最悪の気分で入った玉森家だが、出るときはその分晴々としていた。
「このまま鬼束に向かうぞ」
「えっ?」
 あの夜の決着がついていない。
 伽夜は涼月と鬼束が戦ったのはおろか、顔を合わせたことすら知らないままだ。
 彼女の気配を頼りにあの山の麓に辿り着き、酒呑童子が気を失った伽夜を抱いて現れたとだけ言ってある。
「なにかありましたか?」
「鬼束には異能がある。酒呑童子を伽夜に合わせたのは鬼束だ」
 黒木はピクリと眉を歪める。
「やはり」
 融資を断られた華族に金を融通し、見返りに貴族院の票を集めようとしているらしい。
 なにを企んでいるのかわからないが、これから長い戦いになりそうだ。
「今後あの男を伽夜には絶対に近づけるな」
「はい。わかりました」
 鬼束邸は玉森邸から離れている。地図にすれば、ちょうど高遠邸を挟んで一直線に反対側だ。
 おまけに玉森は高遠に近い。高遠を警戒するあまり、伽夜の存在を見つけられずにいたんだろう。
 鬼束家のほかの一族は京都にいて、帝都にいる鬼束は伯爵の要だけだ。母と妹の三人で暮らしている。
 さっき玉森公爵を問い詰めた。
『鬼束要から縁談がありませんでしたか?』
『えっと……』
 玉森公爵は言葉を濁した。
 恐らく鬼束から口止めされていたのだろう。
 彼が玉森家を訪れたのは伽夜が、高遠家にきた次の日だったらしい。まさか女学校卒業と同時に高遠家に出されたとは思わなかったようだ。
 公爵一家が伽夜を邪魔者扱いしたから早々に出したわけだが、結果的にそれがよかった。
 鬼束は伽夜の額の痣を気にかけていたという。
 涼月が痣を消す前に伽夜と会っていれば、どんな条件を出してでも縁談を進めたに違いない。
 酒呑童子が俺でなければ赤鬼に伽夜を預けると言った。
 今は鬼束も完全に伽夜の素性に気づいたはず。簡単にあきらめるとは思えない。
 つらつら考えるうち、車は鬼束邸に到着した。
 突然の訪問なので、会えるかどうかはわからないが、黒木が車から降りて訪問を伝えに向かう。
 ひとまず涼月も車から降りた。
 晴れていた空が、いつの間にかどんよりと曇っている。すぐにでも雨が降りそうだ。
 鬼束邸は通りからはまったく中が見えない。
 高く囲う塀と、見上げるほど高い鉄格子のような門。涼月はその門の前に立った。
 日本橋の悪鬼を追い詰めたのはこの屋敷の近く。この位置からも見える北側の通りだ。
 鬼束を疑ったが、あれは鬼束とは関係ない。
 というのも、酒呑童子は伽夜の相手を涼月でなければ鬼束要にしようとしたと聞いたからだ。酒呑童子が人に近い愛娘を悪鬼に預けるとは思えない。
 鬼束は、少なくとも人は襲わない鬼の眷属に違いないだろう。
「お会いになるそうです」
 黒木の言葉と同時に、内側から門が開く。
 車を外で待たせて、邸まで歩くことにした。
 この屋敷は新しい。五十年前の騒動時に鬼束一族はいったん京都に戻り、東京に戻ってきたのは十年前。スキャンダルにより爵位を返上した華族からこの屋敷をそっくり買い取っている。
 薔薇が咲く洋風の庭は所々に高木があるが日当たりが良い明るい庭だ。
 ここにあやかしはいない。少なくとも今は。
 正面に見える母屋は白い西洋の城のような外観の建物である。
「ようこそ。いらっしゃいませ高遠様」
 明るくにこやかな使用人に迎えられた。
「当主は少々体調を崩しておりまして、お茶でも飲みながら少しお待ちいただけますでしょうか」
 黒木は客間の手前にある控えの間に案内され、涼月が通された部屋は南に面した明るく広い客間である。
 ソファーに腰を沈め、出されたコーヒーを飲みながら鬼束要を待った。
 部屋をぐるりと見回しても、使用人の心を読んでも、なにも怪しさはない。彼は完璧なまでに、異能の影すら隠しているようだ。
 鬼束要はガウンを羽織って現れた。
「やあ公爵、どうしました?」
「具合が悪いところ申し訳ない。特に用事があるわけではないが、通りかかったのでね」
 向かいのソファーに腰を下ろした彼は、すでに異能を涼月に見せたせいか、今日は目を逸さなかった。
 心は読めなかった。鬼束要の心はぽっかりと空いた暗闇のようにしか見えない。
 それがわかっているのだろう、彼はにやりと口角を上げる。
「〝見せたくない〟のでね」
 なるほど、〝跳ね返す〟異能を持っていると言いたいらしい。
「随分、つらそうだが」
 あちこち傷が見える。手の甲に、組んだ脚の先。顔色も悪く疲れて見える。先の戦いで相当負傷したようだ。
 対して涼月はすでに完治している。伽夜の力のおかげで。
 鬼束はフンと鼻で笑い、コーヒーカップに手を伸ばす。
「伽夜には君と会った話はしていない。そのつもりでいて欲しい」
 ちらりと涼月を見た彼は、小さく頷いた。
 これみよがしの舌打ちともに「合うわけないのに」と呟くように吐き出す。
「それは心外だな。俺たち夫婦は愛し合っているし、お父上にも祝いをもらったが?」
 コーヒーを飲みながら眉をひそめた彼は、カップを置くと大きな溜め息をついた。
「のろけに来たわけですか」
「あと、もうひとつ。この辺りで、鬼を見失ったことがあってね」
 じっと見つめると、鬼束は真顔で見つめ返してきた。
「それがなにか? 我が家に鬼がいるとでも?」
「なにか知らないかと思いましてね」
 彼は憮然として再び溜め息をつく。
「もし探したいならどうぞ? だが、酷い言われようだ。我が家は長い間風評に苦しまされてきたのに、まだそんなことを言う〝異能〟の者がいるとはね」
 微かだが目線に怒気を強めた彼が『調子に乗るなよ』と脳内に直接声を送ってきた。
 なるほど、そんな異能もあるらしい。
『お前、天狗だろ』
 それには答えず席を立つ。
 実際のところ、この屋敷内に鬼の気配はない。
 ただし目の前の鬼束はもまた、意識的に気配を隠しているが。
「それじゃ失礼する。お疲れのところすまなかった」
「いーえ」
 二度と近づくなとは言わなかった。
『お前に伽夜はやらない』と、念を送ると、鬼束は鼻で笑った。
 油断はできないが、彼も人社会で生きている。
 無謀な真似はしないだろう。