涼月の首元に頬を寄せた伽夜は、それだけで胸がいっぱいになる。
ほのかに漂う涼月の香。すっきりとした丁子の匂いを感じながら、そっと彼の胸に手をあてると、穏やかな呼吸が伝わってくる。
まるでひとつになったようで、胸の奥がキュンと疼く。
「あやかし退治はしばらく休みだな」
ハッとした。やはり涼月はあやかしの退治に出かけていたのか。
怪我の理由が知りたい。伽夜は首を上げて、一言一句を聞き逃さないよう耳を澄ました。
「最近ずっと追いかけている邪悪な鬼がいてね。日本橋で起きた殺人事件を知っているだろう?」
「はい」
伽夜がまだ女学校に通っていた一月。吉原の遊女がなぜか日本橋で遺体となって見つかった。
あけぼの色に染まる街で、雪の上に広がった赤い襦袢と長い黒髪。
女性は間もなく年季が明ける遊女で、危険を犯して逃げる理由が見つからないとされた。
吉原から日本橋まで徒歩で一時間ほどかかる。裸足だし、その派手な衣装のままというのは普通に考えておかしい。
殺害され車や馬車で連れ去られたとしても、なぜわざわざ目立つ場所に遺棄したのか。
数々の疑問があるうえに、心臓だけがなくなっていたとわかり、大騒ぎになった。
「あれはやはり、あやかしの仕業だったのですか?」
世間では鬼の仕業に違いないと噂れたが、あえて伽夜はあやかしと言った。
できれば鬼の仕業ではないと思いたかったのだ。
「そうだ。若い女の心臓を喰らう鬼だ」
鬼という言葉に、ズキッと胸が痛み、思わず「鬼……」と呟いた。
しかも心臓を喰らう鬼と聞いて、恐怖に息を呑む。
「人と同じで鬼にもいろいろいるからね」
鬼にもいろいろ……。
「悪い鬼ばかりでは、ない?」
「ああ。人には興味を示さない鬼もいる」
なるほどと密かに胸をなで下ろす。
酒呑童子もそうであってほしい。もう少し鬼について聞きたいが、今はそれよりも彼の怪我だ。
いったいなにが起きたのか。
「それで? その悪鬼を見つけたのですか?」
涼月はうなずく。
「その鬼が残した気配を頼りに探し歩いていたんだ。ようやく見つけても、すばしっこいやつでね。それでも今日ようやく倒せたよ」
「すごい! すごいです!」
日本橋の事件の後にも、同じ日本橋で同じような遺体が見つかり、新聞で大騒ぎになっている。
その恐ろしい犯人を彼は倒したのだ。
「お怪我は、そのときではないんですか?」
涼月は動きを確かめるように負傷した左手を上げ、指を動かす。
「鬼を倒して気を抜いてしまったんだ。後ろから警備員が近づいていたのに気づかなかった。近くに華族の屋敷があってね」
ではやはり、彼を襲ったのは人なのか。
「異能がなければあやかしは見えない。鬼が消える直前の黒い煙はごく普通の人間でも見えるが、闇夜ではそれも見えない。深夜にうろつく黒装束男は不審に思われて当然だからね。警備員の行動は当然だ」
「それで、襲われてどうなったのですか?」
「面倒だから逃げてきた」
「えっ」
驚いた伽夜は体を起こす。
涼月はクスッと笑うが、笑い事ではない。それでは疑われたままだ。
「黒いマントに黒い帽子を被り、口元まで黒い布で覆い隠していたから誰も俺だとはわからない。その警備員を納得させるには警察を呼び、あやかしの仕業だと証明しなければならないだろう?」
「ああ……、そうですね」
涼月は異能を公けにしていない。
「警察にはいろいろと協力しているから問題はないが、倒したあやかしが日本橋の事件の犯人だと新聞屋が嗅ぎつければどうなると思う? 我が家に人々が押しかけてきて大変な騒ぎになるだろう」
新聞屋と聞いて伽夜はハッとした。それは困る。なにかのはずみで伽夜の出生の秘密が明るみになってしまうかもしれない。
だが、だからと言って……。
「人々の平和のために悪いあやかしと戦っているのに、不審者と誤解されたままだなんて」
そんなのあんまりだ。
「悲しいです」
うつむく伽夜の頬に、涼月の右手が伸びる。
「大丈夫だよ。こんなことは二度と起きない。人前で戦うときは、人にあやかしの姿が見えるよう先に術をかけておくからね」
頬から下りた指が、伽夜の顎をすくい、唇が重なる。
本当は戦わないでほしい。
「泣かないで、伽夜。――しばらく夜は出かけないようにする」
「本当ですか?」
「ああ。毎晩、伽夜と一緒にいよう。夕食をとってこのベッドで抱き合って眠るんだ」
(涼月様……)
心は熱く震えるのに、胸の中から悲しみが消えない。
心臓を喰らう鬼。
人に興味を示さない鬼もいるというが、酒呑童子はどうなのか。
涼月に聞きたいが、なにを聞いても受け止めるだけの勇気はなかった。
ほのかに漂う涼月の香。すっきりとした丁子の匂いを感じながら、そっと彼の胸に手をあてると、穏やかな呼吸が伝わってくる。
まるでひとつになったようで、胸の奥がキュンと疼く。
「あやかし退治はしばらく休みだな」
ハッとした。やはり涼月はあやかしの退治に出かけていたのか。
怪我の理由が知りたい。伽夜は首を上げて、一言一句を聞き逃さないよう耳を澄ました。
「最近ずっと追いかけている邪悪な鬼がいてね。日本橋で起きた殺人事件を知っているだろう?」
「はい」
伽夜がまだ女学校に通っていた一月。吉原の遊女がなぜか日本橋で遺体となって見つかった。
あけぼの色に染まる街で、雪の上に広がった赤い襦袢と長い黒髪。
女性は間もなく年季が明ける遊女で、危険を犯して逃げる理由が見つからないとされた。
吉原から日本橋まで徒歩で一時間ほどかかる。裸足だし、その派手な衣装のままというのは普通に考えておかしい。
殺害され車や馬車で連れ去られたとしても、なぜわざわざ目立つ場所に遺棄したのか。
数々の疑問があるうえに、心臓だけがなくなっていたとわかり、大騒ぎになった。
「あれはやはり、あやかしの仕業だったのですか?」
世間では鬼の仕業に違いないと噂れたが、あえて伽夜はあやかしと言った。
できれば鬼の仕業ではないと思いたかったのだ。
「そうだ。若い女の心臓を喰らう鬼だ」
鬼という言葉に、ズキッと胸が痛み、思わず「鬼……」と呟いた。
しかも心臓を喰らう鬼と聞いて、恐怖に息を呑む。
「人と同じで鬼にもいろいろいるからね」
鬼にもいろいろ……。
「悪い鬼ばかりでは、ない?」
「ああ。人には興味を示さない鬼もいる」
なるほどと密かに胸をなで下ろす。
酒呑童子もそうであってほしい。もう少し鬼について聞きたいが、今はそれよりも彼の怪我だ。
いったいなにが起きたのか。
「それで? その悪鬼を見つけたのですか?」
涼月はうなずく。
「その鬼が残した気配を頼りに探し歩いていたんだ。ようやく見つけても、すばしっこいやつでね。それでも今日ようやく倒せたよ」
「すごい! すごいです!」
日本橋の事件の後にも、同じ日本橋で同じような遺体が見つかり、新聞で大騒ぎになっている。
その恐ろしい犯人を彼は倒したのだ。
「お怪我は、そのときではないんですか?」
涼月は動きを確かめるように負傷した左手を上げ、指を動かす。
「鬼を倒して気を抜いてしまったんだ。後ろから警備員が近づいていたのに気づかなかった。近くに華族の屋敷があってね」
ではやはり、彼を襲ったのは人なのか。
「異能がなければあやかしは見えない。鬼が消える直前の黒い煙はごく普通の人間でも見えるが、闇夜ではそれも見えない。深夜にうろつく黒装束男は不審に思われて当然だからね。警備員の行動は当然だ」
「それで、襲われてどうなったのですか?」
「面倒だから逃げてきた」
「えっ」
驚いた伽夜は体を起こす。
涼月はクスッと笑うが、笑い事ではない。それでは疑われたままだ。
「黒いマントに黒い帽子を被り、口元まで黒い布で覆い隠していたから誰も俺だとはわからない。その警備員を納得させるには警察を呼び、あやかしの仕業だと証明しなければならないだろう?」
「ああ……、そうですね」
涼月は異能を公けにしていない。
「警察にはいろいろと協力しているから問題はないが、倒したあやかしが日本橋の事件の犯人だと新聞屋が嗅ぎつければどうなると思う? 我が家に人々が押しかけてきて大変な騒ぎになるだろう」
新聞屋と聞いて伽夜はハッとした。それは困る。なにかのはずみで伽夜の出生の秘密が明るみになってしまうかもしれない。
だが、だからと言って……。
「人々の平和のために悪いあやかしと戦っているのに、不審者と誤解されたままだなんて」
そんなのあんまりだ。
「悲しいです」
うつむく伽夜の頬に、涼月の右手が伸びる。
「大丈夫だよ。こんなことは二度と起きない。人前で戦うときは、人にあやかしの姿が見えるよう先に術をかけておくからね」
頬から下りた指が、伽夜の顎をすくい、唇が重なる。
本当は戦わないでほしい。
「泣かないで、伽夜。――しばらく夜は出かけないようにする」
「本当ですか?」
「ああ。毎晩、伽夜と一緒にいよう。夕食をとってこのベッドで抱き合って眠るんだ」
(涼月様……)
心は熱く震えるのに、胸の中から悲しみが消えない。
心臓を喰らう鬼。
人に興味を示さない鬼もいるというが、酒呑童子はどうなのか。
涼月に聞きたいが、なにを聞いても受け止めるだけの勇気はなかった。