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「五時頃、迎えに戻るからね」
「はい」
 玄関先で涼月が乗る車が見えなくなるまで見送った伽夜は、大きく息を吸って緊張を和らげた。
 今夜伽夜は鹿鳴館の舞踏会に参加する。
 フミが「いよいよですね」と頬を高揚させた。
 伽夜が公の場にでるのは初めである。大切に思う主人が高遠家の公爵夫人として御披露目されるとなれば、フミとしても平常心ではいられないのだろう。
「ちゃんと踊れるといいけれど……」
「大丈夫ですよ、たくさん練習したんですし、先生にも褒められたじゃないですか」
 高遠に来てから、伽夜はいくつか習い事をしているが、その中にはダンスのレッスンもある。
 普段は先生に来てもらって踊っているが、昨日は黒木とフミを伴って伽夜はダンスの先生の練習所へ行ってきた。広い練習場で靴を履いたまま生演奏の音楽で踊るという本番さながらの練習で、伽夜は先生から太鼓判を押されたのだ。
『完璧です。公爵夫人は鹿鳴館の蝶と謳われるでしょう』
 でも先生はなにをしても褒めるからあてにならない。
 それに舞踏会にはきっと叔父一家も来る。彼らと顔を合わせるのは、なんとも気が重い。きっと萌子も来るのだろう。
 萌子の憎悪に満ちた目を思い出し、溜め息が漏れる。
 フミが心配そうに首を傾げた。
「ご友人の方ともお会いになられるんですよね? 女学校の」
「あ、そう。そうなの」
 気鬱なことばかりじゃない。舞踏会には親友の杏も来る。
 杏と手紙のやりとりをしているが、舞踏会には彼女も両親と参加すると書いてあった。
「なによりの楽しみだわ」
 会うのは卒業式以来になる。
 モダンガールの彼女は髪を切ったという。早く見たいし、職場での仕事の様子なども聞いてみたい。
 杏との再会に胸を躍らせるうち、いくらから緊張が解けた。
 天気がいいから外でお茶をしましょうと、庭にある 四阿 (あずまや)に向かった。
 四阿からは池も見渡せるし、すぐ、近くで咲くシャクヤクの花も楽しめる。伽夜のお気に入りの場所だ。
「今夜はご友人の方と、思い切り楽しんでくださいね」
 伽夜は「ええ」と、うなずいたものの、ふと首を傾げた。
「私、もしかしてつまらなそうに見える?」
 気をつけているつもりだが、鬱々とした思いが表に出ていたのだろうか。
「いえいえ、ただ伽夜様は我慢強くていらっしゃるから心配になるんです」
「無理をしていないかって?」
「ええ。そうです」
 フミは心配そうに伽夜を見る。
「私にはなんでもおっしゃってください。ご主人様にも誰にも言いませんから」
「フミ……」
「本当はなにか悩んでいらっしゃるのではありませんか?」
 思わずハッとした。
 ひと言も口にしていないはずなのに、どうしてわかってしまったのか。
「ここならば、ご実家の話をしても心配いりませんから」
 人の目を気にせず話ができるよう、フミが気を利かせたのだ。
「昨日、ダンスの先生のところに出かけたとき、周りを気にされている様子に、もしやと思ったのです。気鬱の原因は萌子お嬢様ではないですか?」
 図星だったが、どうしてフミがそう思ったのかがわからず、伽夜は困ったように眉を下げて口を閉ざした。
「キクヱさんから聞きました。ドレスを作りに出かけたとき、玉森公爵夫人と萌子お嬢様に会ったそうですね」
「ええ……」
 あのときはなにも聞かれなかったが、キクヱはなにかを感じたのだろうか。
(萌子との会話は聞かれていないはずだけれど)
 伽夜と萌子が短い会話を交わしたとき、キクヱは叔母の公爵夫人と話をしていたのだ。
「キクヱさんは、萌子お嬢様が伽夜様を見る目つきが、とても気になったと言っていました」
「それは、萌子が、私を嫌いだから」
 苦い笑みを浮かべると、フミは溜め息をつく。
「萌子お嬢様は、伽夜様に嫉妬しているのですよ」
「え? 私に? まさか」
 寝耳に水だ。
 萌子は美人で、両親に愛されて。美味しいものを食べ、綺麗な服を着て。伽夜にはないものをすべて持っている。
 いったい自分のどこに、なにを羨むというのかと、伽夜には到底信じられない。
「伽夜お嬢様は女学校でも成績優秀。苦労していても嫌な顔もせず、明るく皆に愛されて、花のように美しい」
「成績って。萌子は成績がよくないの?」
 叔母はいつも萌子を褒めていた。
「伽夜お嬢様が通われた女学校に行かれなかった理由は、萌子お嬢様はお勉強が苦手だからなんですよ」
 萌子が通った女学校は勉強はあまりせず、通り一遍のことしかやらないとは聞いていたが。女に学問は必要ないというのが叔父の口癖だったから、当然だと思っていた。
 伽夜が通った女学校は、卒業後、杏のように仕事をする子や教師になる子もたくさんいる。叔父はそんな教育方針を嫌っていたのだ。
「もしかして萌子は、本当は同じ学校に行きたかったの?」
「ええ。奥様に止められたのです。伽夜様に成績で負けるのはよくないと。ご主人様が女性に学が必要ないと言ったのも、萌子お嬢様を慰めるためだったのですよ」
 知らなかった。
「そうだったのね……。でも、それ以外は」
 使用人と仲がよかったからと言って、気位の高い萌子が気にするとは思えないし、彼女は控えめに言っても美人だ。