◆九の巻

(かわいそうに、嫁に来てまでそんな思いをしていたのか)
 涼月は車の中から空を見つめ伽夜の涙を思い浮かべた。

「お体は大丈夫ですか?」
 振り向くと黒木が気遣わしげにジッと見ていた。
「ああ。もう大丈夫だ」
 伽夜が夜中に家を出たのは三日前。
 深夜の騒動を家の者はなにも知らない。黒木もだ。
 朝方目覚めた伽夜と話をした後、涼月はホッとしたように眠りについた。鬼束との戦いで、かつてないほど体力を消耗していたらしく、伽夜のベッドに入ったまま丸一日、一度も目を覚さずに眠りこけたのである。
 目覚めると伽夜が心配そうに覗き込んでいた。
『伽夜』と声をかけると彼女は泣き崩れ、キクヱが大慌てで黒木を呼びに行き、それはもう大変な騒ぎだったらしい。
 あやかしとの戦いに疲れ半日寝続けたときはあるが、一日中というのは今回初めてだ。それほど鬼束との戦いは熾烈を極めた。
 俺もまだまだだなと反省しつつ、苦笑する。
「心配かけたな。すまない」
「何かありましたか? 実は先日、夜明け前に、伽夜様の窓が開いているのに気づき、なにものかが見えたような……。その後すぐ涼月様も顔を出されたのを確認したので安心していたのですが」
「そうだったのか。実は酒呑童子が来てな。少し話をした」
 黒木はギョッとしたように目を剥く。
「酒呑童子? 京の都にいるのではないんですか」
「気まぐれに来るらしい」

 黒木は高遠の遠縁にあたる家の出だ。
 異能があっても不思議はない。あやかしも付喪神もはっきりと見えはしないようだが、気配を感じる程度に鋭い勘を持つ。
「伽夜の父は酒呑童子だ」と短く耳打ちした。
 黒木は無言のまま、深刻な表情でうなずく。
「全力で守ると決めた。よろしく頼む」
「わかりました」
 一年契約ではなく、永遠にと想いを伝えた。
 伽夜の悩みも胸の内もよく聞き、心が溶け合った実感がある。

 酒呑童子からも話を聞けた。
『伽夜にはどんな力が?』
『小夜子が残した〝癒し〟の力だ。お前はすでに実感しているだろう?』
 伽夜を抱きしめると全身に力が漲る感覚を覚えるのは気のせいではなかった。
 手首に巻いた紐に目を落とす。
 伽夜だけでなく、この紐にも回復させる力があるのかもしれない。
 体中にあった細かい擦り傷は、丸一日寝ている間に跡形もなく消えた。
 夕べ心を通わせ伽夜を抱いた。すると深手の傷も消えたのだ……。
 伽夜は宝だ。
 そう思うだけで、胸が燃えるように熱くなる。

『私は高遠の嫁として、鬼の娘であるのを卑下していました』
『それは違うぞ。酒呑童子は誇り高い鬼の首長だ。高遠の力にはなっても、力を削ぎはしない』
 伽夜はうれしそうに微笑んだ。
『ありがとうございます。ととさまにも言われたのです。遠慮と卑下は違うと。私は両親を誇りに思います』

 だからこそ許せない。
「それで、玉森にはどういったご用件で?」
 これから伽夜の実家、玉森家に行く。
「後悔させてやろうと思ってね」
 黒木は当然だと言わんばかりに大きくうなずく。
「聞けば聞くほど酷い話であったからな」
 フミや捨吉だけではない。御膳所の料理人に黒木が聞いた話によれば、伯爵夫人や萌子から、伽夜には使用人と同じ食事を出すよう指示されていたという。
 朝の握り飯はともかく、野菜の切れ端の味噌汁とイワシだけという食事。たとえ使用人であっても、酷い扱いである。
『一度だけお夕食に伽夜様が呼ばれたそうですが、そのときのお客様は助田子爵だったそうです。公爵夫人は助田子爵と伽夜お嬢様を結婚させようとしていたと、後になって聞きました』
 助田は純血種の人間ではあるが、人の形をした悪の塊だ。いっそ人でなければ斬首できるものを。 いずれにせよ助田の悪い噂を玉森公爵夫人が知らないはずはない。
 怒りのまま、拳を握る。
(絶対に許さない)
 公爵には、訪問を前触れしてある。
 訪問の理由は言っていない。