「倒す理由がありません」
 鬼の存在を否定する気はない。
 少なくとも酒呑童子が善人を襲ったという記録はない。
 鬼の首長が見境なく人を襲う鬼であれば、今より悪鬼は増えていたはずだ。そういう意味でも酒呑童子の存在意義は高い。
「教えてください。伽夜を守るにはどうすればいいのか。悪鬼が伽夜を狙う恐れはありますか?」
「悪鬼は――強くなるために伽夜の血や涙を欲しがるかもしれぬ。我の血をな」
 血と聞いて背中に緊張が走る。

「もしや、心臓を狙われた女も鬼と関係が?」
「あれは違う。たまにいるのだ。鬼が好む血をもつ女が」
 酒呑童子は、伽夜の瓢箪を手に取り蓋を開けて匂いを嗅ぐ。
「この酒を毎日飲ませるといい。悪鬼も我の匂いに恐れ襲いはしないし、あやかしに憑依される心配はない。大天狗だろうと憑依はできぬ」
 酒呑童子は涼月を見てにやりと笑う。
 なるほど。伽夜の心が読めない理由に通じるのかと納得した。

「伽夜にはどんな力が?」
「小夜子が残した〝癒し〟の力だ。お前はすでに実感しているだろう?」
 癒やしと聞いて合点がいった。
 驚くほど傷の治りが早いと思っていたが、伽夜を抱いて寝ていたおかげだったのか。
「伽夜になにかあったらただではおかぬ。覚えておけ」
 そう言い残し、酒呑童子はひらりと窓に立ち、闇に消えた。

 間もなく夜明けだ。
 茜色に染まり始めた東の空に、明けの明星が輝いている。
 涼月は伽夜が眠るベッドの枕元に腰を下ろした。
 あらためて服装を見れば、伽夜は髪をひとつに束ね、マントを羽織り男のような洋装を着ている。
(密かに出かける準備をしていたのか)
 まったく気づかなかった。
 伽夜の心を掴みきれず、苛立つ気持ちを持て余すように伽夜を抱いた。
 己の身勝手さに呆れるばかりだ。
「はぁ……」
 重い溜め息を吐く。
 伽夜はおとなしいが、気が弱いわけじゃない。
 考えをしっかりと持っているのはわかっていたが行動力まであるとは。
 鬼の血を引くとはいえ、丑三つ時に家をこっそり出て夜道を進むなど、不安で怖かっただろうにと思う。
(もしかしてそれほど嫌なのか? 俺が? この家が?)
 そうでないと信じたいが、自信はない。
 伽夜はいつもどこか悲しそうだった。
 伽夜の笑った顔を思い浮かべてみたが、掴めば指の間からサラサラと落ちていくような気がしてかぶりを振る。
 だが、それでも明るい笑顔に嘘はないはずだ。
 翳りは見えなかった。それとも目まで曇っているのか?
 伽夜のことになると、すべてに自信がなくなる。
 なぜ伽夜が悲しげな表情をするのかと、ふとした瞬間に考えてしまう。
『寝ても覚めても気になって仕方がない。キクヱ、なんとかして探ってくれ』
 たまりかねてキクヱに言うと、笑われた。

『涼月様、それを恋と言うのですよ』
『俺は伽夜がなぜ悲しそうなのか知りたいだけだ』
『ええ、ええ。そうでしょうとも』
 心当たりがないわけじゃない。
 舞踏会で、伽夜に目を輝かせる鬼束伯爵に憎悪の炎が揺れた。
 今夜もあの男が伽夜と一緒だと思うだけで、感情を抑えられなかった。
 伽夜の笑顔に安心し、些細な表情の陰に一喜一憂する。
 自分には決してないと思っていた情愛の炎。
 心を支配するこの感情は――。
 これが恋なのか?
 涼月はふと寒気を感じ、我が身を顧みて苦笑する。

 寝巻きのまま飛び出していたのだ。
 剥き出しの足や腕、胸もとは擦り傷だらけだ。
 鬼束と戦っているときにできたのだろう。寝巻きの浴衣は、ところどころ破けている。
 戦うときは洋装と決めているのに。
 着替えるだけの気持ちにゆとりがある伽夜と、まったく余裕のない自分。比べるまでもないと苦笑いが込み上げる。
 伽夜の寝顔に語りかけた。
「両手を挙げて降参だ」
 これが恋ならば制御しようがない。

(どこまでも、溺れてみよう。伽夜、お前に)