◆七の巻
 
「捨吉まで雇ってくださるとは思わなかったわ」
「ええ、本当に。喜ばしいです」
 伽夜とフミが乗る人力車を引いている俥夫は、玉森家でよく頼んでいた捨吉だ。
 舞踏会の三日後、高遠家に捨吉が来た。
 捨吉は、伽夜が女学校を卒業してから、玉森家には出入りしていないそうだ。
 玉森家の御用達ではあっても専属ではなかったのもあるが、常々フミに『伽夜お嬢様がお気の毒だ』と不満をこぼしていただけに、思うところがあったのだろう。専属で雇うとまで言われたのを断ったらしい。
 とはいえ、その分収入が減った。妻も子もいる身なので、虚勢を張っても辛かったに違いない。
 黒木から高遠家で働いてほしいと頼まれ、フミのほかにも玉森家をクビになった者もいると聞き、ホッとしたように膝から崩れ落ちたという。
 伽夜の顔を見たときは涙を流して喜んだのは言うまでもない。
「フミが推薦してくれたの?」
「ええ。ご主人様が用心棒にもなれる人を探していたのですよ。捨吉は空き時間で武道も習うそうです」
「すごいわ。頼もしいわね」
 フミが「捨吉さん、伽夜様が頼もしいって」と声を張り上げる。
 話が聞こえたのか、捨吉が「安心してくださいませっ!」と威勢のいい声をあげた。
「よかったです。伽夜様がこうして出かけるようになられて」
 人力車に揺られながら、フミはうれしそうに伽夜を振り返る。
 捨吉が来た次の日から伽夜はさっそく出かけていて、つい先日は杏と演劇を見に行ったし、今日はフミと買い物だ。
 いままで遊びにいくのは自分には贅沢だと思っていた。。
 着物などいろいろ買ってもらっているだけで十分だったし、自由に動き回るのは、一年後に離婚してからでいいと。
「外にでると、気持ちも晴れ晴れとしますでしょう?」
「そうね」
 邸に籠もるのも苦痛じゃないが、こうして人力車に揺られていると、胸が躍るのは事実だ。街はどんどん新しいものができていくし活気に溢れている。
「涼月さんに私は遠慮深すぎるって言われたわ。もっとこうしたいああしたいって我儘を言えって」
 本当に優しい人だと思う。我儘になれと勧められるとは、夢にも思わなかった。
「そうですよ。伽夜様はもっと我儘を言わなければいけません」
 伽夜は思わず笑う。
「私、そんなに我慢しているように見える?」
「そうではありませんが、とにかく遠慮はおやめくださいね」
 特に遠慮しているつもりはないので、涼月にも同じように聞くと、お小遣いを渡された。
『じゃあこれで、いいなと思うものを買っておいで』
 買い物は夏物の洋服と靴。一着だけのつもりでいたが、フミがそれだけではダメだと言う。
『ご主人様から最低でも五着は買うようにと申しつけられているのですよ』
 それならばと靴も五足買った。
「私は幸せ者ね」
 優しい夫に、親切な使用人たち。
 できることなら、このまま皆と幸せな毎日を過ごしたいと思う。もし自分が〝普通〟の女性であるならば、その夢は叶えられたか。
「もっともっと、伽夜様にはたくさんの幸せが待っておりますよ」
 なにも知らないフミが微笑む。
「そうね――。ありがとう、フミ」
 だが自分の出生の秘密を片時も忘れない伽夜は小さく微笑む。
(私には、フミが思っている幸せとは別の未来が待っているの)
 これから予定通り甘味処に寄る。杏に教えてもらったと言ったが、本当は杏にはどんな店か聞いただけだ。

 実はそこで、秘密の待ち合わせをしている。
 相手は、鬼束伯爵。
 杏も涼月も、誰も知らないが、舞踏会でのわずかな時間に、伽夜は鬼束伯爵と話をした。
 そして、約束したのだ。
『酒呑童子に会いたいんです。どこにいるか教えてくださいませんか』
 彼は、桜田門の近くの甘味処の名前を告げた。五がつく日の午後三時にはその店にいると。
【あなたが来るまで通います。待ち合わせの場所はそのときに】
 今日は五日で時刻は午後の三時。鬼束伯爵がいるはずだ。