乾ききった喉に流し入れる。
――最高だ。
仕事の疲れも吹き飛ぶ。
きめ細やかな泡のビールをグイッとまた飲むと、さっきまでの仕事に戦い挑んでいた気持ちが落ち着き、力がふうっとぬける。
女将と他愛もない世間話を一言二言交わす。
あっという間に酒の肴の何品かが、俺の前に並ぶ。
モロコシのかき揚げ、だし巻き卵にれんこんの煮物、きゅうりと生姜の浅漬か。
うんっ、美味い。
どの料理も味付けが俺好みだ。
特に好きなのは、だし巻き卵だな。
次に俺の前にはどーんと大皿が置かれる。
「やった! 唐揚げだ。唐揚げも出てきた〜。感激だなあ。俺、唐揚げが大好物なんですよ」
大皿に盛りつけられた唐揚げは山盛りで迫力ある見た目だ。
大根おろしと山芋のすりおろしの上に、玉ねぎ入りのタレがかった鶏の唐揚げはとてもボリューミィーだな。
「白ダシベースのトロトロタレで仕上げた『癒やしの雪見唐揚げ』です。疲れた体に滋養の山芋が効くかなと思います」
女将は『癒やしの雪見唐揚げ』に、さらに海苔をぱらぱらっと散らし、ちょこんとわさびも添えてくれる。
「う〜ん『癒やしの雪見唐揚げ』ですか。素敵なネーミングですね。美味そう。……うんっ美味いっ」
揚げた鶏と大根はよく合う。
山芋は力がつきそうだ。
刻んだ玉ねぎがシャキシャキで。
から揚げなのにくどくない。タレは少し甘いが、大根おろしの効果かさっぱりとした後味だ。
箸がすすむ。
いくらでも食べられる。
ビールを二本飲んでからレモンサワーと紫蘇の焼酎を飲んで、俺は仕事の疲れも忘れて、だいぶ良い気分だった。
酔いが心地よくまわる。
女将は俺の話にじっと耳を傾けてくれて、絶妙なタイミングで相槌を打つ。
「愚痴なんてみっともないと…思うのに、ついつい女将には……なんでもベラベラと……喋って……………」
俺の瞼《まぶた》が重い。
睡魔が俺を夢の世界に誘《いざな》う。
「……先輩。胡桃沢真哉《くるみざわしんや》先輩ってば」
耳元に女将の声がする。
酔って寝ちまった。
周りを見渡すとさっきまで客がいたらしく、女将が皿や酒の瓶を片付けている。
よく寝たな。
初めて来た店なのに。
「胡桃沢先輩、ぐっすりでしたね。揺すってもなかなか起きないんですもん」
女将が俺に親しげに笑いかける。
へっ?
えっ?
俺の名前……なんで知ってんの?
酔っ払って教えたのかな。
「はあっ?!」
よおく女将の顔を間近で見たら、高校の時の剣道部の後輩に似てた。
「南野……? もしかして南野?」
「そおですよお。私の方は先輩に気づいたのに、先輩ったら、私だってまったく気づかないんだから」
後輩の南野香澄《みなみのかすみ》は、すっかり綺麗になっていた。
「なんか召し上がります? 魚焼いたのに先輩ってば寝ちゃうから」
南野。可愛いぞ。
なんで口説かなかった、昔の俺。
「味噌汁が飲みたいな。あとなんかご飯ものが食べたいっ!」
俺は心なしか大きな声になってしまい、南野がクスッと笑った。
「はい、すぐにご用意しますね」
味噌を塗って焼いた香ばしい焼きおにぎりと、しじみのたっぷり入った味噌汁を締めに食べた。
「美味い。美味いよ、南野って料理上手だったんだな」
「ありがとうございます。胡桃沢先輩も仕事、大変なんですね」
俺はすっかりお腹がいっぱいになり満足していた。
小料理屋の女将になった後輩の南野香澄に俺の目は釘付けだ。
彼女は手際よく洗い物をして、俺の横に座った。
「お茶、どうぞ」
「ありがとう。まあ仕事は辛い日もある。俺だけじゃないよ、働くやつはみんな大変だよな。南野だってそうだろ?」
「ええ」
南野は昔のことを思い出したのか苦い笑いをした。
誰だって、辛いことの一つや二つ抱えてる。
俺は南野が入れてくれた温かいお茶をすする。
渋い味わいに頭がスッキリとしてきて、不思議と酔いも少し抜けた。
「ごちそうさま。また来るよ」
「ええ。お待ちしております」
小料理屋『南風』の女将は外まで出て来て、俺にいつまでも手を振ってくれていた。
また来るよ。
南野の店『南風』に。
「そういや、あいつ結婚してんのかな?」
彼氏とかいないと良いな。
口説く気満々の自分に、思わず笑っちまう。
俺もげんきんな男だな。
ほろ酔い気分でさっきまであった仕事への憂鬱な気持ちも吹っ飛んで、俺は足取りも軽く家に帰る。
ちょっとスキップしたいぐらい機嫌が良くなっていた。
おしまい♪
俺はこの日は特別にへとへとヘロヘロに疲れ果てていた。
心も身体も五臓六腑の奥の奥から隅々まで、疲れでドロンと溶けそうだった。
外回りに、急な顧客の納期の前倒しと書類の不備の直しをして、夢中で残業をしてた。
はあ〜。やっと終わった。
仕事帰り、もう俺の腕時計の針は午後10時半を指している!
晩飯はまだ食っていない。
腹、減った!
あ〜、なんか食いたい。
そして酒が飲みたい。
俺は駅からの帰り道に、偶然、ちっちゃな小料理屋を見つける。
わりと新しいマンションの一階に、三軒の店が並ぶのが、ふと目に入った。
こっちは、芳《かぐわ》しい匂いがしてる。
赤提灯が軒下に見えてる焼き鳥屋さんで。
(繁盛してそうだな。外まで酔っぱらいの声が聞こえんなあ。今日は静かに飲みたい)
真ん中は、営業時間が終わり閉まっているが楽器屋さんかな。
ギターやピアノの形のオブジェが置いてある。
そして右横が小料理屋……『南風《みなみかぜ》』か。
店の入り口に紫陽花《あじさい》や日々草が飾られて咲いている。
『南風』の佇まいを見て決めた。
落ち着いた蕎麦屋のような構えで白木の看板に引き戸だ。
初めて入る店はちょっと気後れするが、俺は勇気を出して暖簾をくぐった。
「いらっしゃいませ」
女将は穏やかに愛想よく笑い気品を感じさせる。
ハッとするほどの美人だ。
俺は店に入った瞬間に目を奪われていた。
へえ、小料理屋の女将は艶やかな和服姿である。
背はすらっと高くて、ほっそりとした体つきに、目が少しだけキリッとした美人だ。
店はカウンターの席だけだ。
七人ほどしか座れない。
「お好きなトコへどうぞ」
綺麗な花が随所にさり気なく飾られている。
客は今、俺以外は誰もいない。
コトコト鍋の音がしている。
(いい匂いだなあ。早くなにか食べたい)
美味そうな匂いに空きすぎた腹の虫がギュウッと鳴る。
「こんないい店あったんだね」
「ありがとうございます。なんになさいますか?」
俺は一瞬見惚れてしまった。
女将の微笑みがあどけなくて、びっくりした。
彼女の落ち着いた雰囲気にわりと俺に近い年齢かと思ったが、若そうだな。
「あっ……。え〜っとビールもらえる? あと適当に女将のおすすめで良いから、ツマミちょうだい」
「はい。では先にこちらを」
さっとビールと出て来たのは、お浸しだ。
「小松菜の煮浸しです」
女将がビールを注いでくれる。
和服の袂《たもと》を抑えながらビールの瓶を持ち、ニッコリと笑う女将に、もう俺の心が奪われている。
俺は少しくびれたグラスに美味そうに注がれたビールを、一気に乾ききった喉に流し入れる。
――最高だ。
仕事の疲れも吹き飛ぶ。
きめ細やかな泡のビールをグイッとまた飲むと、さっきまでの仕事に戦い挑んでいた気持ちが落ち着き、力がふうっとぬける。
女将と他愛もない世間話を一言二言交わす。
あっという間に酒の肴の何品かが、俺の前に並ぶ。
モロコシのかき揚げ、だし巻き卵にれんこんの煮物、きゅうりと生姜の浅漬か。
うんっ、美味い。
どの料理も味付けが俺好みだ。
特に好きなのは、だし巻き卵だな。
次に俺の前にはどーんと大皿が置かれる。
「やった! 唐揚げだ。唐揚げも出てきた〜。感激だなあ。俺、唐揚げが大好物なんですよ」
大皿に盛りつけられた唐揚げは山盛りで迫力ある見た目だ。
大根おろしと山芋のすりおろしの上に、玉ねぎ入りのタレがかった鶏の唐揚げはとてもボリューミィーだな。
「白ダシベースのトロトロタレで仕上げた『癒やしの雪見唐揚げ』です。疲れた体に滋養の山芋が効くかなと思います」
女将は『癒やしの雪見唐揚げ』に、さらに海苔をぱらぱらっと散らし、ちょこんとわさびも添えてくれる。
「う〜ん『癒やしの雪見唐揚げ』ですか。素敵なネーミングですね。美味そう。……うんっ美味いっ」
揚げた鶏と大根はよく合う。
山芋は力がつきそうだ。
刻んだ玉ねぎがシャキシャキで。
から揚げなのにくどくない。タレは少し甘いが、大根おろしの効果かさっぱりとした後味だ。
箸がすすむ。
いくらでも食べられる。
ビールを二本飲んでからレモンサワーと紫蘇の焼酎を飲んで、俺は仕事の疲れも忘れて、だいぶ良い気分だった。
酔いが心地よくまわる。
女将は俺の話にじっと耳を傾けてくれて、絶妙なタイミングで相槌を打つ。
「愚痴なんてみっともないと…思うのに、ついつい女将には……なんでもベラベラと……喋って……………」
俺の瞼《まぶた》が重い。
睡魔が俺を夢の世界に誘《いざな》う。
「……先輩。胡桃沢真哉《くるみざわしんや》先輩ってば」
耳元に女将の声がする。
酔って寝ちまった。
周りを見渡すとさっきまで客がいたらしく、女将が皿や酒の瓶を片付けている。
よく寝たな。
初めて来た店なのに。
「胡桃沢先輩、ぐっすりでしたね。揺すってもなかなか起きないんですもん」
女将が俺に親しげに笑いかける。
へっ?
えっ?
俺の名前……なんで知ってんの?
酔っ払って教えたのかな。
「はあっ?!」
よおく女将の顔を間近で見たら、高校の時の剣道部の後輩に似てた。
「南野……? もしかして南野?」
「そおですよお。私の方は先輩に気づいたのに、先輩ったら、私だってまったく気づかないんだから」
後輩の南野香澄《みなみのかすみ》は、すっかり綺麗になっていた。
「なんか召し上がります? 魚焼いたのに先輩ってば寝ちゃうから」
南野。可愛いぞ。
なんで口説かなかった、昔の俺。
「味噌汁が飲みたいな。あとなんかご飯ものが食べたいっ!」
俺は心なしか大きな声になってしまい、南野がクスッと笑った。
「はい、すぐにご用意しますね」
味噌を塗って焼いた香ばしい焼きおにぎりと、しじみのたっぷり入った味噌汁を締めに食べた。
「美味い。美味いよ、南野って料理上手だったんだな」
「ありがとうございます。胡桃沢先輩も仕事、大変なんですね」
俺はすっかりお腹がいっぱいになり満足していた。
小料理屋の女将になった後輩の南野香澄に俺の目は釘付けだ。
彼女は手際よく洗い物をして、俺の横に座った。
「お茶、どうぞ」
「ありがとう。まあ仕事は辛い日もある。俺だけじゃないよ、働くやつはみんな大変だよな。南野だってそうだろ?」
「ええ」
南野は昔のことを思い出したのか苦い笑いをした。
誰だって、辛いことの一つや二つ抱えてる。
俺は南野が入れてくれた温かいお茶をすする。
渋い味わいに頭がスッキリとしてきて、不思議と酔いも少し抜けた。
「ごちそうさま。また来るよ」
「ええ。お待ちしております」
小料理屋『南風』の女将は外まで出て来て、俺にいつまでも手を振ってくれていた。
また来るよ。
南野の店『南風』に。
「そういや、あいつ結婚してんのかな?」
彼氏とかいないと良いな。
口説く気満々の自分に、思わず笑っちまう。
俺もげんきんな男だな。
ほろ酔い気分でさっきまであった仕事への憂鬱な気持ちも吹っ飛んで、俺は足取りも軽く家に帰る。
ちょっとスキップしたいぐらい機嫌が良くなっていた。
おしまい♪